異質
子どもたちの嬌声が聞こえる。それは赤錆びたトタンの壁の、その向こうの町から響いてくる。でもそれはあり得ないことだった。右手には駄菓子屋がある、これは僕が小学生の時分にいった事のある店だ。軒下に露出の多い水着姿の女優のポスターが貼ってあり幼心になにか胸に疼くものを感じたこともよく覚えている。
だが、この眼前の古びたトタンの壁、あっただろうか。いや、なかった。ここは山へと続く茂った林道の入り口だったはずだ。
では、これは何なのだ。
これは現実なのだろうか。
壁のすぐ向こうで何かが蠢く気配があり、低いうめき声が漏れた。僕は少し後ずさった。
逃れることも喚くこともできず太陽にいじめられたアスファルトには陽炎が揺らめき、そこに蝉の声と子供の声が混ざる。汗が一滴、右目を掠めて落ちた。突如、大きな悲鳴が聞こえた。女の声だった。
嗚呼、と僕は思う。
僕は、間に合わなかったのだろう。
8月、僕は大学に休学届を出し、実家に帰ってきた。久しぶりの帰郷だったがなんの感慨もなかった。むしろ、ここで過ごした中高時代の陰鬱な日々、自分の劣等ぶりを思い出し、かえって気持ちが塞いだぐらいであった。
母さんは僕の突然の休学という現実逃避を意外にもこれといった言及もなく寛容に受理した。まあ、打ち明けた時点で学校に書類は皆、提出していたため完全な事後報告ではあったのだが。
玄関の引き戸を開けると流石になつかしさが胸にこみ上げた。
「お帰り」
母さんが居間から出てきた。
「皺が増えたね」
「あんたぁ、たたくよ」
休学したものの何か大きな理由があったわけではない。人生の小休止と言えば聞こえはいいが、つまり何もかも面倒くさくなってしまったのだ。
「あんたは昔っから、なまけもんじゃったけえねえ」
茶碗に飯を盛りながら母さんは言った。
「どのくらい休むん?」
「んー半年」
自分で決めておいてなんて自堕落なのだと思う。前途有望なものならこの期間を利用して世界旅行でもするのだろうか。将来面接なんかで休学の理由を聞かれたらどうこたえよう。実家でのんびり養生してました、なんて言えるか。いっそのこと世界旅行をしたとでっち上げてみるのはどうだろうか。いや、僕にそんなことを嘯くような度胸はない。
「お風呂、沸いとるけえ。ご飯食べたら入って」
風呂に入り、久しぶりに自室に向かった。軋む階段、二階の廊下はやはり生前の父の集めていた漫画本が無造作に平積みされ埃を被っていた。
突き当りの自室のドアノブを回したがなぜか鍵がかかっていた。
「母さん、なんか俺の部屋鍵かかってるんだけど」
「はあ?」
母さんは美顔器を手に呆けた顔をした。
「いや、俺の部屋」
「そんなわけないろうね。マー君の部屋じゃろ?」
「うん」
「鍵かけてるのは物置だけよ」
「いや、じゃけえ。俺の部屋だって。ちょっときてみ」
はあ?と首をかしげながら母さんは腰を上げた。二階の件の部屋の前に案内する。
「じゃけ、ここは物置じゃん」
母さんはそういった後で少し真剣な顔になり、「ちょっと大丈夫なん?」といった。
母さんのいう通り、僕の部屋は二階の、廊下の半ば右側に位置していた。ドアを開けると高校時代に熱中していたゲームソフトの山があり、漫画本があり、ベッドの下にはエロ雑誌の諸々があった。紛れもなく僕の部屋だった。
早めに部屋の電気を消した。ベッドの中で先ほどの出来事を反芻する。少し慄然とせざるを得なかった。人は住み慣れた実家の部屋取りを一年そこらで忘れたりするものだろうか、あまつさえ自室の位置を。最も驚愕すべきは自室が二階の突き当りに位置しているのだと確信し疑わなかったたことだ。
次の日、早朝五時に目が覚めた。子どもの時分から休日の朝は早く目が覚めた。休みを少しでも長い間体感していたいからだろうか自然と目が覚めるのだ。
引き戸を開けて外へ出る。まだ薄暗かった。足は自然と町でただ一つのコンビニに向かう。このコンビニまでの道のりは高校時代よく歩いたものだった。コンビニまでの約1キロの距離が丁度いい腹ごなしになるのだ。その小腹をコンビニで買った菓子やおにぎりで満たすのがささやかな楽しみだった。
その道の途中にはトンネルがある。車は通れない。180センチくらい上背があるものなら頭が天井にすれるのではないかと思うほどに小さなトンネルだった。
トンネルの中はひんやりとしており、スニーカーの靴音が大仰に反響する。少しだけ恐怖を覚え、歩みを速めた。
「わあっ!」
「うわああああっ」
大声を出して驚いてしまったがすぐに脅かされたのだと把握する。振り返らずとも犯人は分かっていた。
「美咲…さんかあ…」
「うわあああっ、だってさ。だっさー」
腹を抱えて豪快に笑うのは幼馴染の美咲だった。昔からこうして僕にちょっかいを出すことを好んでいた。こんな時、美咲が美人であったなら面白くもあるだろうが、そうでもないのでこちらは不快なだけだ。昔から怒ったように吊り上がった眼は未だに見慣れないし、実際些細なことでヒステリックを起こすこともあった。
「どこいくの」
「コンビニ」
「一緒に行くー」
面倒なことになった。と思いながらもコンビニまで歩いた。
「これ、買ってー」
美咲は清涼飲料水となにか流行りの栄養補助食を僕に手渡す。やはりこうなるのだとうんざり思った。僕はおにぎりをいくつか掴みレジへと向かう。
「いらっしゃいませ」
店員の顔を見て、僕は眩暈がした。店員は、人間ではなかった。それだけではない。それは蛸だった。蛸が二本の足で立っていた。
「ちょっと!まーくん聞いてる?」
美咲の声に我に返る。
「あのう、おにぎり、あっためますか」
その表皮はぬらぬらと白く光沢を放っている。僕のおにぎりは吸盤によって器用に持ち上げられ常時、分泌されているのだろう粘り気のある液体にまみれていた。
「えーと…」
蛸が困っている。
僕も困っていた。