撫でる
利彦と恵那が恋人になって、随分経つ。
学生時代からの付き合いで、同い年。
どちらも就職して、一人暮らしを始めて。
そろそろお金をため始めて、結婚の準備をしようかと言うところ。
お互いそんなことは改めて話もしないが、意識はしている。
恋人の期間を楽しんでいる最中、といったところだろうか。
年末も近いある日、利彦の部屋にやってきた恵那は、ご立腹のご様子だった。
ソファーに寝転んで飼い猫であるにゃん蔵を撫でている俊彦を、強烈に鋭い目で睨んでいる。
普通ならば慄くような冷たい視線だが、利彦はさして動じなかった。
いわゆるクールビューティな外見から兎角冷静な性格と思われがちな恵那だが、実際はそうでもない。
どちらかと言うと激情家で、感動屋なところが有るのを、利彦は良く知っている。
それなりに長い付き合いから、利彦は今の恵那の様子を、「何かしらの不満がある」程度の機嫌の悪さだと判断した。
一体何が不満なんだろうか。
そんな事を考えながら、利彦はにゃん蔵の腹を撫でる。
恵那の様子とは対照的ににゃん蔵は機嫌よさ気だ。
「なぁ、利彦」
「はいはい?」
恵那が口を開いたことに、利彦は少しほっとする。
こういうときは、自分から何が不満なのか言ってくれる予兆だからだ。
ものすごく機嫌が悪い、と言うわけではないから、恐らく大したことではないだろう。
「義務と権利と言う言葉を知っているか」
「なんかいきなり重そうな単語出てきたな」
「いいから」
説明してみろと、と言うように、恵那は手を動かす。
学生時代に習ったことを何とか思い出そうと、利彦は首を捻った。
「ええっと。義務が、やらなくちゃ行け無い事。だっけ」
「おおよそ合っている」
「権利が、たしか。していい、あるいは、しなくてもいい、っていう。ええっと、資格? 的な感じの」
「そうだな」
どうやら、ご満足いただけたらしい。
ご満足いただけたらしいが、一体今の質問がどう怒りに結びつくのだろう。
恵那は満足気に頷いた後、じっとにゃん蔵に視線を向けた。
「社会に生きるものは、それぞれに義務を果たし、権利を行使して生きている。それは人であろうとネコであろうと同じだ」
「ネコもか。生きるのも大変そうだな」
「もちろんそれは、にゃん蔵も例外ではない。現に今現在、にゃん蔵は権利を行使している」
言われて、利彦はにゃん蔵へと目を向ける。
腹をなでられて、満足そうにごろごろ言っていた。
不意に手を止めると、前脚と後ろ足で利彦に蹴りを入れてくる。
撫でろと言っているのだ。
また撫で始めると、やはり満足そうな声を上げ始める。
恵那の視線が、鋭く光った。
「ほらみろ」
「ほら見ろって言われても。にゃん蔵、いま寝転んでるだけじゃない?」
「そんなことは無いだろう。なでなでをされる権利を享受しているじゃないか」
「なでなでをされる権利」
それは権利なのか?
と言うような話をしだすと話がこじれてくるので、とりあえず受け入れる事にする。
「まあ、うん。撫でられては居るけど」
「それでだ。私と利彦は、恋人同士だったな」
「そうだけど」
「と言うことは利彦は私を、なでなでする義務が発生する」
「なでなでする義務」
なんだそれは、と突っ込みを入れたい利彦だったが、やめておいた。
恵那の目力がハンパなかったからだ。
「当然、恋人である私にはそれにともなう権利が発生する。なでなでをされる権利だ」
「にゃん蔵と同じヤツ?」
「そう。と言うわけで利彦は私のこともなでなですべきなんだよ」
要する撫でて欲しかったらしい。
恵那は時折、真顔で甘えてくることが有る。
それ自体にはなれたものだが、方向性的なものに驚かされることはしばしば。
利彦は少し考え、にゃん蔵を撫でる行為を続行する。
「しかしですな、恵那さん。それだと、にゃん蔵の飼い主である俺には、にゃん蔵を撫でる義務も発生するのではないでしょうかね」
「む」
恵那の表情が、いささか険しくなる。
これは面白い。
利彦は少しからかって見る事にした。
「確かに恵那さんの権利や俺の義務も大切ですが、にゃん蔵の権利を守ることも大切ではございませんかな。守ろう、にゃん権」
「にゃんけん?」
「ネコの権利的な」
「なるほど」
恵那はうめきながら、顎に指を当てた。
何か反論の糸口を探しているのだろう。
こういう妙な律儀さと言うか、そういうところを利彦は可愛いと思っている。
なので、時折こうして意地悪をしてやるのだ。
後で困ることになる場合が大半なのだが、そんなことは考えない。
楽しみとは何時も危険と隣りあわせなのだ。
「だが、利彦にも権利があるだろう」
「ほう、どんな権利?」
「私をなでなでする権利だ」
「私をなでなでする権利」
「なでなですると、気持ちいいだろう。満足感が得られるはずだ」
表情自体は変わりないが、恵那の顔は妙に赤い。
恥ずかしいなら言わなきゃいいのにと思わなくも無いが、そういう性分なのだろう。
「それは確かに。恵那を撫でてると気持ちいいからな」
「そうだろう」
「あったかくて、いい香りがするし。抱きしめると、幸福感が」
「それはもういい」
睨んでくる恵那だったが、迫力は無い。
「と言うわけで、はやくにゃん蔵をおろして私をなでなでするといい」
「だけどそれを言うと、俺にはにゃん蔵をなでなでする権利も無いか?」
「む。まあ、あるといえば、あるかもしれない」
「にゃん蔵は毛玉だし、もふもふだし、あったかいからな。抱っこしてると気持ちいいよ」
「それは、まあ、確かに」
恵那が僅かに怯んだ。
にゃん蔵のもふもふさは、恵那も良く知っている。
利彦の家に来た時は大体真っ先ににゃん蔵をもふっている恵那である。
否定できるわけも無い。
「ということは、数的にはおなじじゃない? 義務と権利の数。恵那が三つで、にゃん蔵も三つ」
「ぐぬぬ」
恵那は反論の糸口を探そうと、唸り始める。
惚れた弱みというのだろうか。
利彦にはそんな姿も可愛く見えた。
ソファーから起き上がり、恵那の後ろに回りこむ。
そして、ぎゅっと抱きしめる。
「今、考え事をしているんだが」
不快そうに、恵那は表情をゆがめる。
拗ねているわけではない。
恵那は思考に埋没すると、それ自体に没頭してしまうきらがある。
目的を忘れてしまうのだ。
そこもまた、利彦にとってはかわいかった。
「はいはい。邪魔しないように気をつける」
「そうか。ところで、私が利彦になでなでさせてやる義務、というのはどうだろう」
「それはにゃん蔵にも言えるのでは?」
「なるほど。その通りだ」
再び難しい顔を作ると、恵那は思考に埋没していく。
利彦は少し笑うと、その髪を撫でた。