衝撃の出逢い
「せぇ……のッ!!」
雲一つない快晴の青空に、甲高い音が響き渡る。
つい先日から今のような朝早い時間でも優しい暖かさを感じるようになった。そのせいもあるのか、薪を割るゼノ・シーリエの額は少しばかり汗ばんでいる。
「ふぅ。こんな所かな」
小柄な身体には不釣り合いなくらい無骨な斧を手放すと、ゼノは額の汗を拭った。もう結構な時間を薪割りで過ごしている。
足下にはかなりの数の薪が散乱していた。これだけあれば十分に過ごせる。暖かさを感じるようになってきた今、薪を使うのは料理の時と風呂を沸かす時くらいだ。暖炉を使わなくなった分、薪の使用量が減るのは助かる。
「今日も朝から精が出るのぅ、ゼノや」
散らばった薪を片付けようかと思った時、後ろから声をかけられた。
振り返るまでもない。声だけ聞けば誰かはすぐに分かる。
「おはようございます、村長」
「うむ、おはよう」
話しかけてきたのは、ゼノの住むリーシャ村の村長だった。蓄えた髭がたくましい老人だ。既に齢六十を数えているというのに、背筋もしっかりしている。日頃の農作業の賜物だろう。
「朝早くから薪割りとは。相変わらず元気じゃな」
「えぇ。でも村長も相変わらず早いですね」
村の皆はまだ寝ている時間だ。この村で生まれ育ったゼノは、村長が寝坊したという話を一度も聞いた事がない。
「はっはっは。いやなに、歳をとる程に朝も夜も早くなるんじゃよ」
「歳だなんて。まだまだ元気じゃないですか」
「ありがとうよ。ところでゼノや、薪割りはもう終わったのかな?」
「えぇ」
ちょうど今片付けようと思った所です、と付け加える。
「それは良かった。ちょっと頼みたい事があるんじゃが」
「頼みたい事? 何です?」
「これをな、立ててきて欲しいんじゃ」
言いながら村長は木で作られた板を取り出した。
「これって……例の立て看板ですか?」
板には大きな文字で、"この先、近寄るべからず"と書かれている。
ゼノにとっても、とても見覚えのある立て看板だ。
村長はゼノの問いに深く頷く。
「そうさ。村の子供達が、山道の途中で壊れているこの立て看板を見つけてきてな」
あーぁ、と思わず苦笑する。
リーシャ村は、山奥の高台につくられた村だ。村の外は森が繁り、切り立った崖もある。野生の獣や――魔物もいる。
であるから、リーシャ村では子供達が村の外に出る事を禁じていた。
村長の持つ立て看板は村の外、山の麓へと続く山道の途中に立てられていたものだ。
それはすなわち、子供達が勝手に村の外へ出た事を示している。
随分と叱られたんだろうなと思った。普段は温厚な村長だが、こと村の外へ出る事にだけは酷く厳しい。
その昔、ゼノ自身も好奇心から山道を歩いてみた事がある。その時は三時間近い説教を延々と受けたものだ。
「それを直したんじゃが……儂も歳なのでな。この時間じゃと皆はまだ寝ておるし」
「それで僕の所へ?」
「あぁ。頼まれてくれるか?」
さして断る理由もない。いいですよと二つ返事で応えると、村長はすまんなと言いながら看板を渡した。
「それじゃあ、この薪だけ片付けたら行ってきます」
「ありがとう、頼むよ」
受け取りながら、今日は自分の部屋に置く棚を作ろうと思っていた事を思い出す。
さっさと片付けて行ってこよう。そんな事を考えながら、ゼノは足下に散らばる薪を片付け始めた。
◆
「えーっと……お。あったあった、ここだ」
村から山道を下りてきたゼノは、看板が立てられていた場所へと辿り着いた。
先日の悪天候で折れてしまったのだろうか。看板を立てていた木材の欠片が転がっている。
「よい、せっと!」
勢いよく、看板を地面に突き立てる。
「よし。頼まれ事はこれで完了っと」
目の前にある立て看板。ゼノが物心つく前から立てられているものだ。
以前村長に、先には何があるのかと尋ねてみた事がある。単純な興味本意だったが、近付いてはならんの一点張りだった。
ほんの少し、目を凝らしてみる。
そこには、一体何を吸って育ったのか、天を突かんばかりに聳え立つ一本の樹があった。
そして、その脇にひっそりと佇むもの。
一振りの――剣。
遠目ではあるが、それが剣である事はゼノにも分かる。
だが、それがいつからそこにあるものなのかは分からない。村の大人達に聞いても口を濁すばかりだし、村長は言わずもがなだ。何故こんな所に剣が――それもたった一本だけ――突き立てられているのか、ゼノには知る由もなかった。
考えても仕方がないか。そんな風に考えて、屈んでいたゼノは立ち上がった。
――ちょうど、その時だった。
カサッと、奥の茂みが動いたような気がした。
一瞬の事だったし、そちらを注視していた訳でもない。ふと、視界の隅で何かが動いたような気がしただけだ。あるいは、立ち並ぶ木々に風が凪いだだけかもしれない。
それでも、気になった。
だから――ゼノはその方向を――奥に突き立てられた剣の少し手前辺りに目をやった。
やったのだが。
ゼノの視界に問題の場所が映る事はなかった。
「おフッ!?」
突然、胸に衝撃を覚えたと思ったら、そのまま勢いに負けて山道の逆側の端まで吹き飛ばされた。
「いてて……ひぇッ!?」
思わず声が裏返った。
衝撃に吹き飛ばされながらきりもみ回転したゼノは、うつ伏せの状態で横たわっていた。彼が吹き飛ばされたのは山道の端。先程看板を立てた場所とは逆側の――切り立った崖になっている所だったのだ。
そんな所に横たわるゼノの肩から上は山道から飛び出している。そしてうつ伏せの状態。という事は。
「ひ、ひぇぇぇぇ……!」
自分でも驚く程に情けない悲鳴と共に、ゼノは無意識に上体を上げる。彼の眼下には切り立った崖の遥か下を走る山道の続きがあった。
ここから落ちたら、間違いなく死ぬ。崖には途中掴まれるものもなく、斜面は急過ぎて落下の勢いを軽減する事も出来そうにない。
崖から遠ざかりたい一心で上体を反らすゼノだったが、身体に妙な重みを感じた。
何かが、ゼノの下半身に乗っている。
「え……ちょ、ちょっと?」
それは、人だった。
身体を回せないので顔は見えないが、大人の男性だ。小柄なゼノと比べると、およそ二倍近くの大柄な身体が、ゼノの身体にのしかかっているのだ。
「う……」
男性は、どうやら気を失っているようだった。先程ゼノが覚えた胸の衝撃は、男性が吹き飛んできてゼノにぶつかったものだと理解した。
「ちょっと! おじさん! 大丈夫ですか!?」
「う……ぁ……」
「お、重……起きて! 起きて下さいよ! おじさぁぁぁぁん!!」
◆
数十分後。
何とか男性を自分の上からどかし村まで引きずって来たゼノは、自分の家に辿り着いていた。
「ぷはぁ……助かったぜ、坊主」
男性は少し前に目を覚まし、ゼノが差し出した水を一気に飲み干した。
男性からコップを受け取りながら、ゼノは聞き返す。
「は、はぁ。それは構いませんけど……何だってあんな所にいたんです?」
「あぁ、そりゃあ……」
男性はそこで口をつぐんだ。
ゼノにとっては不思議だった。村の人間でも、立て看板の場所には滅多な事では立ち寄らない。その上、男性は村の人間ではなかった。もしそうであるならば、ゼノが知らないはずはないからだ。そんな人間があの場所に立ち寄る理由などさっぱり見当がつかなかった。
「まぁ、色々と事情があってな。この付近を探るついでに立ち寄っただけだ」
「探る? 何をです?」
「事情があるって言ったろうが。察しろ」
そんな無茶苦茶な。そう言いたくなった気持ちをゼノは抑えた。おそらくこれ以上尋ねた所で男性は答えないだろう、そう思ったからだ。
例の剣についての村長達と同じだ。理由は定かでないが、男性はこの話に触れて欲しくないらしい。だから話をはぐらかしている。
それを感じたゼノは、話題を別の方向へと振った。
「まぁいいですけど。ところで、おじさんはどこから来たんですか? 村では見かけない顔で――あでッ!?」
言い掛けた所で、ゼノの頭に鈍い痛みが走った。
突然の事に目をパチクリと見開いた彼の目に、男性の鋭い視線が突き刺さっていた。どうやらゼノは男性に殴られたらしい。男性の左拳が堅く握られていた。
「な、何するんですかぁ……?」
痛む頭を擦りながら、ゼノは恐る恐る尋ねてみる。
すると、男性はやれやれと顔を横に振りながら応えた。
「殴ったんだ」
「分かってますよそんな事!!」
さも当然のように言った男性に、ゼノは反射的に叫んでしまう。彼が聞きたいのはそこではなかった。何故殴るのかと問いたかったのだ。
ゼノの気持ちを察したかのように、男性の視線が一層鋭くなる。
「誰がおじさんだ、てめぇ」
「えぇ!? そこ!?」
続く予想外の回答。もはやゼノは混乱するばかりだ。
そんなゼノを前に、男性は大きく溜め息をつく。
「確かにお前はガキだが、俺はお前におじさんなんて呼ばれる謂れはねぇ」
そこでようやく、ゼノは理解した。
ゼノの年齢は十四。小柄なのもあり年齢より幼く見られてしまう事もあるが、もう自分は子供ではないと自覚してきたくらいの年齢だ。
対して目の前に胡坐をかいた男性は、少なくともゼノより年上だ。切る事すら面倒なのか襟足まで伸びたざんばらの黒髪。突き刺すような鋭い眼光。鍛え上げられた大きな体つきに妙な迫力も相まってやたらと貫録を感じる。
だが、見た所二十代半ばがせいぜいだった。三十は超えていないように見える。
ゼノは前にも似たような経験があったのを思い出した。
近所に住む青年の歳が二十を数えた頃、もう他のおじさん達と見比べても負けてないですよと口にした事がある。今目の前にいる男性とは違い殴られはしなかったものの、その青年は俺ももうおじさんなのかとあからさまに肩を落としていた。
今のゼノがそうであるように、二十歳そこそこの年齢というのは大人とそうではない若者との境目に位置するのだろう。そんな立場の人に対して"おじさん"と決めつけてしまうのは、失礼な事なのだ。おそらく、ではあるが。
「ご、ごめんなさい」
「……何やらとんでもなく失礼な事考えてねぇか、お前」
「じゃあ……お兄さん、って呼べばいいですか……?」
「無視か」
どうすればいいのだろう。何と呼べばこの男性は許してくれるのだろう。
生まれてから今まで村の外に出る事などほとんどなかったゼノには、言葉のボキャブラリーというものがまるでなかった。
「はぁ……ったく。セヴィルだ」
「うーんうーん……へ?」
頭の中で全く浮かんでこない適した表現を絞り出そうと唸っている所へ、ヒョイと答えを示された。
「俺の名前だよ。そう呼べ」
「は、はぁ……セヴィルさん、ですね」
「そうだ」
ゼノは心から安堵した。ようやく男性――セヴィルが納得する答えに辿り着く事が出来たようだ。
「で、お前の名前は?」
「ゼノです。ゼノ・シーリエ」
「……何?」
ゼノの名を聞いた途端、セヴィルの眉が再度ひそめられた。
またやってしまったのだろうかと不安になる。ゼノはセヴィルの視線から目を反らすように俯くと、小さく頭をかばった。また殴られる、そう思った。
――だが。
いつまで経っても、頭に衝撃が走る事はなかった。
恐る恐る、突然の衝撃を覚悟しながら目を開いてみると。
「……あれ?」
そこには、驚いたように目を見開いたまま固まっているセヴィルがいた。
まるでこの世に在るべきではない異形の何かでも見たかのような表情。つい先程まで目の前にいた男とは全くの別人にすら思える。
彼は、ゼノを凝視したまま止まっていた。
「せ、セヴィル、さん?」
沈黙に耐えられず名前を呼んでみる。
恐る恐るセヴィルの顔色を伺うと、ようやくその閉ざされた口が開いた。
「ゼノ……シーリエだと?」
「へ?」
「それが、お前の名前だってのか?」
「え、えぇ。そうです、けど」
何だろう。何か問題があるんだろうか。
セヴィルの知る他人と同じ名前だったとか。言いづらくて舌を噛んでしまったとか。
たくさんの憶測がゼノの頭の中を飛び交う。冷静に考えればそのどれもが理不尽にも程がある問題ばかりなのだが、セヴィルの迫力に圧されているゼノは得体の知れない罪悪感に苛まれていた。
「……ゼノ・シーリエ……ねぇ」
「あ、あのぅ……」
何だかよく分からないけど謝ってしまおう。そう思った。全くもって事情は分からないが、周りを包み込む重苦しい空気を一刻も早く変えたかった。
何か、すみません。そう、ゼノが口にしようとした寸前だった。
「……はっ。パッとしねぇ名前だな」
「えぇッ!? これだけ引っ張ってそれですか!?」
「何だ。何か他に言って欲しかったのか? 名前負けし過ぎだとか」
「……いえ、別に」
何故こんな理不尽な罵倒をされなければならないのだろうか。自分でつけた名前でない以上それをどうこう言われてもどうしようもない。それに、そもそもパッとする名前とは何なのだろうか。セヴィルという名は果たしてパッとするのか。
そんな事を思いはしたが、セヴィルの持つ妙な迫力に負けて何も言い出せなかった。
「にしても……随分と小さな家に住んでるんだな」
セヴィルが辺りを見回しながら話題を変える。
「あはは。まぁ僕一人ですからね、このくらいで十分なんですよ」
「一人暮らしなのか?」
「えぇ、まぁ。僕、両親がいないので」
事実だった。別に隠している訳でもなかったから、自分でも驚く程にあっけらかんと言ってのけた。
ゼノには、両親がいない。彼が産まれて間もなく、事故で亡くなったと聞いている。
それからは村長に引き取られて暮らしていたが、ゼノの歳が十を数えた所で一人暮らしを申し出た。
村長の家が嫌だった訳ではない。村長やその家族には本当によくして貰ったし、心の底から感謝している。一人暮らしをしようと思ったのは、村長に迷惑をかけたくなかったからだった。
「……すまねぇ。そういうつもりじゃなかった」
「あぁいえ、気にしないでください。物心ついた時にはもういなかったですし」
ばつが悪そうな顔で呟くセヴィルに、ゼノは笑いながら返す。
「それに、両親の事、何も知らない訳でもないですから」
「そうなのか?」
「えぇ」
明るく笑いながら応えると、ゼノは軽く目を細め、窓の外を見上げた。
「冒険者だったらしいんです、僕の両親」
「冒険者?」
「はい」
まだ幼かった頃、自分には何故親がいないのかと村長に泣き付いた事がある。その時に教えて貰った事を思い出して、何だか懐かしい気持ちだった。
「世界各地を旅してまわる。たくさんの人達と出逢いながら。たくさんのものを見つけながら。そんな風に暮らしていたんだそうです」
「……そうなのか」
見た事もない場所へ行き、見た事もないものを目にし、見た事もない人達と出逢いながら旅をする。最近でこそ少なくなったようだが、それをするのが冒険者と呼ばれる人々なのだそうだ。
目的があったのかどうかは分からない。何かを手に入れたくて旅に出たのかもしれないし、何か成したい事があって旅に出たのかもしれない。もしかしたら、ただただ見知らぬ世界に惹かれただけなのかもしれない。
そういうのが、いいなとゼノは思う。
「両親がそうだったからって訳じゃないんですけど……いつか僕もそんな風に世界中を旅してみたいな、なんて思ってるんですよ」
「そいつは壮大な夢だな」
「あはは。本当にそうですよね。いつになる事やら」
自分でもそう思う。
だが、そんな未来を楽しみにしながら日々を頑張って過ごせる程度には、魅力的な夢だ。
「ふ……う……」
ゼノが自分の夢に浸ってしまったが為に訪れた沈黙に、セヴィルは退屈そうに伸びをした。
「あ、ごめんなさい。退屈でした?」
「あぁいや、そういう訳じゃねぇんだが。どうにも疲れが溜まってるみてぇでな。少し眠くなってきやがった」
「こんな所で良ければくつろいで行って下さい。何もないので、ちゃんとしたお構いなんて出来ませんけど」
「そうか? 悪ぃな。それなら軽く寝かせて貰うぜ」
「僕はちょっと出掛けますから、ごゆっくり」
「あぁ」
言うが早いか、セヴィルはその大きな身体を横たえた。少しして、彼の口から小さく規則的な息遣いが聞こえてきた。大分疲れていたのだろう。
セヴィルが寝入ったのを確認して、ゼノは立ち上がった。彼を運んでくるのに忙しくて後回しにしていたが、村長に立て看板を直して来た事を伝えなくてはならないのだ。
ふと、セヴィルの傍らに置かれた、彼の荷物に目をやる。
布で包まれた大きな荷物。とにかく長い。それこそ、セヴィルの大きな身の丈程もある。
全体を布で包まれている為に中身が何なのかは分からない。
あれは一体何なのだろうとゼノは思ったが、すぐさま考えるのをやめた。きっと考えても分からないし、セヴィルに聞いた所で答えてはくれないだろう。それが分かる程度には、セヴィルの人となりを理解したつもりだった。
さて、さっさと村長の家に向かおう。
そう思い直すと、ゼノは家を後にした。
◆
「そうかそうか。もう直ったのかい。ありがとうよ、ゼノ」
「いや、あのくらい。大した事じゃありませんよ」
「いやいや。あの山道は意外と傾斜がきついからの。お前が引き受けてくれて良かったよ」
村長に立て看板が直った事を伝えると、村長は優しく微笑みながら感謝してくれた。
ゼノ自身は大した事をしたとは思っていないのだが、何やら妙に感謝してくる村長に、照れ臭さを禁じえなかった。
「もう昼御飯は食べたのかい?」
「いえ、まだです」
言われてみればもう昼時だ。先程からいい匂いがしていると思ったが、きっと村長の奥さんが料理をしているのだろう。
「良かったらウチで食べて行くといい」
「え、いいんですか?」
「あぁもちろんだ。立て看板のお礼も兼ねてな」
「いやそんな、お礼なんて」
「いいんだよ。今日は家内が山菜の炒め物をこしらえて――」
その時だった。
耳を劈く、破滅の咆哮が鳴り響いたのは。