海上の遭遇
「うげぇッ!?」
実に少女らしからぬ声がユニの口をついて出た。それはもはや無意識の産物で、心の底からの嫌悪の現れだった。己の視界を封じるか即座に別の場所へ移動する魔法を覚えていたならすぐでにも使いたい衝動に駆られたが、残念な事にそんな魔法は知らなかった。
それは、尋常ではない程に巨大なタコのような姿をしていた。
「帆を下ろせ!! 手の空いてる奴は船室を閉じて状況の確認! 損害を最小限に抑えろ! 急げ!!」
バズートが矢継ぎ早に指示を出す。船そのものを守る目的もあるだろうが、第一は貨物を守る事なのだろう。最悪の場合は船を見捨ててでも守らなければならない。それが貨物を預かった者の責任と言わんばかりだった。
普段ならすぐにもそれを手伝おうとしたかもしれない。あるいは、それを成そうと慌てふためく船員達を守ろうと行動をし始めたかもしれない。
だが、それは出来なかった。視野一杯に広がる巨体に意識を奪われ、身体中から力が抜けてしまいそうだった。
「呆けてんじゃねぇ」
だらりと下げた腕を引かれて我に返る。大して力が入っていなかったから身体ごと引き寄せられた。
瞬間、寸前までユニが立っていた場所に大量の海水が叩き付けられた。
「……ッ!?」
叩き付けられたのはたかが水だ。されどかなり高い位置から放られたそれは甲板に打ち付ける勢いをそのまま保つように跳ね上がり、ユニの頬を濡らした 。
傍らを見やる。ユニの手を引いたのはセヴィルだった。
「何してる。海水被って気持ちいいなんて状況じゃねぇぞ」
「わ、分かってるわよ!」
口をついて出る反抗心。助けられた事に対する照れ隠しを多分に含みつつも、自身を奮い立たせる為に大声を出した。
「で、でか……ッ! でっかいイカだッ!!」
状況を何とか把握しようとでも思ったのかゼノは目の前に見てとれる景色を口にする。あれはイカじゃなくてタコだと言いたい衝動に刈られたが、そんな暇などないのは分かっている。
似たような事を考えたのかそうでもないのか、ユニの手を放したセヴィルが大きく溜め息をついた。
「イカでも魔物でもねぇよ。ありゃあクラーケンだ」
「くら、あけん?」
「妙な所で切るな」
クラーケン。その名だけはユニも聞いた事があった。
広大な海原に住まう巨大な海洋生物。深海を回遊する事が多く遭遇するのは稀だが、時折海上に姿を現しては目につくものに襲い掛かり食らい付く、獰猛な気性の持ち主だと昔読んだ本に書いてあった。
しかし、巨大とは書いてあったがここまでとは。貨物を運搬する為にかなり大きな造りの運搬船と比べて、二倍か三倍くらいの高さを誇っていた。そのせいで頭頂部がしっかりと確認出来ない。ユニとゼノがイカだのタコだのと認識を統一出来ないのはそれも理由の一つだった。
「厄介な奴に遭っちまったな」
「や、厄介なんですか?」
「かなりヤバいわよ!」
本の知識をそのまま信じるならクラーケンの主な攻撃手段は大量の触手だ。長くしなやかなそれを船体に絡め、締め上げる。そうして押し潰される船から逃れようと海へ飛び込んだ所を狙ったかのように食らうらしい。
「ブオォォォォォォォォォォォッ!!」
辺りの大気を震わせる雄叫びと共に、巨大な頭部の中程でギョロリと覗くこれまた巨大な瞳が獲物を探している。
ふと、その瞳と目が合ってしまう。ユニは途端に首筋を撫でられるような悪寒を感じた。
そんな事を呟いている暇もないので口にはしないものの、タコはユニが世界で三番目に忌み嫌う存在だった。弱味を曝すのは嫌なので絶対に口にしないが。
「せ、セヴィルさんッ!! な、何とかしてくださいッ!!」
目の前の巨大な姿に焦燥を増すゼノが口早にセヴィルに捲し立てていた。遠距離から攻撃する手段を持たない彼にしてみれば、今この場で出来る事はないと判断したのかもしれない。ただ単純に慌てふためいているだけかもしれないが。
だが彼の気持ちも分かる。ユニとて本での事前知識があるとはいえ、正直どうしたらいいのか見当がつかなかった。
そんな二人の気持ちが伝わったのか――
「何言ってやがる。お前等で何とかしろ」
――セヴィルは、さも当たり前のように言い放った。
開いた口が塞がらない。瞬間、時が止まったかのようにユニ達は全く同じ表情で固まった。
セヴィルとの付き合いは所詮一週間と少しばかり。互いの事を分かり合っているとまで言える間柄ではないし、むしろ分からない事で溢れかえっていると言ってもいい。顔を見慣れてきたとは言え短過ぎる付き合いだ。
だがそれでも、彼が言わんとしている事がはっきりと伝わってきた。
――あのクラーケンを何とかしろ。ゼノとユニの二人で。
「「えぇぇぇぇぇッ!?」」
数秒の間を置いて二人の声が重なりあった。
「ち、ちょ、ちょっと待ってくださいよ! 二人で!? 僕達で!?」
「いくら無茶にも程ってもんがあるわよ!! 相手はあんなに巨大なタコよ!?」
「タコじゃなくてクラーケンだ」
「どっちでも同じよ!!」
「あのなぁ……」
やれやれと言った具合にセヴィルが肩を竦める。これまで何度も見てきた姿だ。いくら付き合いが短くとも、次に出てくる言葉は想像に難くない。
「お前等、永遠に見習いやってるつもりか?」
槍で突き刺すかのような一言だった。意図も主張も一切が端的に含められていた。
そんなんじゃあ卒業はさせてやれねぇぞ、と彼の目と言葉が雄弁に告げてくる。
ユニ達二人はセヴィルの下でハンター見習いをしている立場だ。見習いを卒業しハンターとなる為には彼の提示した条件を満たし、彼に認めさせる必要があった。
その条件こそが、何かでセヴィルを超える事、なのである。
何とも漠然としていて実にハードルの高いこの条件を、二人はアルトリアを発つ時に提示されていた。
にも関わらず、いきなりそんな事でどうするのか。これからセヴィルを超える為に頑張ろうという第一歩目から彼に頼りきって何を見せつけてやると言うのか。
そう考えると、直前に己の口から発した言葉に苛立ちを覚えた。
「うぬぬ……それも、そうね……」
「分かったらとにかく動け。奴は待ってくれねぇぞ」
「分かってるわよッ!!」
分かりきった事を意地悪く言ってくるセヴィルの言葉を遮り、船を絡めとろうと触手を伸ばすクラーケンに向き直る。
さっきまでのは無しだ。いくら嫌いだと言ってもただ逃げ出すのは自分らしくない。あんなのは図体が大きいだけのタコだ。大嫌いなタコだ。幼い頃に不気味に思ってから幾度となく苦い思いをさせられてきたタコなんだ。
そう自身に言い聞かせる。積年の恨みを晴らさんが如く自らを奮い立たせ、たった一つの目的に心を集中させていく。
「≪雷よ。汝は閃光。汝は炎。深淵の闇さえ切り開く、裁きの力を見せつけろ≫――」
言霊を紡ぐ。身体中を力が巡り練られていくのを感じる。魔力の高まりだ。
いける。いけ、と強く念じてそれを解き放った。
「――≪エクル・ヴォルトォォッ≫!!」
ふっと身体から力が抜けていく感覚。身体の中心で練り溜めた魔力が腹から胸へ、胸から腕へと伝わる。詠唱と共に巨大な嫌悪の対象へと突き出した掌を通じてそれは世界へと干渉し、事象を引き起こした。
ジジジと耳障りな音が空間を疾走する。目にも止まらぬ速度で瞬く間にクラーケンの体表に達した雷の束は、反応さえも許さずその巨駆を貫いた――かに見えた。
「えッ……?」
思わず目を見開いて大きく瞬きをする。それが寸前目の当たりにした光景を信じたくない思いから無意識にとった行動だと気付くのに数瞬を有した。
「ブオォォォォォォォォォォォッ!!」
クラーケンが一際大きく唸り声を響かせた。悲鳴というよりは怒声に近い。自身の食事を邪魔する者への怒りを露にしているのが見てとれた。ダメージを与えるどころかいたずらに刺激しただけのようだった。
直前の光景が脳内で再生される。
ユニの放った雷が、クラーケンの体表を滑り落ちた。
「嘘ぉッ!?」
ユニよりも早く、傍らで呆然と状況を眺めていたゼノが叫んだ。もう少しそれが遅ければユニの方が叫んでいたのだろうが、うるさいと一喝したくなった。
そのぐらい、動揺していた。
ユニとて何の考えもなしに雷を放った訳ではない。水は電気をよく通すという。だから、水性生物は電気の塊である雷に弱いと考えた。今もって海水を被ったままのクラーケンの身体には雷が流れ易いと思ったのだ。
だが現状を鑑みるにそれは早合点でしかなかったらしい。
それがどうにも受け入れ難くて、何故なのかという疑問に思考を支配されるユニは混乱をきたす一方だった。
「呆けんのは後にしろって言ってんだ」
風を斬る重たい音が耳に届いた途端、バラバラと何かの残骸がユニの足下に散らばった。無造作に引きちぎられたようなそれは、ついさっきまでユニの目の前にあった船体の脇に設置されていた何かの装置だった。思考が迷走するユニには、それが海面へ小船を下ろす為のものだとは分からなかった。
ユニの頭上から降り注ぐそれを、セヴィルが大剣で凪ぎ払ったのである。
「ちょ、な、何で雷が効かないのよ!?」
とにかく思考の定まらない中では、大部分を占めている疑問を口にするので精一杯だ。
軽くユニに目をやったセヴィルは小さく肩を落とし、それから彼女に背を向ける。
「おいこらゼノ。テメェは何してやがる」
「な、何って? と、とにかく荷物を船室に運ばなきゃって……」
彼の視線の先には、ただただ慌てふためく事しか出来ないままのゼノがいた。
普段なら全力で否定する所だが、今この時だけはおたおたと落ち着かないゼノに乗っかりたかった。
攻撃魔法を使えない彼はクラーケンに対して有効な攻撃手段を持たない。怪我をした者達に回復魔法をかけるなり、場が荒らされないように邪魔になりそうな荷物を退けるなりして間接的に援護をする事くらいしか思い付かないのだろう。
無理もない。それしか出来る事がない。ユニとて心からそう思う。思うのだけれど。
セヴィルが二人で何とかしろと告げた中で攻撃魔法を扱えるユニに状況を一任してくるゼノに少し怒りを覚えた。
「それはお頭達に任せろ。テメェが手ぇ出すだけ奴等の邪魔だ」
ユニの怒りが多少なり伝わったのか、セヴィルはゼノにきっぱりと言い放つ。先程までとは状況がまるで違う。緊急事態に際して不慣れな者の中途半端な手助けは二次災害を招きかねないのだ。
「じ、じゃあ僕はどうしたら……?」
「だから言ったろう、クラーケンを何とかしろって」
「だって僕、ユニみたいに魔法とか使えませんよ!」
ゼノの言う通りだ。今この場でゼノに出来る事は何もないとユニも思う。
だが――
「そんなのやってみなけりゃ分からねぇだろ」
――さも当たり前のようにそれを否定する大人がそこにいた。
何を言っているのかと声を荒げたかった。少し考えれば分かるだろうと。いくらクラーケンが運搬船に肉薄する勢いだとはいえ、甲板からではそれなりに距離もあるのだ。近接戦闘が出来ない以上、彼に出来る事などないはずではないかと。
声をあげられなかった理由は二つ。
今も船に襲い掛かるクラーケンを見据えるのにユニ自身が意識を置こうと努めていた事と――傍らから聞こえてくるセヴィルの言葉に有無を言わせぬ迫力を感じた事だ。
まだ短い付き合いであるが、しかし昨日今日の付き合いでもない。彼がこんな風に話す時は二人の反論を聞き入れる気がない時だという事は流石に分かっていた。
「ッ! セヴィルッ!!」
目の前で波が跳ねる。それに煽られて甲板の縁が、まるで濡れた紙のように千切れた。
声をかけたユニの方を見やりもせずに、セヴィルは手にした大剣を頭上に払い、軽々と木の破片を弾き飛ばしていた。
ゼノの方を見据えたまま、彼は続ける。
「で、でも……」
「でももだからもねぇ。とにかく行って――」
ふぇッというゼノの声が聞こえた。注意をそちらに向ける余裕がないので何が起こったのかは分からなかった。雷が効かないのなら他の方法でと思考を巡らせる事に必死だった。
だから。
「――来い」
「えええぇぇぇぇぇぇぇぇッ!?」
悲鳴のような絶叫のような、とにかく悲痛な叫びが耳に入った事で反射的に身体を竦めてしまった。クラーケンの姿から目を放してはならないと努めていたのに、瞬間その事を完全に忘れ去って声の方へと視線を移した。
目にした光景をそのまま言葉にするのなら。
ゼノが、空を舞っていた。
「っはぁぁぁぁぁぁぁぁッ!?」
襲撃を受けている事などすっかり頭の中から掻き消え、つい先刻海の中から巨体が姿を現した時と同じくらいその光景に目を奪われた。
放たれた人の弾丸は空を裂き、綺麗な放物線を描いた後――クラーケンの身体の上にへばりつく。ビタンッという擬音がよく似合うであろうその姿にユニの表情は歪んだ。
「ち、ちち、ちょっと!! 何してんのあんたは!?」
「何って。ゼノを投げ飛ばしたんだが」
「何で投げ飛ばすのかって聞いてんの!!」
「うるせぇな。喚く元気が残ってんならしゃきっとしろ」
慌てて突っ掛かるユニにセヴィルは変わらず気怠そうに告げてくる。その様相があまりにもいつも通り過ぎて、驚きや苛立ちを覚えるどころかむしろユニを冷静にさせた。
ちょっと待てよ、と自分を押し留める。ついさっき、自分は何と考えたのか。
ゼノは遠距離から攻撃する手段がない。だから、甲板上では彼に出来る事はないと思った。
甲板上では。
「あんたまさか……」
「ここでやれる事がねぇならやれる事があるトコへ行きゃあいい」
的中である。おそらく自分は今、先程のクラーケンにへばりついたゼノの姿を見た時以上に辟易した表情をしているだろう。最近、嫌な予感ほど当たる気がするのは気のせいか。
セヴィルは言葉通りの事を実践したのだ。甲板上で出来る事がないのなら、出来る事がある場所へと行けばいい。近接戦闘しか出来ないゼノにとってそれはクラーケンのすぐ傍だ。それこそ、海面に出ている巨体の上などだろう。
だからって人を投げるなんて。それも、ゼノなんかよりも数十倍は大きな運搬船を今まさに襲撃している巨大なクラーケンの目の前に。
いくら何でも非常識が過ぎる、と言いたくて堪らなかった。
「ッ!? ≪ウル・クランブルッ≫!!」
視界の端にクラーケンの触手が伸びてくる。即座に反応して水流弾を放つ。詠唱を破棄した為に威力は出なかったが、ゆらゆらと揺れ動く触手の先なら押し戻す事が出来た。
触手に衝突し弾けた水飛沫を大剣で撫でながら、セヴィルはユニに向き直る。
「さて。まずはお前だ、ユニ」
「今お説教聞いてる暇ないんだけど!?」
「耳だけ貸せ」
あぁもう。少しはこちらの事情を考えてはくれないものか。
セヴィルも真横にいるのだし、当人も剣を振るいながらなので聞き入れては貰えないだろうが。
「お前はとにかくガキを脱しねぇとな」
「ガキって言うなッ!!」
「言うさ。お前はガキだ」
何故こんな時にまで馬鹿にされなければならないのだろう。
言われている間にも触手は海へと舞い散った船の残骸を掴み上げてそれを振り下ろしてくる。上からも横からも攻撃に晒されて、腹の底に沸々と怒りが込み上げてくる。
だが、次の言葉でそれはすぐさま鳴りを潜めてしまった。
「その証拠に、先入観まみれだ」
「うぐ……」
それを言われると何も言い返せない。
それしか思い付かなかったからなどというのは理由にもならない。実際に効果はなかったし、ユニの読みが外れたのは事実なのである。
「だ、だって……」
「どうしてその考えに行き着いたのかは何となく分かるがな。だとしたら海の最強はエレキテルジェリーとかプラズマイールって事になっちまうだろうが」
知らなかったんだもんと口にしかけた言葉を飲み込む。
確かに言われてみるとその通りだ。セヴィルの挙げた名前はいずれも電気を発する事で知られる水性生物や海に出没する魔物だが、それらが海で猛威を振るっているなどという話は聞いた事がない。より脅威として扱われる生物は山程いる。
何を言っても言い訳にしかならない。しくじったのは事実なのである。それが分かってしまったから、ユニは俯く事しか出来なくなった。
「顔を上げろ。別に非難してる訳でも否定してる訳でもねぇよ」
そんなユニに対して、セヴィルは変わらずあっけらかんと告げた。
非難されたのではないのは分かる。セヴィルの事だ。本当に非難するつもりなら言葉よりもまず拳骨が飛んできてもおかしくない。
とはいえ、浅慮が過ぎると否定されたような気はした。
何と返せばいいのか思い当たらず、でもと誤魔化すように呟く彼女に、セヴィルはさらに続ける。
「俯いてても何も見えやしねぇよ。顔上げてしっかり前を見ろ。目に映る全てから見つけ出せ。何故奴に雷が通用しないのか、想像出来るだけの情報は十分転がってる」
船に襲い掛かるクラーケンの触手を迎撃しながらセヴィルはそれだけを告げた。
転がってると言われてもと思いながら、言われるがままに顔を上げる。目に映るのは相も変わらず獰猛な唸り声をあげるクラーケンの巨駆。そこから伸びる触手が鞭のようにしなって船体に押し寄せている。
そこで、違和感を覚えた。
いくらクラーケンが巨大だとはいえ、ここは大海原のど真ん中。長い触手も流石に海底までは届かないはずだ。それどころか多数の触手は海面から海上に伸ばされている。
あれだけの巨体なら重量も相当なものだろう。普通に考えればその重さで海中に沈んでいくのが自然なはずだ。
何故、クラーケンは海面に浮いていられるのか。
「……そうか」
浮いているからには、そこには浮力が存在するのだ。多数の触手を海中で動かしてそれを生み出しているのだとすれば、海面はもっと波立っているはずである。
だが辺りを見渡す限り、波立ちはそこまでではない。クラーケンが暴れているなら多少荒れてはいるが、船が煽りを受けて転覆する程の荒れ方には見えない。
とても、戦いの最中とは思えないくらいだ。
だとするならば。
「身体を、何かが覆ってるって事……?」
おそらくは空気か、それに近しいもの。それを体表に纏わせる事で浮力を生み出している。クラーケン程の巨体を浮かせるくらいなのだから、相当に圧縮されているのだろう。
つまり、ユニの放った雷は体表を滑ったのではない。体表を包み込む何かによってねじ曲げられた。
「当たりはついたか」
「たぶん! あんまりまとまってないけど!」
言いながら再び精神を集中させる。
とにかく、思い付いた事を試してみるしかない。はっきりと理解出来た訳ではないが少しばかりの光明が見えた今、試して探し当てるのが先決だ。
「それでいい……後はゼノか」
こちらに視線すら振らず漏らしたセヴィルの言葉に頷きながら、思考を巡らせる。
目先の目的は、クラーケンに有効な攻撃手段を探し当てる事だと自身に言い聞かせた。
「くぬッ! にぁッ!?」
掛け声なのか悲鳴なのか自分でも分からない奇声をあげながら手にした剣を振るう。ウネウネと蠢くクラーケンの触手が如何なる隙も見過ごさないと言わんばかりに周りを取り囲んでいる。
その中心で、ゼノは荒くなった息を整えもせず目まぐるしく視線を動かしていた。
自分の周囲は触手が囲っている。さながら宙を舞う蛇の如く獲物に這い寄るそれらは、左右前後のみならず上下にも警戒の網を張ってゼノを追い詰めつつあった。
何しろ、彼が立つ場所自体がクラーケンの体表の上なのである。四方八方どこから攻撃が飛んできてもおかしくない。先程から繰り出されるのは触手の鞭ばかりだが、少年の姿を逃すまいとギョロリと怪しく輝く瞳が不気味で仕方ない。
「ッ! れぁッ!!」
身体を捻った勢いに乗せて回し蹴りを放つ。脚を掠めた背後からゼノを狙っていた触手は名残惜しそうに引っ込む。
だが。
「うぁッ!?」
肩口に鈍い衝撃が疾る。回転し向きを変えたゼノに、さらに背後から別の触手が強襲した。やや頭上から振り下ろされたそれをまともに受けたゼノの身体は衝撃に流されて足場の体表につんのめりそうになる。
ギリギリの所で体勢を保ち、軽い跳躍と共に剣を薙いで触手の追撃をかわしながら再び体表に降り立った。
「は……ッ……はぁッ……!」
感覚としてはそれこそ息をつく暇もない。それでも彼の身体は新鮮な空気を求めて忙しなく肩を弾ませる。触手が押し寄せる度に舞い上がる水飛沫を頭から被りつつ、視界を確保する為に空いた手で額を拭った。
どうすればいい、と先に進めぬ問いが思考を満たす。
セヴィルに投げられクラーケンの体表に着地して以降、延々と多数の触手攻撃に晒され続けている。もはや反射的にそれを迎撃する事しか出来ていない。次にどこから攻撃が来るのかを予測する事すらままならない。
形としてはクラーケン一体を相手にしているが、実のところゼノと触手の一対多と言っても過言ではないと思える。無論、襲いくる触手を迎撃しようと船上でユニ達も戦っているが、そちらの事を考慮に入れられるような余裕は一切なかった。
迎撃一辺倒で相手に攻撃を入れられていない。こちらも大きな傷こそ負っていないが、じわじわとダメージは蓄積している。特に触手の叩き付けを受ける剣を伝わる衝撃は、着実にゼノの体力を蝕んでいた。
相手が多過ぎる。対応する為の手数が足りない。四方八方全てを見据えていなければ対応が間に合わない。
そう思った時だった。
「ゼノー、聴こえるかー」
「ッ!? セヴィルさん!」
クラーケンの触手と相対しているゼノの背後から声が届けられた。セヴィルが船の上から声をかけてきたのだ。
助かった。自分一人では手一杯の状況でも、セヴィルやユニが手を貸してくれればどうにかなるかもしれない。今は大半の触手がゼノを襲ってきているのだから、こちらの手数が増える事は状況を好転させるに違いない。
――などとは思えなかった。
「いつまでも遊んでんじゃねぇぞー」
「これっぽっちも遊んでませんからッ!!」
予想通り過ぎて驚きもしない。
セヴィルは二人で何とかしろと言った。彼が一度そう言ったからには、余程の事がない限り手助けなどしてはくれないだろう。そういう人だ。
いつだったか言われた事がある。自分で吐いた言葉には責任を持たなければならない。大切な事だと。
彼はそれを実践しているだけなのだ。手助けは期待出来ない。
いや――してはいけない。
船から落とされる前にセヴィルから告げられた言葉がよぎる。
―そんなのやってみなけりゃ分からねぇだろ―
あのセヴィルがそう言った。さも当たり前のように。
ハンターになりたいというゼノの思いを聞いて紹介状を書いてくれた。その上で試験官としてそれを阻んだ。
そして、見習いとして認めてくれたあのセヴィル・バスクードが言ったのだ。
信じてくれたなどと考えるのは傲慢だろう。期待されているなんて思ったらきっと笑い飛ばされるどころかきっと軽蔑の眼差しを向けられる。
精々、見極めようとしている、辺りが関の山だ。
――お前には何が出来るのか、と。
頼ってはならない。あの人が何とかしろと言ったからには、何とか出来る状況なのだから。
セヴィルに認めさせる為には、こんな所では立ち止まれない。
「ッ!?」
剣で受け止めた触手の上から、さらに別の触手が打ち付けられた。押し留めていた所へのさらなる衝撃が剣から腕を伝わって全身を駆け巡る。
ゼノがいるのはクラーケンの体表の上だ。海から姿を見せたクラーケンは既に海水で濡れている上、体表には体液のようなものが纏われているのかやたらとぬめぬめしている。
「ぐ……ぅッ!」
そして最も決定的なのはクラーケンとゼノの体格差。ゼノ達が乗り込んでいた運搬船よりも大きいクラーケンが繰り出す攻撃の衝撃たるや、そもそも小柄なゼノの身体で受け止めきれるものでないのは自明の理だ。何とか保っているのは攻撃がクラーケンの身体全体ではなく触手のみで行われているからに過ぎない。
ジリジリと、ゼノの脚が滑り始める。体勢を整える事も出来ず、叩き付けられる触手を押さえるので手一杯の所へ、船上から緊迫感のない声が降り注いだ。
「あのなー、ゼノー」
言わずもがなセヴィルである。
身体全体を使って弾き飛ばされないように踏ん張る中では振り向く事も応える事も難しく、視線の端と耳を傾ける意識だけをそちらへやった。
「ねぇもんいくら絞り出したって何も出やしねぇよ。今ここにあるもんしか使えやしねぇぞー」
「な……にを――」
分かり切った事を。そう言いたい衝動に駆られた。
自分の力がない事など分かっている。元々は山奥の村で農作業をしながら暮らしていたし、ハンター見習いとなってからはそれなりに鍛錬もしてはきたが、それでもゼノは力に溢れるタイプではない。どちらかと言えば小柄な体格と俊敏さを活かして速度で翻弄し、手数で攻める方が有効だろうとユニとも話していた。
だが手数は明らかに相手の方が絶対数が多い。相手の身体は大きいが多数の触手がこちらの行動を阻み、動くに動けない。
だからこそ、現状に陥っている。今自分が持てるものを総動員した結果がこれなのだ。この上何を使えば良いと言うのか。
――いや。
そこで小さな違和感に気付く。セヴィルは何と言った。
ないものをいくら絞り出しても何も出ない。
当たり前だ。どれだけ力を振り絞った所で、クラーケンの巨体どころか触手一本まともに押し返せもしない。
足りないのはそれだけか。そんなまさか。
何もかもが足りない。力も。速度も。技術も。目も。手も。
今自分の持てるものを全て使って戦っている。少なくともゼノ自身はそのつもりでいる。自分の中から絞り出せるものなど思い当たらない。
――そう、自分の中からは。
違和感の先に辿り着く。自分の中にないのなら、外から得れば良い。
「ユニィィィィィィィッ!!」
この場を何とかしろと言われたのは、ゼノ一人ではないのだから。




