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XenoCrisis - ゼノ・クライシス -  作者: 高杉零
ファイア・ダンス - The one who lies in a cave -
22/24

陽光の下で

「ん……んー! いー気持ちー!」


 風が頬を撫で上げ、潮の香りが鼻孔をくすぐる。燦々と降り注ぐ、肌を刺すような陽の光さえもが心地良い。


 帆をはためかせ海上を駆ける貨物運搬船のデッキに躍り出たユニ・プラムスは、これでもかと言わんばかりに大きく身体を伸ばした。

 その表情は解放感と高揚感に満たされている。アルトリアの港を発って少しした後から羽織った上着を脱ぎ捨て、挙げ句用意していた水着まで着用して照り付ける日光をその身に目一杯浴びていた。


 恥ずかしい、とは思わない。


 発育途中の胸部はひとまず置いておくとして、全体的なスタイルはいい方だと自負している。同年代の女子と比べると平均よりは少し背も大きいのだ。普段からシャツにハーフパンツといった軽装を好む彼女のスラッと伸びる四肢は、焼け過ぎず白過ぎず健康的に輝いている。


 むしろ、目の前でジト目を向けてくるむっつり男に見せ付けようとさえ思っていた。


 そのむっつり男はユニを下から上までじっくりと観察し、やがて重く閉ざされた口を開く。


「……………………はぁ」

「そんだけ溜めてまさかの溜息!?」

「何をはしゃいでんだお前は」


 予想外の反応に思わず身体がずり落ちそうになった。


 誉めてくれるだろうとはこれっぽっちも思っていなかったし気の利いた言葉を目の前の男が吐くとも思えないが、もう少し何かないのかと食い下がりたくなる。


「だってさー」


 こんなに快適なんだもん、と口を尖らせて言ってみる。


 実の所、貨物運搬船での海の旅がこれ程快適だとは思ってもいなかったのだ。


 アルトリアで請けたハンターズギルドへの依頼。宿屋に忘れられたものを旅の青年に届けて欲しいというそれを果たす為、彼女等は海を渡らなくてはならなくなった。先に出港してしまった定期船を追う為に乗り込んだのは貨物運搬船だったのだ。


 ユニのイメージにあった貨物運搬船とは所狭しと貨物が積み込まれ、無機質な鉄材にでも囲まれて塵や埃が当たり前のように舞う水上の監獄のようなものだった。屈強で威圧的な船員達に囲まれるのではないか、汚ならしい倉庫にでも放り込まれるのではないかなどと考えたりもしていた。


 だが。いざ乗り込んでみると全てが予想と違っていた。


 甲板も船室も満遍なく掃除は行き届き、埃が舞うどころか床が光沢を放っている。

 力仕事も多いのだろうから船員達は総じて屈強ではあったが、顔を合わせる度に何か困り事はないかと優しく気遣ってくれる。

 昨晩など、海でとれたばかりの新鮮な魚介をふんだんに散りばめた見るからに豪勢な食事を振る舞ってくれたのだ。これがまた美味しいの何の。


 乗り込んで数時間と経たない内にユニの価値観はすっかり改められ、むしろ偏見を持っていた事を恥じてすらいたのである。


 先程から腰掛けていたデッキベンチにとうとう身体を横たえながらにへらと締まらない顔を見せるユニに、むっつり男――セヴィル・バスクードは改めて大きく溜息を吐いた。


「だからってデッキベンチを占領して堂々とだらけてんじゃねぇよ」

「えー、だって日差しは強めでも暑過ぎないしデッキベンチはふかふかなのに少し冷たくて気持ちいいしさー」

「理由になってねぇ。大体、何で水着になる必要がある」

「海の上にいるからに決まってるじゃない」

「ここは船の上だ」

「その船が海の上なんだからいーの」


 何を屁理屈こねてやがるとセヴィルは再び盛大に溜め息を吐く。


 別に屁理屈ではない。せっかく海が見えるのだし天気もいいのだ。心からの解放感に酔いしれたって良いと思うのだが。


 とは言え解放感どころかいつもの鎧すら装備したままの彼にそんな事を言った所で無駄なのは分かり切っている。流石に暑いのか、あるいは着ける事に意味を感じないからか外套こそ羽織っていないのが珍しいと思える程に普段と変わらない装いなのだ。


 はっきり言って、見ていて暑苦しい。


 と。

 頭をガリガリと掻きながらユニから視線を外すセヴィルを見て、ふと悪戯心が芽生えた。


 ――このむっつり男、もしかして……


「ふっふーん。セヴィルぅ?」

「何だよ。せめて上着着ろ」


 セヴィルはこちらを見ようとしない。

 これはあれだ。きっと目線に困っているに違いない。


 ユニは腰に手を当て、彼を下から覗き込むように身体をくねらせた。

 少しでも彼をドギマギさせる事が出来たなら、晴れやかな気持ちがより心地よくなると思ったのである。


 可能な限り艶かしく。柄ではないが少しばかり媚びるように。声にも色気を持たせる為に多少鼻にかけ気味で。

 アルトリア王都で見かけた艶やかな女性を思い返しながら、それを真似してみる。


「なぁにぃ? もしかしてセヴィル、興奮しちゃったわけぇ?」

「今更船乗ったくらいで興奮するかド阿呆。お前等と一緒にするな」

「そっちじゃないッ!」

「他に何か目を引くもんなんかあるのかちんちくりん」

「何そのついでみたいな追い打ち!?」


 速い。何と速い切り返しだろう。

 そういった目で見られていないのは分かっているし冗談半分でやってみただけなのに、そこまで言わなくても良いのではなかろうか。


 いくらあたしでも落ち込むぞと思いつつセヴィルを睨み上げていると――


「ふんッ……ぬ……ぐぬッ……とッ……!」


 ――目の前を三段に重ねられた木箱が横切った。

 何やらフラフラと目の前を通り過ぎた箱はようやく甲板の端に辿り着き、ゆっくりと腰を下ろす。


「……くはぁ……ッ、重かったぁ……」


 そんな箱の腰下からひょっこり出された顔が一つ。

 セヴィルと同様、もう見慣れたと言って良い程度には付き合いのある少年だ。


「何やってるの、ゼノ?」

「何やってるのじゃないよ……」


 自分の背丈の二倍はあろうかという程に積み上がった木箱をまとめて運んでいたからか、少年は疲れきった様子で箱に寄り掛かる。


 ゼノ・シーリエ。小柄であどけない様相そのままに、同い年であるはずの自分と比べても子供っぽさの抜けない仲間である。

 ギルドに所属する高名な――と言うと本人はやたらと苦い顔をする――プロハンターのセヴィルの下で共にハンター見習いとして働く少年。

 出逢ってからまだ二週間も経っていないが、四六時中一緒にいるせいもあってか既に気心の知れている間柄である。


「……遊んでるの?」

「そんな訳ないだろッ! 仕事してるんだよッ!」


 まぁ、これで肯定されても正直困る。


 ゼノは仕事をしていた。ハンター見習いとしての仕事ではない。運搬船の船員達の手伝いとしてだ。アルトリアで運搬船に便乗させて貰ったのもあり、何か手伝える事があれば遠慮なく言って欲しいと自ら申し出たのである。


 したがって、彼が仕事をしている事は何らおかしな事ではない。


 ――のだが。


「少しくらいユニも手伝ってよぅ……」

「何でよ」


 時折すれ違う度に雨に濡れる子犬のような瞳でこちらを眺めてくるのだ。わざわざ言われずとも、手伝って欲しいという願望を前面に押し出してきているのは一目瞭然だった。


 だがしかし、何故それを受け入れなければならないのか。それとこれとは話が別だ、とユニは思う。


「大体、あんたが手伝える事ありませんかーって言って自分から引き受けたんじゃない。責任持ってやり切りなさいな」

「だってだってだって!! 貨物室の荷物を一旦甲板に出して、それから元に戻すなんて! どれだけの量があると思ってるの!?」

「貨物室にある荷物の量でしょ」

「分かってるよ!!」


 なら聞くな、と思った自分はきっと正しい。


 ゼノが船長――本人はお頭と呼べと言っていた――から仕事を頼まれた時にユニも近くにいたから仕事の内容は知っている。荷物を一度出して元に戻すという一見意味の分からない作業の目的もだ。


 当然の事だが、運搬船は海の上を走っている。見渡す限りの海に囲まれた船の中は、当たり前のように湿気で満ちている。貨物室は余計な湿気が溜まらぬように換気も徹底され、床や壁にも鉄材が組み込まれているが、それでも完全ではないのが実情だ。

 貨物は大概が木箱で梱包されているからこの湿気が大敵なのである。中身が何かにもよるだろうが、最悪の場合梱包されている荷物が湿気で駄目になってしまう事さえある。

 だからこそ、内容物と状況、天気などにもよるが、日の強い昼の内に軽く外に出したりする事があるのだそうだ。


 ――と、お頭もちゃんと説明をしていただろうに。本当に忘れているんだか忘れた振りをして愚痴を溢したいだけなのか。たぶん前者だろう。


 まぁそれもこれも。


「自分から言い出した事を途中で放るんじゃねぇ」

「それはそうですけど! 何か途中からやたらと仕事が増えたんですよ!」

「俺が増やしてくれって言ったからな」

「何て事言うんですか!?」

「流石にこれは一人じゃあ、と思う一歩先まで振ってくれと言っといた」

「何で一歩先なんですかッ!?」


 ユニは知っていた。船員達も万全の体制で臨んでいるから、そもそもゼノに手伝わせる気などなかった事を。それでも何でもいいから手伝いたいとゼノが言うので、仕方なく細々した仕事を振った事を。

 そして、それを見たセヴィルがあえて無茶振りをするよう船員達に言い付けていた事さえも。


 ユニが手伝おうと思わないのはそこだ。何故自らそんな苦行に飛び込んでいかなければならないのか。自分は苦労する事に悦びを覚えるタイプではないのだ。


 だからすがるような目でこちらを眺めないで欲しい、と心から思う。


「はぁ……ユニ」

「お断りします」

「……まだ何も言ってねぇ」

「言わせる気がないもん」


 ゼノの疲労っぷりを見かねたのか、セヴィルがユニに振ってきそうなのを一蹴する。何も言わなくとも、このタイミングで話を振ってきたら内容は決まっているだろう。


「全部とは言わねぇから少し手伝ってやれ」

「やーよ。せっかく水着に着替えたのに」

「着替える意味が分からん」

「ユニぃ……」


 へたり込んだまま、ゼノがこちらを見つめてくる。まるで震える小動物だ。

 いけない、このままこの目を見ていたら自分の中の何かがくすぐられる。そうなったら最後だ。


 そう強く思っていたのに。


「……はぁ……」


 ゼノから意識を離そうとセヴィルの方へ目線をやってしまったのが災いした。彼は彼で無言のままユニの方を眺めていた。


 その目が告げてくる。このままだと、たぶん面倒な事にしかならんぞと。それが読み取れるようになるくらいにはセヴィルの事も分かってきたのかもしれないと思うと何だかやるせない。


 何度も口にしている通りそもそもはゼノ自身が言い出した事なので拒否する理由などたくさんある。


 が、セヴィルが目で伝えてくるように仮にこの場で断固として頼みを拒否したとして、そのまま話が流れるとは確かに思えなかった。

 きっと自分の近くを通る度にあわよくばという希望的観測に望みをかけて今と同じ目を向けてくるに違いない。


「……分かったわよ。けど少しだけだからね」

「本当!? やった!」


 直前まで今にも泣き出しそうだった表情がパァッと明るくなる。何ともまぁ忙しない顔である。


 正直、ゼノはずるいと思う。


 捨てられた子犬のような、ずぶ濡れの子猫のような、妙に訴えかけてくる目をされたら完全に無視するのは難しいのだ。人としての良心そのものに訴えてくるというか、そんな感じだ。実は隠れて小動物好きなユニの心を天然で掴んでくる目の前の少年が、何だか無性に腹立たしかった。


「いい? さっきから見てたけど、一気に運んで外に出すのは三、四個ってトコでしょ? あたしが一度に運ぶのはその内一個だけ。それ以上はやんない」

「えぇ……それじゃああんまり変わらないような……」

「じゃあ一個も運ばないわ」

「嘘です! 手伝って貰えて嬉しいです! よろしくお願いします!!」

「はいはい」


 うんざりした心持ちでゼノについていく。淡過ぎる期待を込めて後ろを振り返ると、セヴィルはさっさと甲板の端にもたれかかって広がる海原を眺めていた。くそぅ人には手伝えって言っといてと心の中で悪態をつき、せめてもの抵抗にとぼとぼとゼノの後を追った。





 嬉々として船室へ向かうゼノと姿から見てとれる程にうんざりしながら後を追うユニ。対称的な二人を横目で一瞥してから、セヴィルは甲板の縁にもたれかかった。船は今も順調に進んでいるから、眼下では海水を掻き分け飛沫をあげる様がよく見える。


 ごうごうと船が海を走る音を耳にしながら――セヴィルは思い悩んでいた。


 悩みの種は目下自分の下についている二人の見習い達だ。


 "鬼人"などと嬉しくもない異名で呼ばれる高名なハンターであるセヴィル・バスクードは、実の所見習いの引率などした事がない。これまでかなりの――自分でも具体的には覚えていない程の――数の受験者達を相手に試験官を請けてきたが、見習いとして合格させたのはたったの二人だった。


 すなわち、ゼノとユニだ。


 見習いの引率は試験を受け持ったハンターが務めるのが通例だ。だからこそ、面倒を感じながらも彼等の引率を引き受けている。


 ゼノに関しては事情を知っているとはいえ、試験では私情を挟まなかった。ユニに至っては直前に出逢ったばかりで大して知りもしない赤の他人だった。


 自分は、あくまでもいつも通りに試験官をこなした。それは自信をもってそう言える。たとえ自身が紹介状を書いた相手だったとしても。

 そのセヴィルが初めて合格を出したのが彼等だと言うのだから、付き合いの長いギルド職員が驚いてもおかしくはないだろう。


 何かがあった。自分の中の何かに引っ掛かった。だから見習いとして認める事にした。


 そこまで考えて、セヴィルは小さく首を振る。

 問題はそこではない。


 人の面倒など見た事のないセヴィルは、なにしろ物事を教えるという事が苦手だ。随分と前から自覚している。それがあったからこれまで後進の育成などという面倒事をなるべく避けてきた。


 しかしながら、彼等を認めてしまったのである。誰あろう、セヴィル・バスクードその人が。


 自身の選択には責任を持たなければならない。選んだのなら、それは自身の道なのだから。


 如何にして見習い達の面倒を見るか。始めてみて改めてその難しさをひしひしと感じる。

 そんな中でアルトリアを離れる事になったが為に、今後の計画を練り直さなくてはならなくなったのだ。


 基礎は出来ているがその扱いに慣れていないユニと、基礎すら組み上げられていないゼノ。彼等に共通するのは、絶対的な経験不足からくる応用力の無さだ。


 経験がないから、ユニは頭で考えようとする。

 経験がないから、ゼノは何も考えずに突撃する。


 とにかく対称的な二人だが行き着く先は同じ。視野が狭まり注意力は散漫、動きに無駄が多くなる。


 言って伝わるものでない事は、経験豊富なセヴィルだからこそ知っている。気を付けろと言って気を付けられるものではない。意識をすれば経験が積まれる訳ではないからだ。


 ならば経験を積ませればいいのだが、その積ませ方が問題だ。


 下手にがむしゃらな戦い方ばかりをさせると、妙な癖が浸透してしまう。これは、基礎が出来上がっていないゼノの方が危うい。雰囲気で戦う癖がつくと、取り払うのはなかなかに厄介なのだ。少しでも強い相手になると彼はすぐがむしゃら全力になってしまうので、無駄ばかりが多くなる。


 かと言って戦わせるタイミングを見計らってばかりいると、今度は基礎が出来上がっているユニの成長に繋がらない。彼女が覚えるべきは全体を見渡す広い視野と場を作り上げる戦略眼、そして状況に合わせて臨機応変に対応を変える応用力だ。楽な相手ばかりだとこれを鍛える事が出来ない。


 片方を立てれば片方の為にならず。さりとて極端に強い相手を宛がっても仕方がない。

 適度に強い相手。出来れば周りを見渡さなければ対峙出来ないような相手。広範囲に攻撃する手段を持ち、そう簡単に斬ったり吹き飛ばしたり出来ない相手が望ましい。


 そんな相手がそこらに転がっているかと聞かれると、パッとは思い浮かばないのが実情なのである。


 経験は積ませなくてはならないが、積ませる経験はある程度意図するべきである。何を意識させてどんな結果に結びつけ、どんな感覚を育てるべきなのか。星の数ほど可能性が広がっているからこそ、そこから選ぶのに四苦八苦しているのだった。


「やれや――ん?」


 何とも厄介な話だとすくめた肩を、突然小突かれた。


「よぉセヴィル。元気か?」

「……何だお頭か」

「おいおい何だはないだろう」


 振った目線の先にいたのはお頭――この運搬船の船長である――バズートだった。

 大柄な身体をわざとらしく広げながら、バズートは続ける。


「これでも一応気にしてやっとるんだぞ」

「何をだよ?」

「酔っちまってないかをだ」


 酔ってるのは鼻周りが真っ赤なお頭の方だろ、という言葉が口から出かかって引っ込んだ。これを口にするとこれまた面倒事が降ってくるのを思い出したのだ。


「問題ねぇよ」

「本当か? お前さんが初めて俺の船に乗った時にゃあ青白い顔でうずくまってたろう」

「……いつの話してんだ」

「かれこれもう八年くらいになるか」


 口にしなくても面倒事は降ってくるらしい。

 豪快に笑う彼を眺め、セヴィルは心底うんざりする。だが事実なので言い返せもしなかった。


 今でこそ大して気にならなくなったが、昔は殊の外乗り物の類いに弱かった。特に航海中延々と揺れ続け、それを自分で制御できない船という代物はセヴィルの天敵と言っても良い存在だった。

 時が経ち、ようやくある程度克服した今でもあまり気分の良いものではない。


 バズートはそんなセヴィルの昔の姿を知っている数少ない人物なのである。


 酒に酔った彼は何かにつけてセヴィルの昔の話をしたがるので、何とか話を変えようと口を開く。


「船の舵はいいのかよ?」

「あぁ問題ない。ざらつきも感じんからな、しばらくは天気が荒れる事もないだろう。当面は他の奴等で十分だ」

「そうか」


 普段から海の上を行き来しているバズート達船乗りは、天気が崩れる予兆を肌で感じる事が出来るのだと言う。さしものセヴィルもそんな事は出来ないので彼等の言う肌感覚がどうにも理解出来ないのだが。


「しかし、良いのか?」

「あ?」


 無意識に肌感覚に集中しそうになったセヴィルは寸前で呼び戻された。直前まで豪快に笑い飛ばしていたバズートが妙に不安げな表情を浮かべている。


「何の事だ?」

「あの子の事さ。ゼノと言ったか?」

「あぁ、あいつか」


 ゼノの事。そう言われるだけでバズートが何を気にしているのかが分かった。セヴィルの船酔いはもののついでであったらしい。


「お前が言うから仕事を振りはしたが……別にいいんだぞ、寛いでいても」


 セヴィルはこれまで、仕事の関係で何度かバズートの船に乗せて貰った事がある。その度に彼はのんびりしていろと言ってきていた。元々乗り物に弱いセヴィルであったから厚意に甘えている。


 そしてそれが、単純な厚意のみでない事も知っていた。普段自分達だけで回している所へ何も知らないずぶの素人が手を出してくるのは、悪く言えば邪魔なのである。船乗りには船乗りにしか分からないルールがあるのだ。


 そこへゼノの申し出とセヴィルの言伝だ。船員達は仕方なく、とるに足らない雑用を振っていた。

 実を言えば今現在ゼノ達が行っている貨物の運び出しは――何の意味もない。


「いいさ、今はな」

「休める時には休んでおくのも大切なんじゃないのか?」

「何かさせとくくらいが丁度いい」


 無駄なのが分かっていて何故わざわざゼノに仕事をさせるのか。バズートの問いに対する答えは至極単純なものだ。


 すなわち、これも経験、である。


 ユニとは違い、戦いだけでなくあらゆる経験が決定的に足りないゼノには、種類を選ばず様々な経験を積ませる。それがセヴィルの方針だった。アルトリアでランクの低い小さな依頼を多数請けていたのも同じ理由である。


 ゼノもユニもハンターを目指している。それぞれ先に見据える目的は異なるだろうが、その部分については共通していた。


 ハンターに必要なのは戦う力だけでは決してない。ハンターという職業は困っている人々が寄せた依頼を請け、これを解決する事が主目的だ。依頼を受け付けるハンターズギルドに集まる依頼はそれこそ多岐に渡っている。店の手伝いや迷い猫探しといったアルトリアでゼノ達が経験した仕事など、膨大な種類の中の一握りでしかないのである。


 登録する事さえ出来ればギルドを通じて仕事を請けられる仕組みだから、世界を旅する人々――特に冒険者などと呼ばれる者達――はその資金稼ぎを兼ねて登録している事も多い。その中には腕っぷしに並々ならぬ誇りを持つ者もいた。そういった者達は見た目からしてそれが滲み出ている事が多く、登録直後には周りを見下すような輩も少なからずいる。

 だがセヴィルの知る限り、こうした者達の自尊心は早々に打ち砕かれる事がほとんどだった。


 理由は単純。如何に戦う力に優れていようと、請けた依頼にそれを活用する事が出来なければ何の意味も成さないからだ。


 セヴィルはそれを知っている。自身にも散々言い聞かせてきた。

 だからこそ、ゼノ達には戦う事だけを学ばせる事はしない。


 特定の状況下でのみ発揮出来る特別な力ではなく、様々な物事に応用する事の出来る汎用的な基礎力。ゼノはもちろん、ユニに対してもこれを培わせる事をセヴィルは決めていた。


「んん……どういう事だ?」


 バズートは何とも分かりやすく混乱を表情に示す。詳しく教えろという心の声がひそめられた眉に込められている。


「だから――」


 まぁいいかと軽く溜め息をついたのと、それはほぼ同時だった。無意識に視線を下におろしていたから、瞬間視界が大きくぶれる。直後、身体を無理矢理に押さえつけられながら足下から押し上げられるような奇妙な感覚に襲われた。


 船が、盛大に跳ね上がった。





「わきゃッ!?」


 突然の突き上げられるような衝撃に、ユニは思わず足をとられて体勢を崩す。ハンター見習いとしての意地か手にした荷物こそ離さなかった。そのまま前のめりに倒れまいと寸でのところで軸足を突っ張る。


「ほぎゃ!?」


 むぎゅっと柔らかい感触がしたが気にしている余裕はない。幸い揺れはさほど長くはなかったので、突っ張った軸足だけで体勢を保つ事が出来た。

 バランスを整え、顔を上げる。


「い、一体何よ……?」


 辺りを見回す。同じように体勢を保ったセヴィルとバズート、少し遠くには支えきれずに転げてしまった船員達も見える。揺れに耐えた者達は一様に辺りを伺っていた。海に投げ出された者がいないかと気にしているのだろう。


 その姿を見ていて少しだけ冷静さを取り戻す。


 こういう時はとにかく状況を把握するのが先決だ。船員達の顔や人数を把握している訳ではないユニには船員が欠けているかどうかを確認するのは難しい。バズート達に任せる事にする。自分は下手に動かない方がいい。


 今この瞬間に気にすべきを二つに絞る。揺れが何故起こったのかと、足下の妙に柔らかな何かだ。


「ど、どいてよぅ……」

「あ、ごめん」


 ゼノの腹を思い切り踏んづけていた。運んでいた荷物を投げ出さないように身体を張って衝撃を和らげた所へユニが綺麗に足を突っ張ったらしい。


「セヴィル! 何が起こったのよ!」

「知らん、お前等は無事だな?」

「何とか!」


 足をどけながらセヴィルに声をかける。短いやり取りで互いに怪我がない事を確認すると、彼はすぐさま甲板の縁から海を覗き込んだ。眼下で無事じゃないんだけどとぼそぼそ呟いているゼノは放っておこう。


 船の周囲を見回してみる。先程までとても穏やかだった海原は大きく波打ち、見るからに荒れていた。

 しかしながら荒れる波以外は何も見えない。空は気持ちいい程に晴れ渡ったままだ。天候が崩れた訳でもなければ突然の強風に煽られた訳でもない。視界も開けている中で船が岩礁なんかに乗り上げるとも思えない。


 だとすると、どういう事になるのか。


「お、お、お頭ぁッ!!」


 声はユニの頭上から降り注いだ。見上げるとそこには高々と伸びるマストがある。声の主はマストの上にいる監視員だと分かった。


「何だ!? どうした!?」

「何かいる! 真下! 潜り込まれて!」


 焦燥に刈られているのが如実に表れている。報告は文章の体を成してはいないが、言わんとする事は伝わってきた。


 次なる揺れに備えながら甲板の縁に近付こうとした所で、海中から何かがせり上がった。


「く、クラーケンだぁぁぁッ!!」


 監視員が捻り出した絶叫は、しかしユニ達の耳には届かなかった。海底からかなりの距離があるはずの海面を押し上げて生えた岩山かのようなそれ(・・)が唸ったのだ。


「ブオォォォォォォォォォォォッ!!」


 唸りは低く響き渡り、耳の奥を不協和音となって震わせる。反射的に耳に手を当てるも腹の奥底に響いてくる雄叫びはユニをその場に縫い止めるのには十分だった。

 纏っていた海水を飛沫に散らしながら、とうとうそれ(・・)がその巨体を現した。

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