序章
「はぁ……はぁ……はぁ……」
身体中が重い。まるで四肢それぞれに重りをくくりつけられたように感じる。
あがる息を落ち着ける事が出来ない。身体を動かす事すら億劫に感じているというのに、肩だけは急かされているかのように止まる事なく上下し続けていた。
たった一度でいい。たった一度でも息を目一杯吸う事が出来たなら。
身体全体にのし掛かる、この気怠さを緩和する事が出来るのに。
状況はそれを許してはくれなかった。
「ゲギャアァァァッ!!」
「グエッ! グエッ!」
「ッ!? くそッ!!」
繰り出された攻撃を、手にした細身の剣でかろうじて受け止める。反動で危うく剣を弾かれてしまいそうになるが、脚の力が抜けかけていたのが功を奏した。上手い具合に衝撃を吸収し、目の前のそれは剣の切っ先を走り受け流される。
――だが。
「ぅあッ!?」
流してしまった分の反動が身体を襲う。
思わず尻餅をつきそうになりながら、何とか脚を踏ん張り体勢を保つ。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
眼前に異形の者達を見据えながら、剣を地面に突き立てて立ち上がる。
満身創痍だ。身体中が軋む。疲労も極限に近い。
残る力を振り絞って剣をかざし直すと、少年は自らの背後へと呼び掛けた。
「せ、セヴィルさん! ち、ちょっと、助け――」
助けて下さいよ、そう叫ぼうとした。後ろに控える男に助けを乞うつもりだった。
だが、横目で後ろに目配せした少年は、思いもよらない光景に愕然とし、言葉を続ける事が出来なかった。
少年が助けを乞おうとした男は――
「はぁ……やれやれ。いい天気だぜ」
――木陰に身を委ね、ゆったりと茶をすすっていた。
思わず、身体中から力が抜ける。
「お? 何してんだゼノ。戦いの最中に気ぃ抜いてんじゃねぇよ」
「それはこっちの台詞ですよ!」
戦いの最中だというのに、セヴィルと呼ばれた男は気を抜ききっている。魔物と呼ばれる異形の者達に囲まれているのが、まるで夢であるかのように。
だがそれは、紛れもなく現実だった。
「くぬッ!」
魔物の一体が爪を振りかざす。少年――ゼノは剣の柄でそれを受け、弾き返す。
「でぇやぁッ!!」
爪を弾き返され空いた懐に脚を踏み入れ、頭上から力任せに剣を振るった。
その切っ先が、魔物の無防備な胴体を捉える。
「ギギャアァァァッ!!」
耳をつんざくような雄叫びと共に、魔物は光と化していった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
塊のような倦怠感がゼノを襲う。このまま緊張の糸を切ってしまいたくなる。
だが、それは出来ない。魔物はまだ目の前にいる。戦いは終わっていない。
そう思い直し、再び剣を掲げようとした時だった。
「ほれゼノ、まだ一匹だ。さっさとしねぇとアルトリアに着くのが夜になっちまうぞ」
「だぁ……」
ズッコケそうになる寸前で何とか踏み留まった。
目の前に迫る魔物達への警戒を解かないまま、ゼノはセヴィルに目をやる。
「そう思うなら手伝って下さいよ!」
セヴィルはどうやれ茶を飲み干したらしい。背に立つ木の根を枕にしながら大の字に寝そべっていた。
ヒラヒラと手を振り、ゼノに向けて言い放つ。
「バカ言え。お前が剣の扱いに慣れてぇって言うから、こうして手も出さずに見ててやってんじゃねぇか」
「うぐ」
それを言われると言い返せない。確かに、ゼノはそう口にしていた。数刻前の事だ。
自分は剣の扱いにあまりにも慣れていない。目的地に着くまでの間に少しでもそれを何とかしたい。そう告げていた。
それに対しセヴィルは、それなら道中自分は手を出さないから自分の身は自分で守れ、と言ってきたのだ。
そう。彼はその言葉を守っているに過ぎない。都合の良い事を言っているのはゼノの方かもしれない。
とは言え、だ。
「なにもそこまで寛がなくたっていいでしょう!?」
「テメェで吐いた言葉には責任を持つ。大事な事だ、覚えとけ」
言う事はもっともだが今はそんな場合じゃないと大いに叫びたかった。
「あぁ、もう!」
セヴィルが助けてくれれば何とかなる。そんな安易な考えを振り払うように頭を振った。どうやら、彼は徹底して手出しする気がないらしい。
頼るな。すがるな。そう自分に言い聞かせる。そんな事をしても、状況は何も改善しない。
「すぅー……」
大きく、息を吸う。少しでも強く、剣を握れるように。
目を、開く。眼前の敵を逃さないように。
つい先程までその時間を心から欲していたはずなのに、当たり前のようにそれが出来た事に彼自身は気付いていなかった。
――否。そんな事を考える余裕すら、彼は消し去った。
「でぇッ!!」
瞬間、跳躍する。
可能な限り体勢は低く。練り溜めた力を脚の先に集約し、解き放つ。
あまりにもその変化が早く姿を見失ったのか――魔物は微動だにしていなかった。
そして、交錯。
「ふッ!!」
止まる事なく、すれ違い様に一閃。斬撃は魔物の腰と思わしき辺りを捉えていた。
すぐさま視線を隣へ移す。
同様にゼノの姿を見失っていた魔物が、傍らの異変に気付いて身構えようとしていた。
が、それを待つつもりはない。
「だぁッ!!」
再度跳躍。今度は大きく振りかぶって上昇。片手で剣を構え、魔物の目の前に躍り出る。
「キシャアァァァッ!!」
体勢を立て直しもせず、魔物は本能のままに爪を繰り出してきた。
そうくるだろうと思っていた。
剣を持たない一方の手で魔物の脚をほんの少しだけ、押す。受け止める為ではなく、勢いはそのままに方向だけをずらす為に。
結果、紙一重で爪をかわす。
「でぇぇぇぇぇ」
そのまま押した手を引っかけ、相手の勢いに乗る。
身体は相手へと向かったまま、すれ違う相手の勢いを得たゼノの身体は跳躍状態のまま横回転の力を得て――
「ぇぇぇぇッ、やぁッ!!」
――回転の勢いを殺さず、手にした剣を薙ぎ払った。
「ギョエェェェッ!!」
胸に一文字の斬撃を受けた魔物は、そのまま光へと化していった。
着地し、首を振って辺りを見回す。
襲ってきていた魔物達の姿は、既になかった。
「……はッ……はッ……はぁー……」
終わった。何とか。
先程までを上回る疲労が身体中に押し寄せる。
「やれやれ。やっと終わったか」
背中越しにのんびりとした声がかけられる。あがった息をゆっくりと落ち着かせながら、ゼノは小さく呟いた。
「やっと終わったかじゃないですよ、ホントにもう……」
言いながら、目の前に広がる景色に目をやる。
見渡す限りの草原。所々に木々が立っていて、その真ん中を一筋の街道が走っている。
ただ、それだけだ。
道の先は見えない。それ程遠くまで歩いてきたのかと思うと、無性に感慨深さを覚えた。
随分と遠くまで来たんだな。そんな風に思った。
実の所は大した距離ではないかもしれない。昨日の夕刻に出発したばかりだし、道中何度か魔物に襲われながらの歩みだ。
それでも、ここまで来たという誇らしさと――ここまで来てしまったという寂しさが込み上げてくる。
つい二日前までは、この道の向こう側にあるはずの場所で、日々を暮らしていたというのに。
平凡な毎日だった。
生まれ出でて十四年。ずっと村で過ごしてきた彼には何をもって平凡かという明確な基準などありはしない。だが、それでもやはり平凡だったのだろうと思う。
全ては、二日前に変わってしまった。
彼の眺める道の先。ゼノの故郷――リーシャ村。
始まりは、この場所だった――