ピョートル師の若き頃 2
どれくらい時間がたっただろう…?ふいに、ピョートルは、自分があの寺院の中にいることに気づいた。目の前には、幽体離脱した際に見た、あの神官が、なたを持って立っていた。ピョートル自身は柱に縛りつけられていて、身動きひとつとれない。
「うぬは、わしの研究を盗み見た…。今ここで死んでもらう。」
「ちょっと待ってくれ!盗み見たも何も…あんたがトゥーラに呪いをかけていたんじゃないのか?」
「黙れ!あれは、わしの研究だ!誰にも邪魔はさせん!」
神官がピョートルに向かって、なたを振り下ろそうとした、その時…。
「ピョートル!起きなさい!」
ふいにピョートルは、おでこを鈍器で殴られて、目が覚めた。ピョートルの前には、リーザが、割れた花瓶を持って立っている。
「いてて…花瓶で殴ることはないだろ…おでこに、たんこぶができちゃったじゃないか…。」
「何言ってんの!あなた、さっき、呪いで殺されそうになったのよ!さいわい、私が呪いの念をキャッチしてたたき起こしたから、良かったものの…あのままなら、あなた、あの神官になたで斬り殺されてるわよ!」
「何だって?あの神官は、僕の魂が飛んできた道を逆にたどって、僕に呪いをかけたのか?そんなに呪いに長けてるのか?」
「そうよ!もう、一刻の猶予もならないわ!今すぐ出立して、あの神官を倒さないと…!」
「やれやれ…おちおち眠ることもできないとは……僕らは、大変なやつを敵に回してしまったもんだな。」
「ピョートル、馬車は操縦できる?私は、馬車までは操縦できないから…。」
「うん、できるよ。動かなかった左手は、女神アムールが応急処置をしてくれたおかげで、何とか動くようになったし。」
「なら、早速、長老様に事情を話して、長老様から馬車を借りてくるわ!待ってて!」
そう言うと、リーザは長老宅に直行して、しばらく長老と話し合うと、馬車を借りてきた。
「長老様からピョートルに伝言よ。『本来ならグリャーイ・ポーレの村の外に出ることはまかりならんが、トゥーラの治療のために必要なら、あえて許す。ただし、逃げようとしたら、血の契約により、全身の血管が破裂して死に至ると思え!』だってさ。あ、それから、馬車は自由に使って良いって。」
「よし、とばすぞ!しっかりつかまっててくれ!」
「了解!」
ピョートルはリーザを馬車の後ろの幌の中に入れ、馬車の手綱を握ると、全速力でとばし始めた。
馬車を走らせ始めてから、一時間ばかりたった頃、ふいに、リーザが尋ねる。
「ところで、ピョートル…敵の居場所はわかってるの?」
「さっき、地図で調べて、だいたいの目星はつけてある。北北東の荒れ果てた寺院と言えば、『聖カレオス寺院』だ。昔はかなり栄えてたらしいけど、今じゃ、見るかげもないぐらい落ちぶれてると聞いたことがある…。だいたい、修行僧みたいなやつが、誰にも見つからずに魔術の研究に没頭できる場所と言えば、廃寺ぐらいしかないからな。」
「でも、500ヴェルスタも離れた場所にいる修行僧が、なんでトゥーラに呪いをかける必要があるの?500ヴェルスタといえば、馬車をとばしても、4、5日はかかる距離よ。近隣のキュリロス正教の寺院の縄張り争いとは関係なさそうだし…。」
「僕も、それは考えていた。この一件、寺院の縄張り争いや、役人のアリーナ族に対するいやがらせとは関係ない所に真犯人がいるのかもしれない。」
ピョートルは、どこか、すっきりしないものを感じていた。犯人は確かにキュリロス正教の神官の黒い僧衣を着ていた。黒い僧衣は、人里離れた修道院で修行にいそしむ修行僧の衣装である。世俗の中にあって民衆から寄付を集める教会と違って、修道院は仲間内のカンパや、畑からの収穫だけで細々と運営されていることが多い。500ヴェルスタも離れた場所にある修道院には、このグリャーイ・ポーレの村に対する利権など、関係ないはずである。
「聖カレオス寺院に行く前に、この近くの大学の神学部に籍を置いていた学生の、住所とか身分とか、わからないか?事務処理能力に長けた法学部などの学生と違って、神学部の学生には、魔術の研究に没頭する変人が多いと聞いてるから。」
「いいわ。どうせ、一日じゃ行けない距離だし……この近くだと、バイコヌール大学ぐらいしかないわね。まあ、こんな片田舎の大学だから、学閥の勢力範囲も狭くて、卒業生はこの大学のある地域で就職する人が多いみたいだし…。トゥーラに呪いをかけてる犯人が、卒業生である確率は高いわね。少々、回り道になるけど、寄っていきましょ。」
こうして、二人はバイコヌール大学に寄ることにした。バイコヌール大学は、グリャーイ・ポーレの村から、馬車で一日の距離にあり、法学部、神学部、医学部などを備えた総合大学である。だが、私立なので、高い学費を払える金持ちの子弟のみが通える大学でもあった(この当時、この国の大学はほとんど私立で、国立大学はほとんどなかった。)。
さて、そろそろ夜明けである。昨夜から馬車で走りづめだった二人は、空腹とのどの渇きをおぼえた。
「のど渇いたわね。そこのシルダリア川で水をくんでくるから、馬車を停めて。」
リーザの要請により、ピョートルは馬車を停める。リーザは、後ろの幌の中から桶を持ち出し、シルダリア川の河原へおりていった。一方、ピョートルはパンをナイフで切って、間に野菜や肉をはさみ始めた。言うまでもなく、朝食である。
だが、ピョートルが朝食を作っている最中に、河原からリーザの悲鳴が聞こえた。
「きゃああっ…何なのよ、こいつ…!!」
「…!?…どうした、リーザ?」
ピョートルは手にしていたパンを放り出して、河原に向かって駆け出した。河原ではリーザが、襲いかかる水を相手に、格闘していた。人の形をとった水がシルダリア川から伸びていて、両手でリーザの首をしめていた。リーザは不意を突かれ、桶をその辺にころがしたまま、地面に押し倒されて、相手のなすがままになっている。
「…か…かはっ…!」
リーザは目をむいて口をパクパクさせて、窒息死寸前だった。
「リーザ…この野郎、リーザから手を放せ!!」
ピョートルは両手で印を組むと、巨大な魔術弾を水めがけて発射した。魔術弾は水の胴体部分を直撃し、水は砕け散る。同時にリーザは水の手の部分を振り払い、雷の魔術弾を打ち出す。水は雷をくらって、しばらく痙攣していたが、やがて元の水に戻り、川に戻っていった。
「水を媒介する魔術なら、電撃には弱いはずよ。媒介する水を通して、術者に電撃が伝わるはずだから。」
「でも、相手が水を媒介する魔術を使えるんなら、どこで飲料水を調達すればいいんだい?」
「シルダリア川に面した所に聖カレオス寺院があるから、術者はたまたま水を媒介した魔術を使えただけよ。シルダリア川から離れた所の井戸水をくめば、問題はないわ。」
ピョートルは、あらためて敵の強大さを思い知った気がした。川の水を操るなんて、ピョートルには到底できそうにない。
「ささ、敵さんが電撃でのびてるうちに、早く川から離れましょ。」
リーザは桶を持つと、一目散に馬車へと戻っていった。
その後、二人は近くのルーシ族の村で井戸を借りて水を飲み、朝食をとった。
「あら、こんな街道からはずれた村に来客だなんて、珍しい。」
近くを通りかかった老婆が声をかける。その横では、リーザが桶から馬に水を飲ませていた。
「僕たち、バイコヌール大学へ向かってるんです。」
「ええっ!?バイコヌール大学だって?」
老婆は驚いた。
「…?…何かあったんですか…?」
ピョートルがあわてて声をかける。
「バイコヌール大学と言えば、十日ばかり前に大学で飼っていた危険生物が暴走して大学と近くの学生街を徹底的に破壊して、それ以来、軍によって立ち入り禁止になっている所じゃないか。あんたたち、何も聞いてなかったのかい!?」
ピョートルもリーザも驚いた。アリーナ族の村はほとんど自給自足で、外界と全くといっていいほど接触がないため、外界の情報が入ってこないのである。
「それで、大学の職員や学生たちは、どうなったんですか?生存者はいるんですか?」
ピョートルが勢い込んで聞く。とにかく、生存者がいないことには、情報がとれそうにないからだ。
「…さあねぇ…なにしろ、軍の上層部が何も情報を開示してくれないから、生存者がいるのやら、いないのやら、さっぱりわからんさ…。」
老婆は口ごもりながら言った。まるで、誰かに脅されているかのように…。そして、話し終えると、急いで立ち去った。
「…どうやら、バイコヌール大学に、何かありそうだな。急ごう。」
「了解。」
それから、丸一日馬車をとばして、バイコヌール大学に着いたのは、もう夕刻だった。バイコヌール大学とその学生街は、ぐるりと鉄条網で囲まれており、門には衛兵が配置されていた。
「お願いします。どうしても、神学部の学生や卒業生の名簿を見たいんです!」
「ダメだ!『部外者は絶対に通すな!大学の機密情報も教えるな!』という、上からの命令だ!帰れ!」
「僕らの村では、一人の少女が呪いで死にかけてるんですよ!」
「それは、異端の神を信奉するアリーナ族の村での話だろう!少数民族の村の問題など、我々には関係ない!」
門番の衛兵は、かたくなに拒み続けた。
「…ああ、もう!わかりましたよ!僕らが帰ればいいんでしょう!」
しまいには、ピョートルは憤激して、馬車まで戻ってしまった。
「……で、ピョートル…まさか、このまま引き下がるつもりじゃないでしょうね?」
リーザが小声で尋ねる。
「ははは…まさか。むしろ、よけいに好奇心がわいてきたよ。人間、見るなと言われると、よけいに見たくなるものだろう?」
「そうこなくっちゃ。でも、正面からは無理よ。」
「だったら、裏から名簿を入手するのみだ。」
「で、どうやるの?」
「決まってるさ。鉄条網を破るんだ。ただ、リーザには、少し危険をおかしてもらわなけりゃならない。」
「どうやるの?まさか、私をおとりにして、その間にピョートルが鉄条網を破るとか?」
「その、まさかだよ。捕まる危険性は高い…。それでも、やってくれるかい?」
リーザは少し考えこんでから答えた。
「わかったわ。やってやろうじゃない。ただ、私はやると決めたら全力でやるから、ピョートルも全力で名簿を奪って!」
次に、リーザは懐から人型の紙を取り出して、ピョートルの胸ポケットに入れた。
「私がピョートルについていてあげられないから、何かあったら、使って。私の式神が入ってるから。」
「うん。」
そして、二人は夜がふけるのを待った。
そして、夜の十時頃だろうか…。鉄条網の南の門で、魔術による小さな爆発が起こった。いうまでもなく、リーザが攻撃魔術で門を破壊したのである。続いて、門からバタバタと衛兵が飛び出す足音が聞こえてきた。
「侵入者はどこだ!?こう暗くちゃ、わからないぞ…!みんな、同士討ちを避けるためにも、かたまって行動しろ!」
衛兵の隊長がどなる。衛兵たちは必死でリーザの姿を探すが、見つからない。そうこうするうちに、どうやら攻撃は、ある一ヶ所から撃ちだされていることがわかってきた。
「…見つけたぞ!どうやら、あそこの茂みから攻撃してきてるようだ!」
衛兵たちは、茂みに向かって、弓矢や魔術を撃ちこむ。
「敵の人数は、せいぜい一人か二人だ!包囲して魔術弾を撃ちこめ!」
一方、リーザはバリヤーで矢や魔術をよけながら、隠れていた茂みから脱出を始めた。だが、バリヤーはかなり気力を消耗する魔術だけに、あまり長時間は使えない。リーザは茂みの中に等身大のカカシだけを残すと、闇にまぎれて逃げ出した。その直後に、巨大な魔術弾が、リーザの隠れていた茂みを襲う。
ドゴオオォン…!!
ものすごい爆発音が響き渡る。
「やったぞ!しとめた!」
衛兵が小躍りする。だが、すぐに、しとめたのは身代わりのカカシだったと気づき、再びリーザを探し始める。だが、リーザとてバカではない。魔術弾が炸裂する前に、近くの木陰にこっそりつないでおいた馬車に飛び乗ると、魔術弾を撃ちこんで衛兵たちの包囲の一角を破り、一目散に逃げ出した。
(ふう…ピョートルの馬車の扱い方を、見て覚えといて正解だったわ。)
「いたぞ!あそこの馬車の中だ!逃がすな!」
衛兵たちは馬に乗り、リーザを追跡する。今や、衛兵たちの注意はリーザの乗った馬車にくぎづけになった。
さて、こちらはピョートル……。衛兵たちが南の門に集中していたので、逆の方向にある北の門は完全に手薄になっていた。衛兵の姿は、せいぜい二人ぐらいである。
(よし、このぶんなら、僕一人でも何とかなるな。)
かと言って、派手な音や閃光の出る攻撃魔術は使えない。ピョートルは北の門から少し離れた鉄条網の前に立つと、女神アムールの力を借りることにした。
(女神アムールよ…鉄条網に含まれる鉄分は、人間の血液の成分です。血液を操るごとく、あなたのお力で鉄分を酸化させ、さびさせてください。)
(いいでしょう。)
女神アムールが、そう言うと、たちまちピョートルの目の前の鉄条網はさび始め、触るとパラパラと砕け始めた。鉄条網を踏みこえてバイコヌール大学の学生街に入っても、衛兵には出くわさない。おそらく、リーザを追跡しに出払ってしまっているのだろう。
(でも、この街は、ひどい荒れようだ。まるで、大蛇が暴れまわった後みたいだな。)
そう思うほど、学生街はアパートも店も完全に破壊されていた。あちこちに黒焦げの死体が山のように積まれており、強烈な異臭がただよっている。死体を埋めるための穴を掘っている最中らしく、掘りかけの穴があちこちにある。
やがて、バイコヌール大学に着いた。大学の塀はあちこち壊されており、まるで戦争の後のようである。ピョートルは大学の構内に入った。とたんに、まるで誰かに見つめられているような気がして、全身に鳥肌が立つ。
(この感じは…前にもどこかで感じたような……そうだ!あの神官に、肩をかまれた時の…。)
同時に、左肩の傷が痛み始める。
「くっ…痛てて…。急に、どうしたっていうんだ!?」
「それは、こっちのセリフだ!」
急に、前方の空間がぐにゃりとゆがみ、例の神官の巨大な頭が現れた。
「うぬは、あくまで、わしの研究の邪魔をするかッ!!」
「ちょっと待てよ!研究って何の研究だよ!?僕が何を見たって言うんだ!?」
「ふふふ……冥土のみやげに教えてやろう!永遠の生命を得て不死の体になったり、死んだ者を生き返らせたりするための研究だ!アリーナ族は、生まれながらにして女神アリーナの洗礼を受けており、その肉体的能力と寿命は他民族をことごとく凌駕している!こいつらの肉体に魔物を憑依させて、そこから生命力を奪う実験をしている最中に、うぬらが邪魔しに来た!わしが恨みを持っている実験体の小娘に憑依させた魔物を排除しにかかったのだ!その罪、うぬの命でもってあがなうがいい!」
「だから…恨みって何だよ!?」
「そんなこと、うぬのごとき輩に、いちいち説明してやる必要はない!」
大学中に響き渡るような大声でそう言うと、神官の頭は口を大きく開けて、ピョートルめがけて食らいつこうとした。一方、ピョートルは左手が動かないので、攻撃魔術の印が組めない。仕方ないので、ピョートルは逃げ出した。神官の頭は、口を開いたまま、追ってくる。だが、ピョートルの逃げ足が予想以上に速いことに気づくと、神官の頭は、口から炎を吐いた。
「くらえ!ファイアーランス!」
神官の頭の口から、槍状の炎が何発も発射される。
(くっ…こいつは、遠く離れた聖カレオス寺院にいながら、ここにいる分身に炎を吐かせるほど、自由自在に動かせるのか!?なんてすごい魔術の使い手だ!)
ピョートルは、腹に直撃しそうになった炎の槍を、とっさに、動かなくなった左手で受け止める。だが、炎の槍の直撃をくらった左手には、全体にケロイドができていた。同時に、左手に激痛が走る。
「うっ…痛てて…!!」
ピョートルは激痛に耐えきれずに、左手をかかえてうずくまる。
「ふん!まるで大したことのない輩だな!これで終わりだ!ファイアーランス!」
左手をかかえてうずくまるピョートルを、何本もの炎の槍が襲う。
バシイィィッ…!
ピョートルは、無傷の右手でバリヤーの魔術の印を組み、炎の槍を防ぐ。バリヤーの魔術自体、ピョートルはリーザから教わっていたが、なかなか使いづらい魔術なので、今まで使えずにいたのだ。今回、実戦での緊張感の中で、初めてバリヤーを使えたのである。
「ふん、バリヤーか!しゃらくさい!そんな気力を消耗する術が、そう何度も使えるものか!ファイアーランス!」
神官の頭の口からは、次々に炎の槍が撃ちだされる。ピョートルはその都度、バリヤーで受け止めるが、そう何度も防ぎきれない。やがて、ピョートルは気力を使い尽くし、ガクリとひざをつく。
「ふん、ついに、ひざをついたか!これで終わりだ!ファイアーランス!!」
何本もの炎の槍が、ピョートルめがけて撃ちだされる。
(僕は、もうダメみたいだ…。リーザ、せっかく君がおとりになって、衛兵をひきつけてくれたのに、役に立てなくてごめんよ…。)
だが、その時、ふいに、ピョートルの胸ポケットのあたりが光ったかと思うと、リーザのくれた人型の紙から、式神が現れた。式神は、大きなオレンジ色の山猫のような姿をしており、炎の槍を前足でなぎはらった。
「くっ…式神まで使えるのか!だが、式神は紙でできている!何度も炎を受け止められるものか!ファイアーランス!!」
神官の頭の口から、何度も炎の槍が吐き出される。式神は炎の槍を前足や後足や口でなぎはらい続けるが、やがて前足が燃え始め、続いて後足も燃え始めて、それからいくらもたたないうちに、灰になってしまった。
「どうだ?うぬの式神はすっかり灰になってしまったぞ。次は、うぬの番だ。」
神官の頭は、不気味に笑う。だが、その時、誰も予期せぬことが起こった。
「ぐわあああ…いったい、どうしたことじゃ…!わしの術を縛れるほどの術者が、この近辺にいるのか!?」
神官の頭は、突如、空中にふってわいたロープで、がんじがらめに縛られていた。ロープはぎゅうぎゅうと神官の頭をしめつけてくる。
その時、ピョートルは、神官の頭のすぐ後ろに、リーザの姿を見つけた。
「リーザ…君は馬車に乗ってたはずじゃなかったのか?」
「衛兵たちの包囲をやぶるために魔術弾を撃ちこんだ際に、魔術弾の爆音にまぎれて馬車から飛び降りて、私はバイコヌール大学に潜入したのよ。馬車は式神が操縦してるわ。ただ、スピードの出てる馬車から飛び降りたおかげで、あちこちすりむいちゃったけどね。」
リーザは腕や足を痛そうにさすりながら言った。
「この頭はもう私の術から逃れられないわ。このままロープで絞め殺されるか、術を解除して逃げるしかないわね。まあ、この頭が絞め殺されたら、本体も死んじゃうからね。」
案の定、神官の頭は、術を解除したらしく、そのまま消え去った。
「おぼえておれ!この礼は何倍にもして返すぞ!」
それからしばらくして、リーザと女神アムールがピョートルの左腕の傷を応急処置した後、バイコヌール大学の事務室で、ピョートルとリーザは学生や卒業生の名簿をあさった。そして、そのうち、気になる人物を見つけた。
「セルゲイ・ポベドノスツェフ…この男の似顔絵は、あの神官の顔にそっくりだ。」
「ホントだ。ほんの二週間前まで、バイコヌール大学の神学部に在籍してたそうじゃない。中退の理由は…禁忌を犯した白魔術の研究によって除籍…!?何なの、これって?」
本来、白魔術とは、キュリロス正教の唯一神である聖キュリロスの力を借りて、病気やケガを治したり、魔物を祓うのに用いられる、正統派の魔術である。魔物の召喚や、呪詛や攻撃に用いられる黒魔術と違って、禁忌を犯す可能性の低い魔術なのだ。
「そういえば、さっき僕は、あの神官から、『永遠の命を得て不死の体になったり、死んだ者を生き返らせたりするための研究をしている』と聞かされた。それじゃないのかな?」
「不死の体ねぇ…。まあ、何不自由なく生活している権力者なら、考えそうなことだけど。ただ、研究には、お金がかかるわ。おおかた、あの神官は、研究資金を援助してもらうために、不死の体になる術を国王や有力貴族に売りこもうとしてるんじゃないの?」
ふいに、ピョートルは、「大学内における懲罰の記録」という冊子を見つけたので、開いてみた。そこには、セルゲイに対する懲罰の記録もあった。
「…聖キュリロスの力だけを頼まずに、自然界の精霊や魔物の力をも借りて、不死の体になる研究…これは、白魔術だけでなく、呪詛に使う黒魔術にもかかわる研究だ…しかも、研究を金銭的に援助していたのが、『テッサリア大公』だって…!」
テッサリア大公といえば、国王の母方の叔父にあたり、権勢を誇っている大貴族である。その地位ゆえに、権力をかさにきた汚職などの噂が絶えない人物だった。
「バイコヌール大学神学部としたら、『セルゲイの研究は、神の領域を侵す研究だから、こんな研究を続けていれば、いずれは神罰がくだる。』と考えて、セルゲイを除籍したらしい。」
「でも、この後に、『アルマアタ侯爵の指示により…。』とあるわ。その先が破れてて読めないのが残念だけど。」
リーザの言う通り、その先は帳簿が猛獣の鋭い爪で引き裂かれたように破れていて、読めなかった。
「でも、これで全容が見えてきたぞ。どうやら、宮廷内の権力闘争がからんでるらしいな。」
「要するに、テッサリア大公を排除したがってる一派がいるわけね。なら、危険生物の暴走ってのは、どちらが惹き起こしたのかしら?」
「わからない…。これだけじゃ、情報が少なすぎる。」
実際、他の書類はほとんどが爪で引き裂かれたり、火で燃やされたりしていたのだ。そうこうしているうちに、二人は背後に殺気を感じた。
「ピョートル、危ない!」
リーザがピョートルを突き飛ばす。
ゴオオォォッ…!!
さっきまで二人がいた空間を、真っ赤な炎が切り裂いていく。ふと、後ろをふりかえると、鷹のような翼と、虎のような体と、蛇の頭のようなしっぽを持った生物がいた。
「キメラ(合成獣)だ!」
ピョートルが叫ぶ。同時に、キメラが地を蹴ってピョートルに襲いかかる。ピョートルは、とっさにバリヤーをはって突進を防ぐ。
バシイィィ…!!
キメラは一瞬、バリヤーにはばまれたかに見えたが、すぐに体勢を立て直し、口から炎を吐く。
ゴオオォォッ…!!
炎は細い一点集中型であるだけに、鋭い錐のように、ピョートルのバリヤーに穴をうがっていく。
「まずい!このままじゃ、ピョートルの術がもたない!」
リーザはあわてて、一点集中型の細くて分厚いバリヤーをはって、炎を阻止する。
「こいつの炎は、並みのバリヤーじゃ防げないわ!でも、その分、攻撃できる範囲が狭いから、炎がきたら、とにかくよけて!」
だが、炎を吐く一方で、とびかかってきては、鋭い爪や牙で攻撃してくるキメラの攻撃に、ピョートルとリーザは苦戦した。そのうち、ピョートルは右肩をかまれる。右肩の肉が、わずかに引きちぎられていた。
「…ぐあっ…くっ…。」
傷口から、おびただしい血がしたたりおちる。さいわい、傷は浅かったが、ピョートルは苦痛のあまり、顔をゆがめる。
(まずいわ…これじゃ、ピョートルがもたない…。)
リーザはあわてて、簡単な魔方陣の描かれた布を床にしくと、ピョートルの腕をひっぱって、強引に魔方陣の中に押しこんだ。
「これは、敵の目を逃れるための結界よ!ああいう、雑に作ってあるキメラは、目が悪いから、簡単な魔方陣の中に人が隠れると、一時的に姿が見えなくなるのよ。あとは、私が何とかするから、ピョートルは女神アムールの力を借りて傷を治すことだけに専念して!」
そこまで言うと、リーザは再びキメラと戦い始めた。だが、バリヤーで炎を防ぎながら、鋭い爪や牙をよけるのは、簡単なことではない。リーザは剣で爪や牙を受け止めながら魔術で攻撃するチャンスをうかがうが、しだいに押され気味になる。
「女神アムール…どんな荒療治をしてもいいから、僕の傷を早く治してください。でないと、リーザを支援できない…。このまま、防戦一方じゃ、リーザがもちそうにない。」
(いいでしょう。そのかわり、あなたも、荒療治に耐えてください。)
そう言うと、女神アムールはピョートルの傷を消毒し始めた。だが、これが、すごくしみるのだ。
「ひいいぃぃ…しみる…。助けてくれ!」
(リーザを助けたいのなら、これぐらいの痛み、辛抱してください!獣の牙は雑菌のかたまりです。念入りに消毒しないと、後で破傷風になりますよ。)
女神アムールは厳しく言う。消毒が終わると、引きちぎられた肉と皮膚を再生させ始めた。
「くううう…痛い…!」
(我慢してください。魔術による肉と皮膚の再生には、かなりの苦痛を伴いますが、それだけ再生の速度は速いです。)
女神アムールは肉と皮膚の再生を急ぎながら言った。
(魔方陣の結界は、あと三分しかもちません。それまでに肉と皮膚を再生させないと…。)
そうこうするうちに、ピョートルの傷は完全にふさがった。ピョートルが魔方陣の外に出ると、リーザが後ろにさがる途中でつまづいて転び、そこにキメラが、鋭い爪のはえた右前足を振り下ろそうとしている最中だった。
「リーザを殺させるもんか!くらえ!」
ピョートルはキメラめがけて、ありったけの気力をこめた魔術弾を撃ちだす。完全に不意をつかれたキメラは、右前足をふっとばされる。
「グギャオオオォッ…!!」
キメラの咆哮が響きわたる。キメラは、ピョートルめがけて炎を吐いた。ピョートルは、とっさに左にとんで炎をよける。
「へっ…一点集中型の炎だってことは、それだけ攻撃範囲が狭いってことだ。だから、簡単によけられるんだよ。」
同時に、リーザが剣でキメラに斬りかかる。キメラは左前足の爪で受け止め、リーザに向かって炎を吐いた。
「だから、私には炎なんか効かないのよ!」
リーザはバリヤーで炎を防ぐ。その間に、ピョートルはキメラの頭に向けて魔術弾を撃ちこむ。
「ギャオオォーン…!!」
キメラは頭を吹っ飛ばされて、断末魔の悲鳴をあげてピクピクと痙攣しながら、息絶える。
「ありがとう…ピョートル、もう、何度もあなたに助けられたわね。」
「いや、リーザの魔術の力があればこそだよ。僕一人だと、こう、うまくはいかなかっただろう…。」
だが、その時、部屋の外でドカドカと大勢の足音がしたかと思うと、衛兵たちが三方の扉から部屋になだれこんできて、ピョートルとリーザを取り囲んだ。
「貴様らぁ…馬車をおとりに使って、鉄条網を破って侵入してきおって…覚悟はできてるんだろうな!?」
衛兵は、ざっと二十人はいて、全員が攻撃魔術を使えるとみていい。実際、既に魔術で攻撃するための印を組んで、魔術を発動させかけている。おまけに、取り囲まれているので、360度にわたってバリヤーで防御することができない(基本的に、バリヤーはかなり気力を消耗する魔術なので、上下左右前後のすべての方向に張ることは、よほどの術者でないとできないのだ。)。
狭い部屋の中で戦うなら、明らかにピョートルとリーザが不利だ。
「おとなしく降参するなら良し!さもなくば、二人ともここで死んでもらう!どうだ!?」
「わかった。降参するから、この子だけは助けてやってくれ…。」
ピョートルが言う。こうして、二人は捕えられて、手錠をはめられた。
衛兵たちは、ピョートルとリーザを物置に閉じこめてカギをかけた。
「リーザ、君の魔術で何とかならないか?」
「無理よ。私たちの手錠の下にかぶせられている、魔術封じの紋様の入った、ボール状の革の手袋を見てよ。これじゃ、魔術の印が組めないわ…。」
リーザが差し出した手には、複雑な魔術封じの紋様が幾重にも描かれていた。おまけに、手袋は勝手に外そうとすると、手を締めつけるようにできている。もちろん、ピョートルの手にも、同じボール状の手袋がはめられている。
「このままじゃ、まずいわね。ピョートルがあの神官から呪いをかけられても、起こす鈍器がないわ…。」
実際、扉を破られるのを警戒してか、物置の中には、何も残ってなかった。あるとすれば、布団がわりのわらぐらいである。
このままじゃ、まずいことはわかりきっていたが、さすがに、ピョートルもリーザも旅で疲れ果てていて、いつのまにか、二人ともウトウトし始めた。
だが、その夜…ピョートルが例の神官の夢に捕えられる前に、バイコヌール大学の構内で事件が起きた。発端は、シューシューと息を吐きながら、ズルッズルッと蛇がはいまわるような音をたてて、構内を動き回る不気味な音だった。二人は、その音で目をさましたのである。
「ピョートル…あの音、聞こえてる?」
「うん。これは、何か巨大な生物が動き回る音だ。」
同時に、構内を何人もの衛兵が走り回る足音が聞こえる。
「大変だ!『エルゾ』が目覚めたぞ!」
「何ぃ!?やつは危険だから、ずっと薬で眠らせておけと言っただろうが!飼育班は何をしていたんだ?あのキメラも途中で目をさましてしまうし…!」
そうした中、リーザはニヤリと不敵に笑った。
「うふふ…考えようによっては、これは逃げ出すチャンスかもよ。今動き回ってるのは、魔術で造られた生物と考えていいわ。なら、そいつが衛兵どもを蹴散らしてくれればいい…。」
「でも、その後はどうやって聖カレオス寺院まで行くんだ?馬車は、もうないぞ。」
「心配ご無用!ここの衛兵が仕事で使ってる馬車がどこかにあるはずだから、それを一台いただくのよ!」
やがて、ピョートルとリーザの監禁されている物置の前まで来ると、その生物は動きを止めた。だが、止まったのは、ほんの一瞬だけで、その直後には、衛兵たちが逃げまどう足音や悲鳴が聞こえた。同時に、物置の出入り口を見はっていた衛兵が、逃げ遅れてバリバリと食われる音がした。
「…ひっぎゃあああっ!!…痛えよぉ…!!」
衛兵が悲鳴をあげながら食われると、生物は急に動きを止めた。そのまま、二人の監禁されている物置の前で、じっとたたずんでいる。
「…どうやら、私たちが敵か味方か、確かめようとしてるみたいね。」
リーザがつぶやく。同時に、その生物に念話を送り始めた。
(…落ち着いて。私たちは、あなたに危害を加えるつもりはないわ。)
(要するに、わしを薬漬けにして監禁した、あの衛兵どもとは違うと言いたいのか?)
(そうよ。私はアリーナ族の出身なの…。あなたも、ルーシ族に、いいように使われてきたんでしょ?なら、立場は同じよ。)
(ふむ…そなたの脳波には、アレクサンドル・マフノーと同じ波長が感じられる。)
(アレクサンドル・マフノーは、私の兄です。各地の少数民族の文化を研究していた、バイコヌール大学法学部の学生です。)
(そうか。大学内でいじめられていた、アレクサンドルの妹か…。グリャーイ・ポーレの村中から学費をカンパしてもらって大学に通っていたアレクサンドルが在学中に死んだから、だいぶ苦労しただろう。村人からも、『なんで志半ばにして死んだ!?』みたいに言われただろうしな…。)
(でも、なんで、あなたが兄さんのことをそんなに詳しく知ってるの?)
(わしを子供の頃から育ててくれたのが、アレクサンドルだからだ。わが種族は、狩猟民で少数民族であるチュワシ族に、天然痘の特効薬の材料として飼われてきた。だが、わしは特異体質で、わしの体からは天然痘の特効薬が作れないとわかったために、彼らの居住地域の近くの山中に捨てられていたのを、アレクサンドルに拾われ、実の子供のように育ててもらった。わしは種族の中で唯一、知能が高く、念話が使えるという変種だったにもかかわらず、だ。人間なら、念話が使える生物を嫌うにもかかわらず、な。だが、わしの血が、あらゆる呪術の解除に効果があると知るや、医学部のルーシ族の教授どもは、アレクサンドルから、わしをとりあげて薬漬けにして、自分らのモルモットにしようとした。だから、前回、たまたま薬がきれて目覚めたときに、大学と学生街を破壊して暴れまわったのだ!)
(なら、私とピョートルを助けてくれる?今、魔術封じの手袋をはめられてて、魔術が使えない状態なの。)
(わかった。ちょっと待ってろ!それから、わしのことは、『エルゾ』と呼んでくれ!)
そう言うと、エルゾは物置の扉に体当たりした。扉はひしゃげて壊れて開いた。
ピョートルは、あらためてエルゾを見ると、その不気味さに震えあがった。巨大な蛇のような体躯と、口にのこぎりのような牙が生えているうえに、触角がはえているのだ。おまけに、体中のうろこが、ぬめぬめと光っている。
(さあ…二人とも、わしの姿におじけづくのはわかるが、早く背中に乗れ。じきに強力な魔術を操れる衛兵が来るぞ。)
こうして、ピョートルとリーザは、おっかなびっくりエルゾの背に飛び乗った。エルゾはしきりにシューシューと息をはきながら前進する。やがて、五人の衛兵が、魔術を使う態勢を整えて、エルゾの前に立ちふさがる。
「今だ!攻撃開始!」
衛兵たちはエルゾに向けて、一斉に魔術を放つ。だが、エルゾのうろこで魔術は吸収されてしまい、効果がない。
「こいつのうろこは粘液で覆われているから、火炎系の魔術は通じないぞ!水系の魔術に切り替えろ!」
衛兵たちは、水で作った錐をエルゾに向けて放つ。これは効果があり、エルゾの胸に水の錐が穴をうがつ。
(ぐわっ…これはまずい…。)
エルゾの胸から、血が噴き出す。それを見た衛兵たちは、第二撃をくらわそうとして、再び水系の魔術を発動させる。
「そうはさせるもんですか!」
ふいにリーザがエルゾの背中から飛び降りて、衛兵たちの前に着地したかと思うと、魔術を発動させようとしていた衛兵たちに向かって、足蹴りを連続でくらわせた。
バキィッ…ドゴッ…!!
衛兵たちは、いきなりの攻撃にたじろいで後退し、足蹴りを腕で受け止めながら反撃しようとする。一方、リーザのほうも手錠が邪魔で手が使えないので、思い切った攻撃ができない。
「ひるむな!相手は小娘一人だ!」
衛兵の隊長が叫ぶ。衛兵たちとて歴戦の勇士である。四人がエルゾを攻撃し、隊長一人が剣を抜いてリーザを取り押さえるという作戦にでた。リーザは隊長のくりだす剣を、かがんだり跳んだりしながら後ろにさがることでかわしていくが、だんだんと壁ぎわに追いつめられていく。エルゾがあちこちから血を流すのと同時に、両手の使えないリーザも徐々に旗色が悪くなっていく。
(僕が何とかしないと…でも、魔術を封じられているのに、どうすればいいんだ?僕は体術なんか使えないし…。)
ピョートルは迷った。迷った末に、奇抜な作戦を考えついた。
(状況を打開するには、こうするしかない!)
ピョートルは、いきなりエルゾの背中から、魔術を放つ衛兵たちに向かって、手を前に出しながら、身をおどらせたのである。そして、一人の衛兵の放った魔術がピョートルの手袋と手錠をかすめて、手袋と手錠は壊れた。もちろん、ピョートルも手に何ヶ所ものすり傷をおい、足を捻挫してしまったが…。
「さあ、勝負はこれからだ!」
ピョートルは足の痛みを我慢しながら、衛兵たちの攻撃魔術を防ぐバリヤーをはる。同時に、エルゾが衛兵たちに向かって突進し、衛兵たちを蹴散らす。間髪をいれずに、ピョートルはリーザに駆け寄りながら叫ぶ。
「リーザ!両手をこっちに向けてくれ!」
リーザが一瞬、両手をピョートルのほうに向けると、ピョートルはあらかじめ印を組んでおいた魔術を解き放つ。威力を抑えた小規模な攻撃魔術で、リーザの手袋と手錠は壊れた。
「ありがとう、ピョートル!」
リーザはピョートルにニッコリと笑いかけると、目の前の隊長に向かって攻撃魔術を使った。
バシュウウウゥッ…!
「ぐわあっ…!」
隊長は剣を握っていた右手を、リーザの攻撃魔術で撃ちぬかれて、剣を落としてしまった。リーザは剣を拾い上げると、隊長ののどもとに突きつけた。
「別に、命まで取ろうとは思わないわ。ただ、いくつか教えてほしいの。あなたたちは、誰の命令で動いてるの?ここを封鎖した目的は何?」
「それは言えん!」
「そう…じゃあ、死んでもらうわ!」
リーザは隊長ののどに剣をくいこませた。皮膚が破れて、血が数滴にじみ出る。
「うわ…わかった。しゃべる…。実は…ぐわっ…!!」
隊長が口を割ろうとすると、隊長の頭を覆っていたバンダナが、ぎゅうぎゅうと頭をしめつけ始めた。
「ぎゃあああっ…私が悪うございましたっ…お、お許しをっ…!!」
だが、バンダナはそのまま、ぎゅうぎゅうと頭を締めつけていく。しまいには、隊長の頭は、グシャッという乾いた音をたてて、バンダナに押しつぶされてしまった。
「やれやれ…口封じか。お偉方らしいやり方だな…。」
ピョートルがつぶやく。
「とりあえず、エルゾの力を借りて、ここを脱出しましょ。」
そう言うと、リーザは再びエルゾの背に飛び乗った。
(エルゾ…大丈夫?まだ動ける?)
(心配には及ばん。これしきの傷で動けなくなるほど、わしはヤワではない。)
そう言うと、エルゾは再び前進し始めた。途中から衛兵たちが続々と駆けつけてきて、魔術弾を撃ちこもうとするが、ピョートルのバリヤーとリーザの魔術弾とエルゾの突進にはばまれて、次々に蹴散らされていく。
(このまま、この大学の北北東にある、聖カレオス寺院に向かって。)
(わかった。)
エルゾは衛兵たちを蹴散らしながら、大学の外へ出た。
だが、大学の外の学生街では、思わぬ兵器が待ちかまえていた。
(まずい!これは、魔術によって鉄の弾丸を撃ちだす『魔術砲』だ!この弾丸は、わしの硬い皮膚をも貫く。先ほどの水系の魔術とは、比較にならぬほど強力だ!前回、衛兵どもに捕まった際も、こいつを撃ちこまれたのだ。)
そう気づいた時は、もう遅かった。学生街の衛兵が魔術砲で撃った弾丸が、エルゾの胸に命中した。大学内で衛兵に水系の魔術を撃ちこまれたうえに、また弾丸を撃ちこまれたのである。エルゾは苦悶の表情を浮かべた。
(ぐわあああ…!!)
エルゾが苦悶の声をあげる。
「よし!敵はおじけづいたぞ!二発めを撃ちこめ!」
学生街の衛兵の隊長が叫ぶ。だが、リーザの反応のほうが、すばやかった。
「そうはさせるもんですか!」
リーザとピョートルは魔術砲に、ありったけの魔術弾を撃ちこんだ。あわや、魔術砲は破壊されたかに見えたが…爆煙がおさまってみると、まったくの無傷だった。
「甘いわ!この魔術砲は、魔方陣による結界で二重三重に守られているのだ!弾丸を撃つ時だけ、自動的に結界を解除するようになっているのだ!破壊できるもんなら、破壊してみろ!」
衛兵の隊長が叫ぶ。
(エルゾ、あと、何発まで攻撃に耐えられる?)
リーザはピョートルとエルゾにだけ聞こえるように念話で尋ねる。
(あまり無茶を言ってくれても困る…。あと一発でもくらえば、わしは動けなくなる…。)
(了解。ピョートル、次に魔術砲が弾丸を発射したら、同時に魔術砲めがけて、私がありったけの魔術弾を撃ちこむから、ピョートルは発射された砲弾を破壊して!)
(おいおい…魔術弾を撃つタイミングが難しすぎるよぉ…。結界は一瞬しか開かないってのに…。)
ピョートルは泣き言を言う。
(大丈夫。私と呼吸を合わせれば、絶対うまくいくから。)
(どうすればいいんだ?)
(結界は、自動制御で開くんだと思う…。だから、次に結界が開いた時に、魔術砲と砲弾を破壊してしまえばいいってわけ。)
(そのタイミングは、どうするんだよぉ…?)
(女神アリーナの助けが必要だわ。女神アリーナは、こういう戦闘には場慣れした神だから。)
そうこうするうちにも、衛兵たちは第二撃を撃ちだそうとして、弾を装填している。
(…女神アリーナ、聞こえますか?今こそ、あなたの助けが必要です。あなたの持っていらっしゃる『神の感覚』で、魔術砲の発射の瞬間を捉えてほしいのです。)
(つまり、わらわが発射の瞬間を捉えて、そなたたちに念話で伝えればいいのだな?)
(そうです。私たちはその瞬間に魔術弾を撃ちこみますから。)
そうこうしているうちに、魔術砲の装填が終わった。
(今だ!敵が魔術砲を撃つぞ!)
(了解!)
リーザは魔術砲めがけて、ありったけの魔術弾を撃ちこむ。同時にピョートルは、飛んでくる砲弾を破壊するために、発射口めがけて魔術弾を撃ちこむ。
ドッゴオオォン…!!
結界の開く瞬間を見事に通過した魔術弾は、魔術砲と、撃ちだされた砲弾を粉々に撃ち砕いた。
「馬鹿な……結界が開くわずかな瞬間を狙い撃ちしただと…?そんな芸当が人間にできるのか?」
衛兵の隊長が息をのむ。
「おあいにくさま。私たちには、女神アリーナという、戦闘慣れした神様がついているのよ!さあ、エルゾ、聖カレオス寺院までレッツゴー!」
こうして、リーザとピョートルは衛兵たちを蹴散らして、剣と馬車を奪って乗りこみ、エルゾは学生街の衛兵たちを蹴散らし、北北東へ向かった。
「ねえ、あの衛兵たち、なんであんな地方の無名な大学を守ってたと思う?」
ふいにリーザがピョートルに尋ねる。
「聖カレオス寺院に行けば、はっきりするさ。これは僕の私見だけど、『不老不死になるための研究をしてたけど、庶民には見せられないような研究内容だった』からじゃないのかな?」
「庶民には見せられないような研究ね…。」
「そう。あのキメラやエルゾにしても、そうだけど…。」
「キメラの材料には、人血が使われてるって聞いたことがあるわ。」
「それを言うなら、エルゾも人間を食べるだろ。人間を食べないように、薬で眠らせてたとも考えられるな。それに、僕が大学で聞いた話では、エルゾのような魔法生物の体からは、呪術を解除する成分の他に、不老不死の薬の成分が抽出されるらしいし。」
(ああ、そうさ。おまえたちが来るのが、もう少し遅かったら、わしは不老不死の薬を作るために解剖されてたところだ。おまえたちが大学の構内に侵入したことで、衛兵たちはわしに睡眠薬を注射するのを忘れたのだ。)
エルゾが念話で話す。
(衛兵たちの思考を読んだかぎりでは、不老不死の研究を命じたのは、おそらくテッサリア大公だろう。それに反対する勢力の代表が、アルマアタ侯爵だ。政敵に不老不死になられては困るだろうからな。ただ、政敵を倒した後は、不老不死になる方法を封印せずに、自分が不老不死になるつもりだろう。アルマアタ侯爵がバイコヌール大学を視察に訪れた際に、あやつの心を読んだが……あやつも考えることは、テッサリア大公と同じだ。自分が権力を握れば、テッサリア大公と同じように汚職に走るだろうな。)
「なるほど。貴族なんて、考えることは皆同じね。」
リーザが、ため息をつく。
(なあ、リーザ…女神アリーナと話をさせてくれんか?わしは、アレクサンドルから、女神アリーナの理想について聞かされた。女神アリーナは、全人類の平等、いや全ての哺乳類の平等を望んでいるそうだな。魔術の力によって、全ての生物が平等に暮らせる世界を…。)
(ええ、そうよ。目的のためには手段をいとわないという嫌いはあるけどね。あと、女神様は基本的に来る者はこばまないから、あなたでも念話で話せるわよ。)
(そうか。女神アリーナ…わしのようにルーシ族から迫害を受けてきた者でも、あなたに帰依することができるだろうか?)
一瞬、考えてから、女神アリーナは答えた。
(そなたが人間なら、『血の契約』を結ばなければならぬところだが…あいにく、そなたは獣だ。『血の契約』は必要ない。特別に、わらわの同族になることを許そう。)
(おお、ありがとうございます。)
(それで、エルゾ…さしあたっては、リーザとピョートルを守りながら聖カレオス寺院まで送り届けてほしい。あとは、状況に応じて、わらわが指示を出すゆえ…。)
(わかりました。)
女神アリーナから「アリーナ族の同族」と認められたエルゾは、勇躍して聖カレオス寺院に向かった。だが、エルゾの胸の傷は、リーザが想像した以上にひどかった。エルゾは馬車に乗りきれないために、馬車の横について進んでいたが、ケガをおして進んでいくうちに、胸から流れ出す血は止まらなくなり、出発から六時間後には、ついに動けなくなってしまった。
「まずいわ…ピョートル、女神アムールの力で何とかならない?」
「…さっき、女神アムールに尋ねたけど、無理だってさ。『傷が深いうえに、無理に運動させたから。』って言うんだ。」
「でも、ここでもたもたしてたら、貴族たちが差し向けた軍隊に追いつかれるわ。バイコヌール大学の衛兵たちから、もう貴族たちに連絡がいってるだろうし。」
(わしは、もう前に進むのは無理だ。おまえたち二人だけでも、聖カレオス寺院に行くがいい…。)
「ダメ!あなた、女神様に言ったじゃない!わが民族の同族にしてくれって…!私、同族を見捨てるなんて、できない!」
(そうこうしているうちに、貴族どもの軍隊が来るぞ。やつらは、わしの体さえ手に入れば、引き下がる…。わしを見捨てれば、おまえたちだけでも助かるのだ。)
「皆助かる方法があるはずよ!簡単にあきらめないで!」
ピョートルは少し考えこんだ後、口を開いた。
「薬草でも塗れば、助かるかもしれない。とりあえず、エルゾの体を診察して、どの薬草が合ってるか、考えよう。」
だが、もともと人間とも蛇とも体の構造が違う、変種のエルゾである。体に合う薬草など、簡単に見つかるはずがない。
「ピョートル、女神アムールは何て言ってるの?」
「『助からない』って、投げ出しちゃったよ。」
「そんなぁ…。」
だが、その時、救いの神が現れた。だが、ピョートルとリーザが見た救いの神とは…なんと、宙に浮かんだ赤茶色の猫だったのだ。その猫が、念話で話しかけてくるのである。
(僕が助けてあげますよ。僕は、こう見えても、女神アムールに匹敵する力を持ってますから。)
(あなたは誰?)
リーザが念話で尋ねる。
(僕は『パーヴェル』という、猫の幽霊ですよ。もともと、人の心が読めるんです。もとは、ある貴族の令嬢に飼われていたのですが、ある日、飼い主の家に入りこんできた強盗が飼い主をナイフで刺そうとしたので、強盗と戦って刺されて死んだんですよ。その後、かけつけてきた貴族の用心棒によって強盗は殺されましたがね。もちろん、飼い主である令嬢は、僕のために葬式までやってくれたんですが、僕のほうは、現世でやり残したことが多すぎて成仏できずに、幽霊になって現世にとどまり続けているわけですよ。)
パーヴェルは一気に語った。
(ああ、もっと燃えるような恋がしたかった…。もっとマタタビのにおいをかいで酔っ払いたかった…。)
(…まあ、事情はわかったわ。で、どうやってエルゾを助けるの?)
(僕の力を使うんですよ。僕は死んで幽霊になってから、ヒーリングの力が極度に強くなってますから。僕の力を限界まで使えば、女神アムール以上の治癒能力を発揮できます。ただ、そのためには、気力のキャパシティが強いあなたがたの協力が不可欠です。ひょっとしたら、あなたがたが命を落とすかもしれない…。それでも協力できますか?)
一瞬、パーヴェルの気迫に気圧されたリーザとピョートルだったが、すぐにパーヴェルに同意した。(わかったわ。エルゾを助けるためなら、何でもやってやろうじゃない。)
(了解しました。なら、僕が、ピョートルさんの体に憑依しますから、リーザさんはピョートルさんの手をしっかり握ってください。お二人の気力をエルゾさんに注入します。なお、気力を注入している最中は、お二人とも絶対に動かないでください。)
そして、リーザとピョートルが手を握ると、ブワァッとパーヴェルのオーラが体中にみなぎってきた。やがて、そのオーラは、エルゾに触れたピョートルの手を通じて、エルゾの体内に吸収されていく。
(…温かい…今まで火をあてているように熱かった傷口が、みるみるうちに癒されていくのが感じられる…。)
三時間以上にのぼるオーラの注入の後、エルゾは柔和な表情を浮かべた。
「良かった。これで、エルゾは私たちと一緒に追っ手から逃げられるわね。」
リーザが安堵したとたん…。ふいに、後ろのほうから、馬蹄の音が聞こえてきた。
「おい!そこの者たち、待て!それは、バイコヌール大学で飼っていた魔法生物ではないのか?」
(くっ…こんな肝心な時に…。)
リーザが舌打ちする。そうこうするうちに、十数人の騎兵隊がやってきて、エルゾたちはたちまち取り囲まれてしまった。
「貴様ら!おとなしく、その魔法生物を我々に引き渡すなら良し!さもないと、全員、拾得物横領罪で逮捕するぞ!」
同時にヒュンヒュンと何かを振り回す音が聞こえて、頭上からバサバサと網が降ってくる。あわや、憑依されて身動きのつかないリーザとピョートルとエルゾが網にかかるかに見えた時…。
ザシュッ…!バリィッ…!
ふいに、横から現れた小さな影が、剣を抜いて網を切り裂いた。
「うぬっ…何者だ、貴様?公務執行妨害だぞ!」
騎兵隊の隊長がどなる。傭兵風の外套を着て、とんがり帽子をかぶった小さな影は、答えて言った。
「俺かい?俺は、武術にたけた遊牧民であるカルムイク族(ルースラント王国の南部の砂漠地帯に住んでいる、遊牧を生業とする少数民族)の出身で、『アリョール』っていうんだ。諸国を流浪して賞金を稼いでいる傭兵さ。さっき、あんたたちの網を斬った剣の腕を見たろう?あんたたちのボスに伝えてくれないか?『俺を傭兵に雇ってくれ』ってさ。」
「そうか。傭兵か…。ならば、採用試験をさせてもらう。そこの魔法生物を網で捕えよ!」
「おっと…そいつはできねえ相談だな。この魔法生物は、もう、すっかり弱りきってるじゃないか。おまけに、見るからにケンカの弱そうな青二才が、こいつを守ろうとしてる。こんなのを捕まえたんじゃ、ただの弱い者いじめじゃないか。傭兵の名がすたるってもんよ!」
アリョールは小柄な体に似合わず、堂々と皮肉たっぷりに言った。
「あくまで、わしの命令に逆らうか?ならば、我々としても、容赦はしない!この者を斬れ!」
隊長の命令のもと、騎兵隊は一斉にアリョールに斬りかかるが、アリョールはかたっぱしから斬りふせた。半分ほど斬りふせると、隊長が「退け!」と合図したのをきっかけに、騎兵隊は「ちくしょう」だの「覚えてろ」だのと捨てゼリフを残して引きあげていった。
「ありがとう…何て、お礼を言ったらいいか…。」
騎兵隊が引きあげていき、エルゾの傷を治し終えると、リーザがアリョールにコーヒーを勧めながら言った。
「いいってことよ。俺は、ガキの頃から、弱い者いじめが大嫌いなんだ。」
アリョールは、照れくさそうに言った。
「ところで、なんで軍隊なんかに追われてるんだ?俺で良かったら、話してもらえないか?」
そこで、リーザとピョートルは、今までのいきさつを簡単に説明した。
「…なるほど。その『トゥーラ』っていう娘のケガを治すために、旅をしてるんだな。でも、聖カレオス寺院までの道のりは、まだまだあるぜ。たどり着くまでに、どんな困難に出会うか、わからねえ…。どうだい?いっちょう、俺を護衛に雇ってみる気はないか?」
「…気持ちはありがたいわ。でも、私だって、そんなに金を持ってるわけじゃないし…。」
リーザはためらった。
「金なら、僕が出そう。」
ふいに、ピョートルが口をはさむ。
「僕はルーシ族の地主の子弟だ。金なら多少はある。一日10ルーブルでどうだい?」
「よし!商談成立だ!」
アリョールは嬉しそうに言った。
夜明けとともに、一行は再び馬車で移動し始めた。その日はとりあえず、アリョールが手綱を握って馬車を操縦し、リーザとピョートルは前日以来の疲れが出たので、後部座席で横になって寝ていた(もちろん、『ピョートルが寝ている間に、例の神官に呪い殺されそうになったら、鈍器で殴って、たたき起こせ』ということを、リーザがアリョールに言い含めてある。)。
「やれやれ…俺と同じ立場にある、少数民族の娘っ子の世話をやくことになるとは、思わなかったぜ…。いつも、ルーシ族のそこそこ裕福な商人の護衛ばかりだったもんな。」
アリョールはリーザの寝顔を見ながら、つぶやいた。同時に、アリョールは念話でリーザとピョートルの心の中を、見るともなしにかいま見た(アリョールは剣だけでなく、念話も少しは使えるのだ。)。
「でも、こうやって心の中をのぞいてみると、娘っ子のほうは、なかなかしっかりしてやがる。今まで、それなりに苦労してきたんだな…。」
アリョールは、今までに自分を雇おうとしてきた革命家のことを考えてみた。もっとも、革命家の護衛は全て断ってきたが…。
(だいたい、革命家なんてのは、多かれ少なかれ、やましいことをしてるものだ。正教救国同盟の指導者の一人であるウラジミルは、裏では、『革命のためには、事実隠蔽、法律違反、虚偽瞞着を平気で行わなければならない』なんて主張してるぐらいだ。『王政のもとでは、数多くの人民が虐殺され続けているから、力ずくでも救わねばならない』などという、もっともらしい理由のもとでな…。実際、正教救国同盟ウラジミル派のクラーシンなどは、組織の活動資金を稼ぐために、にせ金まで造ってるというし、同じくウラジミル派のペトロシャンなどは銀行強盗までやってるという噂だしな。あれじゃ、革命家だかマフィアだか、わからねえ…。それに、『革命という大義のためには、仲間を見捨てねばならぬ場合もある』と本に書いてある通り、仲間を利用するだけ利用して見捨てる輩が多すぎる…。それに較べたら、この娘っ子は、損得勘定抜きに、純粋に友達を助けることだけを考えてる。青二才のほうも、自分の博士論文のためだけでなく、娘っ子のためをも思うようになっている。エルゾと呼ばれている魔法生物も、そうだ。こいつらのために俺が剣をふるうのも悪くねえ…。)
こうして、しばらくは、一行は順調に進んでいた。だが、昼前になって、いきなり雨が降り始めた。
「まずいな。ぬれたら、風邪ひいちまう…。どこかで雨宿りしないと…。」
だが、雨粒は、まるで生きているかのように馬車の天蓋をつたって、馬車の中に入りこみ、ピョートルやリーザの鼻や口をふさぎはじめた。
「おい!起きろ!鼻や口をふさがれて、窒息死させられちまうぞ!」
だが、御車台のアリョールの首に降りかかった雨粒が、みるみるうちに人の手の形をとり始め、アリョールの首をぎゅうぎゅうと絞め始めた。
「…う…うぐっ…。」
アリョールは、たまらず、手綱を放してしまった。そのために、馬は暴走し、馬車は横倒しになる。
「…うう…ん…。」
横倒しになった馬車から投げ出されたショックで、ピョートルとリーザは目を覚ました。
「…うぐっ…なんだ?…鼻と口に…水が…。」
ピョートルは驚いたが、なす術も無く、窒息しそうになっていた。一方、リーザの反応は違った。リーザは、口に人差し指をあてて、「黙ってろ」というサインを送ると、つとめて冷静さを保ちながら、念話で皆に話し始めた。
(とにかく、声を出さないで!肺から空気が出ていけば、そのぶん、雨水が入ってくるわ。今から私が言う通りにして。)
同時に、リーザは雨粒を通して、雨粒が飛来してきた先にいる何者かに、念話で語りかけ始めた。
(…あなたは誰?なんで、私たちにこんなことをするの?)
だが、雨粒は何も返してはくれなかった。同時にリーザのほうも、肺に雨粒が入りこんできて呼吸困難になり、倒れる。
「リーザ…もう、やめろ!これ以上やると、君の命が危険だ!」
ピョートルが止めに入る。だが、リーザは念話でピョートルを制止した。
(…もう少し待って。何かがわかりそうなの…。)
「もう少しって、いつまで……ぐわぁっ…ゴボゴボ…。」
既にピョートルの肺は、侵入してきた雨粒に占拠されて空気が追い出され、ピョートルはおぼれたのと同じ状態になりつつあった。たまらず、ピョートルはもがき苦しむ。
(…あと少しで相手の心が見えそう…。あと少し…。)
リーザは懸命に雨粒の先にいる者に念話で語りかけるが、もはや体力が限界にきていて、無理だった。リーザたちはそのまま、気を失ってしまった。
ふいに、ひたいに水滴が落ちてくる。その冷たさで、リーザは目が覚めた。気がついてみると、周囲は真っ暗だった。おまけに、大きな岩の上に寝かされてるらしい。時々、頭上から水滴が落ちてくることを考えると、おおかた、どこかの洞窟の中だろうか。
「…ううん…どこだろ、ここは?…あれ?息ができる。」
ふいに、リーザは気がつき、そして自分が息ができることに驚いた。先ほどまでおぼれそうだったのは、何だったのだろう?だが、起き上がろうとすると、手足が動かない。どうやら、手足を縛られてるみたいだ。同時に、帯からつるしていた剣もないことに気づく。
「ケッケッケッ…ようやく気がついたみてぇだな、お嬢ちゃん…。」
リーザのそばの岩陰から、半裸の少年が現れる。上半身は裸で、下半身は、すねまである布のような物が巻かれていて、足にはサンダルをはいている。そして、その右手には、縛られて気を失ったピョートルが抱きかかえられていた。
「悪いが、剣士と魔法生物には、薬で眠っててもらったぜ。お嬢ちゃんとの会話の邪魔になりそうだからな。」
半裸の少年は、意地悪そうにニタニタ笑いながら言う。
「お嬢ちゃんは念話ができるみたいだから、いろいろ聞きてえことがある。まず一つ目…さっき、俺が雨を降らして、おまえらの口と鼻をふさごうとした時、俺の心に念話で語りかけてきたのは、お嬢ちゃんか?」
「ええ、そうよ。…ていうか、私たちは、あなたに何もしてないのに、あなたのほうから攻撃をしかけてきたのはなぜ?」
「俺の領地に無断で入りやがったからよ!この辺一帯は、少数民族である、俺たちチェルケス族の領地だったんだ!この地域で狩をしたり、果物を収穫したりする権利は、チェルケス族に属する!なのに、時々、おまえらみたいなよそ者が平気で入りこんできては、俺たちの領地を勝手に荒らしていくんだ!」
半裸の少年は一気にまくしたてた。
(…なるほど。確かに、この子の魂の発するオーラは、さっきの雨粒から感じたやつと同じだわ。この子が犯人と考えて間違いない…。)
だが、リーザがそこまで考えた時、半裸の少年が、リーザをビシリと鞭でたたく。
「勝手に俺の心をのぞくな!」
「…さっきから聞いてりゃ…ざけんじゃないわよ!私がいつまでもおとなしくしてると思ったら、大間違いよ!私を縛ってた縄なんて、この通りよ!」
いきなり、リーザは縄を切って立ち上がった。
「どう?右手の指で印を組んで小さな炎を発生させて、縄を焼き切ったのよ。私を縛るんなら、魔術封じの手袋でもつけとくことね。」
リーザはそのまま、半裸の少年に向けて、魔術弾を発射した。
バシュウウウゥッ…!
だが、魔術弾は、少年にあたる前に軌道を変え、リーザに向かってくる。
ドゴオオォン…!
「きゃああああ…!」
リーザは、とっさの反射神経で簡単なバリヤーである「風の結界」をはったため、魔術弾の直撃だけはまぬがれた。
「ケッケッケッ…!バカが!おまえのまわりにはな、魔術返しのバリヤーがはってあるんだよ。バリヤーに触れたら、魔術は全部、おまえに跳ね返るってわけだ。もちろん、おまえ自身もバリヤーを通りぬけられやしねえ。」
半裸の少年は、居丈高に言う。
「さあ、これからは、俺が質問する番だぜ。おまえらは、どこから来て、俺の領地を通って、どこへ行くつもりなんだ?正直に答えないと、次はこっちの兄さんの首がもげるぜ。」
半裸の少年は、ピョートルの首すじに刀を突きつけながら言った。
「わかったわ。言うから…。私たちは、かくかくしかじかで…。」
こうして、リーザは今までのいきさつを簡単に説明した。
「なるほど。事情はよくわかった…。でも、通すわけにはゆかねえ。おめえはアリーナ族だろう?俺たちチェルケス族の土地に勝手に押し入り、動物を狩れる場所を農地に変えて、俺たちから奪っていったのは、おめえらだ。おめえらのせいで、俺たちは狩ができなくなり、多数民族であるルーシ族の町に移り住んで、資本家のもとで働く、下層の労働者にならざるを得なかった…。俺たちの苦しみが、おめえらにわかるか!」
リーザは何も言い返せなかった。確かに、ルーシ族に農地や山林や鉱山を奪われたアリーナ族は、ルーシ族の役人に「代わりの土地がある」と言われて、チェルケス族の土地を奪ってきたのは、否定しようのない事実だからだ。実際、強大な軍事力を持つルーシ族と違って、魔術も武術もろくに使えないチェルケス族に対し、アリーナ族は容赦なく土地を奪ってきた。少数民族を互いに団結させずに、いがみあうようにしむける、ルーシ族の植民地支配の図式そのものである(ただし、アリーナ族に公正を期して言えば、アリーナ族がルーシ族に奪われた土地は、チェルケス族がアリーナ族に奪われた土地よりも、はるかに広いのである。土地を奪われたアリーナ族の多くは、チェルケス族と同様に、下層の労働者にならざるを得なかったのだ。)。
「おまけに、こっちの兄さんはルーシ族の地主の子弟だ。剣士のほうは、チェルケス族の娘をさらって南国の奴隷商人に売ってきた遊牧民のカルムイク族だ。こいつらは、何が何でも、チェルケス族の領地を通らせるわけにゃいかねえ!」
半裸の少年は狂ったように叫ぶ。その背後では、怒りのオーラがフツフツとわきあがるのが、リーザには感じられた。
「おめえらに復讐するために、俺は魔術を学んだ。さあ、今が、復讐の時だ!チェルケス族の守護神カムチャダールよ!汝の前に、いけにえとして、この青年を捧げる!」
半裸の少年は、ピョートルの襟首をつかむと、首を刀で斬ろうとしていた。
「ダメェ!ピョートルを殺すのだけは、やめてぇ!」
リーザが叫ぶ。
「何だ、お嬢ちゃん?おめえが、この兄さんの身代わりにでもなるか?」
「そのつもりよ!」
「ようし、いい覚悟だ。おめえのまわりのバリヤーを解いてやるから、そのまま、こっちへ歩いてこい…。ただし、バリヤーを解いたとたんに俺に魔術弾を撃ちこまれちゃ困るんでな。この兄さんは、盾にしとくぜ。」
半裸の少年は、意地悪そうにニタニタ笑いながら言った。とたんに、リーザの周囲からバリヤーの消失する気配がして、バリヤーがなくなった(もちろん、リーザが少年に向けて魔術弾を撃ちこむ可能性もあるので、少年は自分の前方にバリヤーをはってある。)。同時に、リーザはゆっくりと、半裸の少年に向かって歩き出す。しかし、リーザの歩き方があまりに遅かったので、半裸の少年はイライラして叫んだ。
「こら!おめえ、もっと早く歩けねえのかよ!?」
だが、その直後、リーザが半裸の少年との距離を半分ほどつめた時に、異変が起こった。リーザの姿が突然、ぐにゃりと歪んだかと思うと、半裸の少年の視界から消えたのである。
「何だ?いったい、何が起こったんだ?」
その直後、半裸の少年は、いきなり背後から右のわき腹にまわし蹴りをくらわされて、地面にたたきつけられる(バリヤーは、かなり気力を消耗する魔術なので、少年は前方にしかバリヤーをはっておらず、背後ががらあきだったのだ。)。
「ぐわっ…!」
半裸の少年は、たまらず、うめき声をもらす。同時に、つかんでいたピョートルの襟首も手放してしまう。そして、後ろをふりかえると…そこには、なんと、今しがた姿を消したばかりのリーザが立っていた。
「痛てて…おめえ、さっきまで俺の前にいたのに、どうやって…?」
「精霊魔術よ。この洞窟内の光の精霊の力を借りて、私の姿を一瞬消してもらったの。まあ、かなり気力を消耗する魔術だから、簡単には使えないけどね…。」
そう言うと、リーザはピョートルを抱きかかえて、縛っていた縄をほどくと、ペチペチと頬をたたいた。
「ピョートル、私よ。リーザよ。しっかりして!」
「…う…ううん…。」
何回もひっぱたくと、ピョートルはようやく目を覚ました。
だが、その直後…。
「ぎゃああっ…!」
ふいにリーザが悲鳴をあげて、ガクリとひざをつく。驚いたピョートルがリーザのほうを見ると、背中に隆起した岩の塊が突き刺さっているではないか。
「精霊魔術を操れるのは自分だけだと思うな!この俺様だって、大地の精霊ぐらいは操れるんだよ!その力で、先のとがった岩を隆起させて、お嬢ちゃんを攻撃したってわけだ。」
半裸の少年が勝ち誇ったように笑いながら叫ぶ。
「さあ、守護神カムチャダールから恵みの雨を降らせていただいている大地の精霊ども!この侵入者どもを二人とも刺し殺しちまえ!」
半裸の少年の叫び声と同時に、リーザとピョートルの周囲の岩や鍾乳石が、隆起したり落下したりしながら、二人に向かってくるではないか。
「まずいわ。このままじゃ、二人とも岩に押し潰されちゃう。早く洞窟の外に出なきゃ…。」
リーザは、ピョートルに背中の傷を応急処置してもらい、隆起する岩をよけながら逃げる。と言っても、洞窟内は穴が複雑にいりくんでいて、どこが出口に通じているのか、さっぱりわからない。
「ケッケッケッ…迷え、迷え。この洞窟内は、幼い頃からここを探険して遊んできたやつにしか、地理がわからねえからな。おめえら二人が岩に押し潰されるか、迷子になって餓死するか、二つに一つだ!」
半裸の少年の哄笑が響きわたる。リーザは背後に式神を作る紙を投げ、式神で自分たちの分身を作って、敵の目をごまかしながら出口を目指すが、式神を作るための人型の紙が既に尽きかけていた(式神は、作るたびに、かたっぱしから岩に刺し貫かれるので、どれほどももたない。)。その一方で、リーザは女神アリーナや女神アムール、エルゾなどに念話で連絡をとろうとするが、全くといっていいほど、つながらない。
「ケッケッケッ…念話なんて無駄だ、無駄だ。この洞窟は、女神アリーナと同格の戦闘力を持つ守護神カムチャダールの聖域だ。守護神カムチャダールにあだなす神は、全くといっていいほど、力をふるうことができねえんだよ!」
やがて、式神を作るための人型の紙が尽きてしまった。
「ピョートル、もう、式神を作るための紙がないわ!」
リーザが叫ぶ。同時に、岩がリーザめがけて襲いかかる。バリヤーを張ろうにも、岩はどの方向からも迫ってくるので、防ぎようが無い(基本的に、バリヤーはかなり気力を消耗する魔術なので、上下左右前後のすべての方向に張ることは、よほどの術者でないとできないのだ。)。
(ダメだ!もう、バリヤーを張る気力もない。やられる!)
リーザは戦意喪失して、目をつむった。
ドシュッ…グシュッ…バリバリィッ…!
肉に岩が突き刺さる、いやな音が響き渡る。だが、リーザは無傷だった。
(あれ…?どうなってんの?)
ふいに、リーザが目を開くと…そこには、上下左右前後のうち、三方向にバリヤーを張って、バリヤーを張りきれなかった方向で、リーザをかばって全身を岩に刺し貫かれた、血まみれのピョートルが立っていた。
「きゃああああっ!!ピョートルウゥ…!!」
リーザは、あわてて、ピョートルに刺さった岩を抜こうとする。
「…リーザ、ケガはないか?」
「私は大丈夫よ!ピョートルこそ、なんて無茶なことを…。」
「リーザさえ無事なら、いいんだ。これで、聖カレオス寺院まで行って、トゥーラを救える…。リーザには、僕には無い力がいろいろあるんだから…。」
そこまでしゃべると、ピョートルは血をはいた。
「もう、しゃべらないで!これ以上しゃべると、傷が悪化しちゃうわ!」
リーザは泣きながら岩を一本ずつ抜き始めた。
もっとも、ピョートルのこの行動には、半裸の少年さえも絶句してしまい、思わず大地の精霊を操るための印を組む手を止めてしまったほどだ。
(何なんだ、こいつら…?仲間のためなら、命さえも平気で投げ出すのか?俺が今まで見てきた他民族は、自分たちのことしか考えてないやつらばかりだった…。自分の利益のために、平気でチェルケス族から土地を奪ったり、娘をさらって奴隷商人に売り飛ばすやつらばかりだった…。だが、こいつらは、民族を越えて、自分の身を犠牲にした。なんで、こんなことができるんだ?)
半裸の少年は、しばらく呆然としていた。同時に、リーザがピョートルに刺さった岩を抜こうとするのを見ると、大地の精霊を操って、ピョートルに刺さった岩をすべて抜いた。
「ピョートルゥ…私が死なせやしないわ。私の知ってる限りの白魔術で…。」
「いや、俺が治療してみよう。診せてみな。」
ふいに、半裸の少年がリーザのもとに歩いてきながら言う。
「さっきのおめえらの自己犠牲の精神には、ほとほとあきれたよ…。俺の完敗だ。俺が守護神カムチャダールに頼んで治してもらおう。」
半裸の少年がひざまずいて、守護神カムチャダールに祈りを捧げると、ピョートルの傷口は、みるみるうちにふさがっていった(ついでに、リーザの背中の傷も完治させた。)。
「この辺の大地の精霊は、守護神カムチャダールの眷族なんだ。守護神カムチャダールが空から降らせる雨によって大地が潤い、動植物が生活できるんだからな。その大地の持つヒーリングの力で、この兄さんを治したってわけだ。」
やがて、半裸の少年は立ち上がり、リーザに向かって言った。
「おめえらを洞窟から出して、剣も仲間も馬車も返してやる。それから、聖カレオス寺院への、魔術による護衛もしてやる。何かあったら、俺に念話で話しかけろ。守護神カムチャダールにお願いして、敵の頭上に雷を落とすぐらいはしてやるからな。あと、今夜はもう遅いから、俺の家で泊まっていっていいぜ。それから、俺のことは、『オーウェル』って呼んでくれ。」
オーウェルの言う通り、洞窟から出てみると、あたりは真っ暗で月が見えた(ここは森林の真ん中なので、月が出ていなければ、一寸先も見えないぐらい真っ暗である。)。
「俺の家は、こっちだ。木の上にあるんだよ。この辺は、人間を食らう猛獣が多いからな。縄ばしごでしか登れないような場所に家を建ててるんだ。」
オーウェルは手近な太い木からぶらさがっている縄ばしごに足をかけると、スルスルと登っていった。リーザたちも登っていき、家に入ると、奥に守護神カムチャダールの木像があった。守護神カムチャダールは、細身の土偶のような容姿をしており、その前には、香が焚かれ、供物としてリンゴが供えられていた。
「へえ…チェルケス族は、こうやって神をまつるんだ。勉強になるな。」
ピョートルが一人で感心する。そこへ、肉のたっぷり入った鍋と、木の皿を持ったオーウェルが現れた。
「さあ、オオカミの肉を煮たんだ。食べてくれ。」
こうして、皆は食事をし始めた(もっとも、エルゾは大きすぎて家に入りきらないために、一人だけ木の根元で食事することになったが。)。
(…しかし、まずいな。オオカミの肉ってのは…。)
ピョートルは口にこそ出さなかったが、胸の内で文句を言った。
「ところで、オーウェル、参考までにきくけどさ…近いうちに、この国で革命が起きると思うけど、あなたは、誰と一緒に戦うつもりなの?私たちアリーナ族は、女神アリーナの主導する『アリーナ族独立同盟』に参加して、民族解放のために戦うことになってるけど。」
ふいに、リーザが尋ねる。
「なんだ、そんな話かよ…。俺は、誰とも組まねえよ!どの組織も民族も、自分たちのことしか考えてねえ!恥ずかしながら、俺の同胞のチェルケス族もそうだ。…と言いたいところだが、おめえとなら組んでもいいぜ。」
オーウェルは、歯をむき出して笑った。
「ところで、アリーナ族は女神アリーナを信奉してるそうだが、女神アリーナの教義を聞かせてくれねえか?おめえらを見てると、何となく興味がわいてきたんだ。」
そこで、リーザは女神アリーナの教義を、歌うように話し始めた。アリーナ族の間では、女神アリーナの教義は、歌になって伝わっているからである。
「文明は悪である。なぜなら、文明は権力を生むからだ。良民を虐げる専制君主や独裁者や貪官汚吏(汚職をする役人)を生む。その一方では、あくどい高利貸しや奴隷商人、麻薬の密売商人、その他、ありとあらゆる犯罪組織を生む。
実際、文明の進歩によって、不当な暴行が少なくなったか?国家や民族の間の戦争が少なくなったか?自然界の調和を守らずに、人間だけが繁殖し、文明を築いた結果がこれだ。
太古の昔、人間が自然と調和して生きていた時代には、女神様が因果応報の原理によって、我が民族を統治なされた。他人に害をなす者は疫病によって死に至らしめ、善行を施して他人を救った者には、ありとあらゆる幸福を与えて、それに報いられた。あの当時は、それで全て、うまくいっていた。だが、破壊力のある武器を持った他民族が侵略してくれば、文明を持たない我が民族は必ず負ける。おまけに、他民族は女神様以外の神の庇護を受けているので、女神様のお力で打ち負かすこともできない。しかたなく、女神様は我が民族に文明を持つことをお許しになった。もっとも、その文明によって、女神様の人間界に対するお力は弱まり、因果応報の原理によって統治なさることができなくなってしまわれた。
(中略)
だいたい、生身の体を持たぬ神と違って、人間は精神的にも肉体的にも不完全な存在である。
その人間が権力を行使する以上、権力は常に為政者に都合のいいように運用されるものだ。為政者とて人間……食欲、性欲といった、己の肉体的な欲望には逆らえぬ。仮に、肉体的な欲望に流されずに、質素に生活できたとしても……己の一族郎党に不自由のない生活をさせたいという欲望には逆らえぬ…。
また、国家の統一を保ち、内乱を避けるためには、強い者と妥協し、弱い者を切り捨てざるを得ぬ…。
そのような為政者の定める法律や秩序のもとで、我が民族は常に『異教徒』、『異端』として差別されてきたのだ!だからこそ、我々は人間が権力を行使することを絶対に認めない!人間の作る法律や秩序など、絶対に認めない!
(以下略)」
たっぷり二十分はたっただろうか。ようやく、リーザは全ての教義を歌い終えた。歌い終えると、リーザの顔は、ほころんで見えた。
「…ざっと、こんなもんね。」
だが、オーウェルはそれだけでは満足した様子を見せず、アリョールのほうを見て言った。
「なるほど。女神アリーナの教義は、よくわかった。そちらのルーシ族の学者の卵さんの覚悟も、魔法生物の覚悟もな。だが、剣士さん…おめえにも、相応の覚悟を見せてほしい。カルムイク族の、革命にかける覚悟を…。カルムイク族は、革命が成功した暁には、どんな国をつくりたいんだ?他民族の娘をさらって奴隷商人に売り飛ばすようなことを容認する国にするつもりなら、俺は貴様だけとは絶対に組まねえ…。」
オーウェルはアリョールにつめよった。
「俺か…俺が目指すのは、今のルーシ族による法や権力の支配を打ち倒すことだ。しょせん、法律なんてのは、支配階級である貴族や役人のためのものだからな。貴族どもは、『法律や軍隊の存在によって、不当な暴力が抑制され、国内の平和や秩序が保たれる』と主張するが、実際には人民の利害を調整すると見せかけて、自分たちの特権や権力を維持しようとしているだけじゃねえか。だいたい、身分や階級なんて制度は、権力者が作り出したものだ。国内の階級の間の利害を調整すると見せかけて、階級どうしを敵対するように仕向け、権力者が調停者として特権を享受できるようにするためのな。『国家』というのは、そういう性質のものだ。だから、俺はまず階級の消滅を目指す。同時に、利害の調停者たる国家の消滅を目指す。
ついでだが、大商人の貨幣による支配も認めねえ。少数民族の若者の多くは、ルーシ族の大商人によって、生活の手段である土地を不当に安く買いたたかれ、工場での低賃金労働者にならざるを得なかったからな。カルムイク族が他民族の娘をさらって奴隷商人に売ってきたのも、大商人である高利貸しに借金の利息を払うためだったしな。
ただし、誰のどんな暴力や犯罪も容認するわけじゃねえ…。あくまで、正当防衛は認める。ただ、国家の統括する軍隊や警察や法律や貨幣経済は認めないだけだ。そのために、今の中央集権的な支配体制を解体し、ルーシ族を小さな地域ごとの国に分割し、地域ごとに選挙で知事を選べるようにして、貴族も役人も将校もなくする。そして、チェルケス族を、他民族からの侵略を受けない、正当防衛のできる、いっぱしの戦闘民族にするために、訓練したい。もちろん、チェルケス族が他民族に奪われた土地も返させる。これは、チェルケス族に限らず、アリーナ族を始めとする、その他の少数民族についても同じだ。そして、各地域や各民族が、お互いにお互いを『正当な経済活動をしているかどうか』、監視するべきだ。」
アリョールは臆せずに言った。
「おいおい…訓練すると言っても、チェルケス族は、カルムイク族みたいな戦闘的な民族じゃねえんだぞ…。もともと川で魚をとったり、山で獣をとったりする狩猟民族だ。遊牧騎馬民族であるカルムイク族みたいに、家畜を奪い合うために部族ごとにわかれて戦ったり、農作物を略奪するために他民族と戦ったりすることのない民族だぜ…。そんな民族をカルムイク族なみに訓練するなんて、無理だ!」
オーウェルも負けずに反論する。
「なら、おまえが指揮をとってチェルケス族を訓練すればいい!そもそも、革命なんてのは、一握りの革命家どもの手で成るもんじゃねえ!一人一人の人民の血と汗で成るものだ!『戦闘的な民族じゃないから戦えない』なんてのは、ただの言い訳だ!やってみもしないうちから、文句をつけるな!
そもそも、革命家どもが革命を起こしさえすれば、魔法の杖でつついたように、自動的に理想郷ができると思ってるのか?それこそ、大間違いだ。革命後は、政治が混乱をきわめ、一時的には革命前よりもひどくなる。革命家どもは、ただ秩序を破壊するだけだ。それを是正して新秩序を創りあげるのは、一般の人民全員の役割であって、革命家どもの役割じゃねえ!」
アリョールは一気にまくしたてた。
「そもそも、『下層民は、この世では絶対に救われないから、あの世での平等を望んでいる』なんてのは、権力者の勝手な理屈だ。『下層民は、自分たちが不幸である原因が、変革し得る体制にあるなら、革命や暴動を起こす』というのが、正しい理屈だ。そもそも、おまえらチェルケス族は、この国の体制を変える努力をしたか?」
アリョールの声は、オーウェルの心を揺さぶった。
(何だ、こいつの理論は…?これは、無知無学な遊牧民の考えることじゃねえ。大学生の理論だ…。カルムイク族は無知無学な野蛮人だと思ってきたが、俺の偏見だったかもしれんな。)
そして、しばらく考えこんだ末に、オーウェルは言った。
「剣士さん…おめえの理屈は、よくわかった。太古の昔、『天下万民が全て、生を楽しむことができる国を作りたい』と言って政治改革に立ち上がった、伝説上の英雄リウジールに、おめえは似ている…。そちらのルーシ族の兄さんや、アリーナ族のお嬢ちゃんは、英雄リウジールと義兄弟の契りをかわした豪傑たちみてえだ…。俺は、おめえらに命を預けよう。さあ、今日は皆で同志の誓いをしようじゃねえか。あいにく、オオカミの肉しか肴がねえが、酒ならたっぷりあるから、思う存分、飲み明かそうぜ!」
オーウェルはアリョールの首すじに腕を回して、杯を持ち上げ、乾杯の音頭をとった。
「さあ、全ての民族の勤労人民の革命のために、乾杯だ!」
「おおおっ…!革命万歳っ!」
アリョールやピョートルが唱和する。この家は、守護神カムチャダールの聖域にあたるため、聖カレオス寺院の神官の魔術は、遮断されてしまって効果がない。そのために、オーウェルは自分から皆に酒をついで回り、リーザは未成年ながらオーウェルの酌を受け、一同は大いに酔っ払って、ぐっすりと眠った。