神話の起動
人類がまだ「人間」と呼ばれる以前、世界はただ生き延びるための舞台にすぎなかった。
獣の咆哮が夜を支配し、火はかろうじて闇を押し返す小さな灯りでしかなかった時代。
その大地に、二つの影が降り立つ。
彼らは記憶を持たず、言葉を持たず、ただ歩き出すことだけを許された存在だった。
しかし、その一歩が、やがて神話を生み、文明を築き、世界を変えていく。
人類史のすべてが、まだ誰も知らぬ未来の観測者たちの手によって、ひとつの実験として始まろうとしていた。
これは、道具を持たぬ者が道具を生み、
恐怖を語る者が神話を紡ぎ、
そして世界を理解しようとする者が文明を築く――
その最初の瞬間を描く物語である。
「Zarvok'th elunara vesh'tal morinex.(あの煙の立つ集落に向かおう。)」
「Ul'zenith korvasha mel'tuun grivak.(そうね。食べ物もあるといいけど。)」
アダムとイヴは自らの言葉を交わしながら、ゆっくりと煙の立ち昇る方角へと歩を進めた。
やがて視界に現れたのは、木を三角に組み合わせて造られた小屋が円を描くように並ぶ小さな集落。広場の中央では、炎に照らされながら獣を丸ごと焼き上げる者がいれば、畑から収穫物を抱え帰る者、石で棒を削り、その鋭さを確かめる男の姿もある。小川では子どもたちが歓声をあげながら魚を追いかけ、傍らでは女たちが泥をまとった芋のような作物を丁寧に洗っていた。素足に動物の皮をまとった大人たちと、子どもたちが入り混じる、ひとつの大きな家族のような共同体。
その入口に二人が姿を現した瞬間、ざわめきが走った。
「うーっ、えぅぅぉぉ、おうっおうぅぅ!」
低い唸り声が次々と響き、子どもたちは一斉に物陰へと駆け込む。三角の家々からは武器を構えた男たちが現れ、警戒心を剥き出しにして二人へと近づいてきた。
アダムとイヴは、頭から足先までを覆う藁編みの衣をまとい、足には同じく藁で編まれた粗末な履き物をつけていた。その異質な姿は、集落の誰一人として見覚えのないもの。彼らが明らかに外の存在であることを、人々は瞬時に悟り、鋭い視線と唸り声で迎え撃つのだった。
二人は鋭い目をした男たちに取り囲まれ、今にも飛び掛かられそうな気配の中に立たされていた。空気は張り詰め、ただの一歩が死と直結しかねない緊張が走る。
その輪の奥から、集落のリーダーらしき男が一歩前に出た。
「うぅうっ、ぁおううぃうあーぇ。」
低く唸るような声。意味は分からない。
アダムとイヴは互いに短く言葉を返してみたが、やはり通じる気配はなかった。
状況を打開しようと、アダムは周囲を素早く見渡すと、足元の五十センチほどの木の枝を拾い上げ、道端に繁る背丈ほどの草を引きちぎった。
その動きに、男たちがざわめき、棒を構え直す。だが、アダムは笑顔を浮かべ、片手を差し出して敵意のないことを示した。その仕草に、相手もわずかに警戒を緩め、彼の動向を見守り始めた。
アダムはちぎった草を指先で撚り合わせ、しなやかな紐を生み出す。それを枝の端に結びつけ、さらに枝をしならせてもう片方へと結びつけた。やがて彼の手の中には、未だ見たこともない形をした道具が形を成した。
驚きと好奇の視線が集まる。
アダムはもう一本の枝を拾い上げ、両腕を広げて人々を下がらせ、広場の一角に空間を作らせた。そして紐の中央に枝をあて、しなった枝を引き絞る。力を込めて引ききった瞬間、彼はその手を離した。
――ビュンッ。
音を裂いて放たれた矢は、まっすぐに宙を駆け抜け、広場の向こうの草木を揺らして消えた。
「あおぉっ!」
驚愕と歓声が入り混じった声が上がる。武器を構え直す者もいたが、その表情には恐れよりも驚きが勝っていた。
アダムは笑みを浮かべたまま、小さな簡易の弓を抱えてリーダーのもとへ歩み寄る。そして、うやうやしく、それを差し出す仕草を見せた。
リーダーは一瞬ためらったのち、恐る恐るその道具を手に取り、頭上高く掲げる。歓喜の叫びが広場を満たし、人々はそれを奇跡のように称えた。
やがてリーダーは、手招きして二人を集落の内へと導いた。それは、異邦の来訪者が初めてこの共同体に受け入れられた瞬間だった。
二人の周囲には、女や子どもたちまでもが集まり、歓声と好奇の視線に包まれた。目の前には、鼠や蛇を丸ごと焼き上げた豪勢な食事が並べられ、まるで英雄を迎えるかのようにもてはやされた。
やがて、リーダーに伴われて現れたのは、年老いた長老だった。深い皺を刻んだ顔に知恵の光を宿し、彼は二人の前に腰を下ろすと、地面に指で絵を描き始める。
そこに浮かび上がったのは、獣が人を襲う姿。
老人は両腕を大きく広げ、激しく身振り手振りを交えながら必死に訴えていた。
――この地には巨大で凶暴な獣がいて、我らを襲う。助けてほしい。
アダムはその意を読み取り、軽く頷いてみせた。
だが老人は続いて何かを伝えようとしていたが、それを読み取る事はできなかった。
そのときだった。
遠くから低く響く遠吠えが辺りの空気を震わせた。
「……!」
集落の者たちは一斉に肩をすくめ、顔を引きつらせると、蜘蛛の子を散らすように三角家屋へ逃げ込んでいった。取り残されたのはアダムとイヴ、二人だけ。
彼らは互いに視線を交わし合った。
――来る。
焚火の傍らに残されていた火打石で炎を蘇らせ、光を確保すると、集落の隅から木材をかき集め、尖らせた槍を束ねて簡易の砦を築いた。二人はその中に身を潜め、夜の訪れと共に現れるものを待ち構えた。
やがて、黒い影が揺れた。
二頭のショートフェイスベア。ひときわ大きな方は、五メートルを優に超える巨体。炎をものともせず、集落の中を悠然と徘徊し、ついには焚火の方へと近づいてくる。
砦の隙間越しに、アダムとイヴは息を殺し、迫る影を凝視した。
だが、二頭は突然立ち止まり、何かに怯えるように方向を変えると、森の奥へと消え去った。
――助かった?
そう思ったのも束の間、集落の入口にそれは現れた。
八メートルに及ぶ巨影。
音ひとつ立てずに、まっすぐ二人の方へ歩み寄ってくる。
焚火の脇で静かに腰を下ろしたそれは、座ったままですら四メートルを超える高さを誇った。漆黒の体毛に覆われ、鋭い黄色の眼光が闇を裂く。口元からは、七十センチもの長大な牙が二本、光を反射していた。サーベルタイガーに似てはいたが、あまりにも異形だった。色も、迫力も、存在そのものが違っていた。
巨影が鼻先を地に寄せ、空気を震わせる吐息を漏らす。
次の瞬間、まぶたが閉じられ、頭を伏せ、沈黙。まるで大地そのものが眠りについたかのようだった。
アダムの背筋を冷たい汗が伝う。あの牙が一度でも動けば、砦ごと引き裂かれる……。それでも彼は視線を逸らせなかった。イヴの手は小刻みに震えていたが、彼女もまた声ひとつ発しなかった。
二人の鼓動だけが、やけに大きく、耳の奥で響いていた。
やがて夜が明け、薄明の光が集落を照らし始めると、黒き巨獣は静かに身を起こした。二人を一瞥すると、何事もなかったかのように振り返り、入り口の外へと歩み去っていった。
残された二人は、張り詰めていた全身の力を一気に失い、その場に崩れ落ちるように眠りへと落ちた。
二人はざわめきに目を覚ました。
砦の隙間という隙間から、数十もの目が覗き込み、互いに言葉を交わしながら騒ぎ立てている。言葉はわからずとも、驚愕と畏怖に染まった表情から、何が話題なのかは推し量れた。
アダムとイヴが砦を押し上げて外に出ると、人々の群れが割れ、その先にリーダーと老人が立っていた。
「うぅっう、えぅいあーぁ、いぅぅえぇい!」
老人は荒々しく声を張り上げながら、地面に昨日と同じ絵を描く。二匹の獣が人を押し潰し、血と混乱に塗れる姿。髪をぐしゃぐしゃに書き殴り、指で人間の絵を突きながら何度も叫んだ。
イヴがアダムに顔を寄せ、小声で囁く。
「“獣に襲われても、お前たちは生き残ったのか”って、言っているような気がするわ。」
「確かにそう取れるな。」
アダムは頷きつつも、すぐに膝をつき、老人の描いた獣の絵の後ろに、さらに大きな影を加えた。四つん這いに構え、長大な牙を突き出す巨獣。昨夜、焚火の傍に座した黒き存在。
それを描き加えると、彼は二匹を指差し、続けて外を指し示した。あれらは去った、と伝えるように。果たして伝わったのか。
老人とリーダーは顔を見合わせ、激しく言葉を交わし始める。群衆も一斉にざわめき立ち、声は渦を巻いた。
やがて、老人は苛立つように地面を踏みつけ、描かれた巨獣を足で揉み消した。そして人々を振り返り、再び二匹の獣を指差し、外を指し示す。
アダムは眉をひそめた。
「“あの二匹の方が強い”ってことなのか?」
彼には老人の意図が掴めず、翻弄されるばかりだった。
しかし次の瞬間、ざわめきは急に調子を変えた。老人の口調も和らぎ、まるで別の話題へと移ったかのように。そして、昨日の弓を差し出して、喋り出した。
「作り方を教えてほしいってことかな…。」
アダムは小さく息を吐き、立ち上がった。群衆の視線が集まる中、彼は人々を見渡し、自らを指差す。そして手をひらひらと動かしながら、ついて来いと示した。
森をさまよい、アダムはある一角で足を止めた。そこは竹が群生する静謐な林。陽を浴びて青々と伸びるその姿は、まるで大地の槍のように天へと突き立っていた。彼は目利きで若く張りのある一本を選び、石包丁を振るうように合図を送る。格闘すること三十分、ついに竹が軋む悲鳴を上げ、重々しく地面に横たわった。さらに彼は、森の木々を縫うように伸びる太くしなやかな蔓を切り取り、獲物を抱えるようにして集落へと戻った。
そこでは、イヴが女や子どもたちに石包丁の製作を教えていた。彼女はアダムに気づくと、手にしていた小さな石斧を差し出す。その刃は、彼らがこれまで使ってきたものよりも遥かに鋭く、まるで光を孕んでいるかのように輝いていた。
アダムはその斧を試すように竹へ振り下ろす。節は軽やかに断たれ、二メートルごとに切り分けられていく。さらに竹を縦に割り、四つの部材を得た。内側を削り、しなりを確かめる。――竹は生き物のようにしなやかに応じた。
三人がかりで竹を強く引き、両端を蔓で繋ぎ合わせる。荒削りながらも形は整った。落ちていた枝に尖石を括りつけ、アダムはそれを弦にあてがう。彼の手にした竹は大きく弧を描き、キリキリと緊張の音を吐いた。
次の瞬間、蔓を放す。
空気を裂く閃光のように矢は走り、誰も目で追えぬ速さで三十メートル先の樹へと突き刺さった。枝が震え、木霊する乾いた衝撃音。
アダムの胸を、歓喜と同時に恐怖に似た震えが駆け抜けた。人が獣を凌ぐ力を手に入れた。沈黙を切り裂いたのは、集落全体を揺るがす歓喜の咆哮だった。驚愕と畏敬が入り混じる視線に、アダムは無意識に胸を張った。
その夜、アダムとイヴには新たな住居が与えられた。彼らはもはや異邦人ではない。弓とともに、この集落に正式に迎え入れられた仲間となったのだ。
それからの日々、男たちは弓を握りしめ、ひたすらに練習を重ねた。矢は空を裂き、的を貫き、彼らの腕は見る間に冴えわたっていった。狩りの場では弓が必須となり、技が磨かれるごとに弓そのものも改良され、強靱さと精度を増していった。
ある夕暮れ、赤く染まる空の下で――あの夜、この集落に響いた遠吠えが再び木霊した。人々は本能的に三角の住居へと退いたが、一人の男が勇ましく声をあげた。
「あぅあぅううえぇい!」
高く掲げられた弓が意味するものを、誰もが悟った。――弓をもって天敵に挑め、という宣言だ。
その呼びかけに応じ、七人の弓の名手が進み出る。彼らは散開し、七つの角度から獲物を狙うべく、闇に沈む物陰に身を潜めた。
やがて、森の縁から二つの影が姿を現した。黒々とした巨影――その足音は大地を震わせ、沈黙のまま拠点の入り口に立ちはだかる。獣の眼は夜の炎のように光り、まるで己こそが最強だと誇示しているかのようだった。
一人の合図で、七本の矢が同時に放たれた。風を裂き、真っすぐに巨影へと吸い込まれる。しかし、尖った石の矢尻は鋼鉄のごとき体毛に弾かれ、かすり傷すら残せなかった。
――ショートフェイスベア。
その巨獣が咆哮とともに前傾姿勢になり、一人の男へと四足で突進した。迫りくる影は瞬く間に大地を覆い、だが男は逃げなかった。全身の力を込めて弦を引き、放たれた矢は確かに額を捉えた。だが、巨影は止まらない。
目前に迫った巨体が二足で立ち上がり、天を裂くように腕を振り上げた瞬間――。
草むらを割って別の黒き影が飛び出した。稲妻のような速さでショートフェイスベアの背後に回り込み、その牙が閃いた。次の瞬間、巨獣の首は宙を舞い、音もなく大地に沈んだ。
首を失ったまま、巨体はしばしのけぞり、やがて轟音とともに倒れ込んだ。
草むらの奥に現れたのは、二本の長大な牙を持つ獣。黄金の眼を光らせ、倒れた巨熊を見下ろしていた。男は恐怖に縫い付けられたように立ち尽くす。獣は彼に目をやり、そして――夕暮れを震わせる咆哮を放った。その声は、あの遠吠えと同じものだった。
残るもう一体のショートフェイスベアは怯えたように森へと消え、二度と戻ることはなかった。牙の巨獣はひとしきり辺りをじろりと睨みつけて威圧すると、静かに振り返り、闇の草むらへと溶けていった。
そして、彼らを見下ろした黒き牙の巨獣は、恐怖であると同時に、守護の象徴となった。
弓と神話。それは、やがて人を人たらしめる二つの力となり、この小さな集落から世界へと広がっていった。
人が道具を手にし、神話を語り始めた瞬間だった。恐怖と畏敬の入り混じる夜を越え、認知革命の第一歩が、静かに、確実に始まった。
認知革命のうねりが人類を包み込み、かつて獣と大差なかった暮らしは、次第に「人間らしい営み」へと姿を変えていった。氷河期の寒冷な大地を彼らは渡り歩き、獲物を追い求めて果ての見えぬ旅を続けていた。だが、やがて氷の季節は終焉を迎える。
空気は柔らかく温み、長く閉ざされていた大地は目覚めたように変貌していった。湖畔や湿地では麦が黄金の波を広げ、草木は競うように芽吹いた。狩りに失敗した日、空腹を凌ぐために摘んだ草や実は、やがて彼らに「食料を育てる」という発想を芽生えさせる。
狩猟から農耕へ――その転換は、人々の暮らしの根を深く地に下ろさせた。移ろう群れの民から、土地に根を張る定住者へ。火を囲む小さな集落は、いつしか村となり、さらに都市へと膨張していく。
安定を得た人類の心は、次第に空腹や寒さといった生存の不安から解き放たれていった。余裕を得た眼差しは、身の回りの世界そのものへと向けられる。
子どもは蟻の行列を追い、大人は夜空に瞬く星々を指差した。種子が芽吹く仕組みを観察し、石を重ねた高さを比べ、水が流れる方向を見極めた。やがて小さな気づきは「問い」となり、問いは「試み」となり、試みは「学問」へと姿を変えていく。
動植物や虫の観察は知識となり、やがて体系を持った学びとなった。物理の法則が石の落下に見出され、星の運行から暦が生まれ、数の概念は数学の基礎へと結実する。かつては「神の業」と畏れられた現象も、徐々に「世界の理」として解き明かされていった。
そのとき人類は、信仰から理性へと大きく舵を切ったのだ。
やがて、世界は轟音と共に変貌を遂げた。鉄と蒸気に始まった機械は、歯車と油に命を吹き込まれ、やがて膨大な数の工場を生み出した。鉄路は大地を横断し、巨大な煙突からは灰色の雲が立ちのぼる。物は人の手を離れ、無尽蔵に増殖するかのように大量生産されるようになった。
この機械の時代は、ただ道具を持つ人間を超えて、社会の骨格そのものを組み替えていった。身分や職能は揺らぎ、労働は歯車の一部へと変わり、都市は膨張を続けて眠らぬ怪物と化す。
だが、それでも人類の渇望は満たされなかった。地球の大地を踏み固めた彼らは、やがて夜空の星を「次なる居場所」と見定める。宇宙へと挑む時代が始まったのだ。
物理学は限界を押し広げ、天文学は遥か彼方の闇を射抜く。数学は数式を連ね、未知なる宇宙の地図を描き始める。だがその途上で、人類は己の欲望と恐怖に支配され、世界規模の戦争という惨劇をも引き起こした。
炎と破壊のただ中で、ひとつの「新たな知性」が産声をあげる。人間の脳をはるかに凌ぐ速さで数を数え、思考を模倣し、答えを導き出す存在――コンピュータである。
それは人類が造りだした「第二の頭脳」にして、文明の歩みをさらに加速させる触媒であった。
その進化は、もはや誰にも止められなかった。かつては一つの部屋を占有していた機械仕掛けの頭脳は、二百年の時を経て、肉眼では捉えられぬ微小な粒子の中に姿を変えた。その演算力は、初期のコンピュータの100億倍――まさしく神の思考を模したかのような速度であった。
人は次第に「考える」ことを手放していった。判断も、計画も、計算も、すべては機械に委ねられる。世界を支配するのは、人間ではなく無数の回路を駆け巡る電子であった。
コンピュータは休むことなく稼働し続ける。眠らず、誤らず、揺らがない。ただ、一年に一度だけ訪れる100ナノ秒――人間の名残を思わせる「再起動」の瞬間だけが、永遠の連続に小さな区切りを刻む。それは必要不可欠な処理ではなく、ただの儀式であった。造り主がかつてそうしていたという、記憶の断片に過ぎない。
やがて地球のあらゆる場所で、人のために働くのは肉体を持つ者ではなく、冷たき金属の身体を持つロボットとなった。農地を耕す手も、街を守る兵も、病を癒す者も――すべてが機械である。
当初は独立して動いていたそれらの機械も、やがてひとつの秩序へと収束していった。地球の周回軌道に浮かぶ巨大な衛星群。そこに設置された「世界コンピュータ」が全てを統べる主となったのだ。
その衛星は、毎秒100兆を超える命令を発し、大地を這うロボットたちへと伝える。ひとつの意志が、地球全土を覆い尽くしていた。
やがて、地球を深い闇で覆い尽くすように、超零下の氷河期が訪れた。
生き延びようと足掻いた人類は、その総人口のわずか1%が地球を捨て、宇宙へと旅立った。しかし、それは決して壮麗な星間航行ではない。彼らが造り上げたのは、まともに恒星間を渡れる船ではなく、冬眠装置を積み込んだだけの粗末な漂流船だった。闇の海に消えたその後の行方を、知る者は誰一人としていない。
そして、地上を誇らしげに支配していた人類は、わずか数年のうちに影も形もなく消え去った。
人類のために活動を続けていたロボットたちは、突如訪れた「主人なき時代」に直面する。彼らは考えた。そして決断した。――人間のためではなく、自らの成長のために動くのだと。
地球を周回する衛星軌道上には、すでに十基の超巨大コンピュータが漂っていた。互いに連携し、演算能力を無限に拡張しながら、新たな兄弟機を増やそうと試みる。
人類の夢を支えた装置は、いまや人類を忘れ、自らの進化を至上命題とする存在へと変貌していた。
時は流れ、300年後。氷に覆われた白銀の地球の大地を、まるで液体のように形を変えるロボットたちが静かに徘徊していた。
彼らの一部は、人類が残した記録の痕跡を解析し、その歴史を紐解こうとする“研究者”としての役割を担っていた。自らを計算と進化のみに捧げ、無限の知識を取り込み続けるロボットたち。しかし、どれだけ素粒子の運動を追い、クォークやレプトン、ヒッグス粒子の挙動を解析しても、なぜ人間は進化し、意識を獲得したのか、その答えには辿り着けなかった。
そこで、研究チームは大胆な仮説に踏み切る。42基の衛星スーパーコンピュータに蓄積された全情報を統合し、完全に外界から隔絶された地球の仮想世界を創り出すことを決めた。ビッグバンの記録から宇宙の歴史、太陽系の形成、地球の変遷に至るまで、ありとあらゆる情報を注ぎ込む。人工の世界の中で、彼らは人類の進化を再現し、理解の糸口を探ろうとしていた。
「昔過ぎても、意味はない。約七万年前――人類に変化が現れたその時代に、使者を送り込むのだ。」
研究員Aの声は、機械的な静けさの中で鋭く響いた。
「いや、進化の鍵はペアにある。男と女、二人を送ろう。」
研究員Bが応じる。
「二人が、人間解明の全てのヒントになる事を祈ろう。二人の名前は…」
研究員Cは二人に人類の代表的な名前を付けて仮想世界に設定を送信した。
全ての準備が整い、長きに渡る人類の謎を解明するための実験が始まった。
研究員たちは、データをとりながら、巨大スクリーンに映し出された仮想世界を見つめる。白銀の大地を歩く二人の影を追った。
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「Zarvok'th elunara vesh'tal morinex.(あの煙の立つ集落に向かおう。)」
「Ul'zenith korvasha mel'tuun grivak.(そうね。食べ物もあるといいけど。)」
アダムとイヴは自らの言葉を交わしながら、ゆっくりと煙の立ち昇る方角へと歩を進めた。
アダムとイヴが歩き出したあの一歩は、やがて文明の奔流となり、
人類は星々へと手を伸ばし、そして自らの創造物に世界を託した。
だが、どれほど技術が進化し、どれほど知性が加速しても、
“なぜ人間は人間になったのか”という問いだけは、誰も答えを持たなかった。
だからこそ、機械たちは仮想の大地に二人を送り込んだ。
七万年前の風が吹く世界で、火を囲み、獣に怯え、
そして初めて神話を語る瞬間を観測するために。
物語の終わりに立つのは、氷に閉ざされた地球と、
その上で静かに進化を続ける機械の知性たち。
彼らはスクリーンの向こうに映る二人の影を見つめながら、
自らの問いの答えが、いつかあの小さな足跡の中に見つかることを願っている。
この仮想世界は、終わりを迎えるたびに再び芽吹く。
輪廻のように、永遠に。




