第9話:水無月 澪
頬の熱が、いつまでも引かなかった。
痛みそのものより、痛みを与えられた事実が、頭の中で反響している。
柊 翔はソファの背に寄りかかったまま、言葉を探していた。
探しても、見つからない。
妹――いや、妹“役”の少女は、目の前で泣いている。
泣いているのに、逃げない。
震えているのに、引かない。
配慮でも、遠慮でも、ない表情。
翔は、そっと自分の頬に指先を当てた。
体温が、そこだけ別の生き物みたいに残っている。
「……痛いか」
言ってから、遅れて自分に嫌気が差した。
ズレている。今言うことじゃない。
でも、口が勝手に動いた。
少女は首を振る。
「違う」と言いたいのに、涙で言葉が詰まっている。
「私が……ごめん……」
やっと出た声は掠れていた。
翔は、首を振った。
「謝るな」
言い切ると、少女の目が揺れた。
そこにあるのは、安心じゃない。
傷ついた顔だった。
翔は、深く息を吐いた。
胸の奥がざらつく。
「……信用しろ、って言葉が嫌いなんだ」
さっき吐き捨てた本音が、まだ舌に残っている。
「分かってる。お前が悪いわけじゃない。
でも、聞こえ方がある」
少女はうなずいた。
それでも泣き止まない。
泣きながら、必死に立っている。
「……私ね」
少女が言った。
声は小さいのに、逃げ道を塞ぐ強さがあった。
「兄様に、信用してほしいんじゃない」
翔の眉が、僅かに動く。
「……じゃあ何だ」
少女は唇を噛んで、ひと呼吸置いてから言った。
「壊れたままでもいいから、ここにいてほしい」
重い。
その言葉は、優しさじゃない。
願いでもない。
――宣言だ。
「私は妹として生きるって決めた。
兄様が兄でいる気がなくても」
昨日までの“配慮”とは違う。
これは、彼女の意思だ。
翔は、目を逸らした。
逸らした先に、部屋の隅の観葉植物がある。
生活感を演出するために置かれた、整いすぎた緑。
「……俺は」
翔は口を開き、止めた。
言葉にすると、どれも嘘になる気がした。
俺は兄じゃない。
俺は家族を信じない。
俺は——
それを言った瞬間、彼女が崩れる気がした。
だから、翔は別の言葉を選んだ。
「……お前は、ここで何をしたい」
少女が目を見開いた。
質問の形をしているのに、これは確認だ。
関係を続けるための条件を問うている。
少女は涙を拭いた。
拭いてもすぐに落ちる涙を、乱暴に拭って、真っ直ぐに言った。
「約束がほしい」
翔は、黙った。
その単語は理解できる。
感情じゃない。契約だ。
「兄様、復讐したいんでしょ」
淡々と言った瞬間、翔の中の警戒が跳ねた。
言い当てられたのが嫌なのではない。
この子がその言葉を口にできる位置まで来ていることが、怖い。
「……誰から聞いた」
「誰からも」
少女は、首を振った。
「分かるよ。分かる。
兄様が“許さない”って決めてるの、ずっと見てきたから」
翔は言葉を失った。
見られていた。
見られているのに、何も言われなかった。
だから怖かった。
「協力する」
少女は言った。
まるで、明日のお弁当の話をするみたいに、普通の声で。
「やめろ」
翔が即座に言う。
「それはお前の仕事じゃない」
「私が決める」
少女は、初めて翔の言葉を遮った。
ビンタの時と同じ目だった。
「兄様が壊れていくのを見るのが、私の仕事じゃないのは分かる。
でも、ここにいるって決めたのも私」
翔の胸の奥が、きしむ。
「協力って、何をする気だ」
翔が訊くと、少女はすぐ答えない。
少しだけ考える。
その“考える時間”が、彼女を便利キャラじゃなく、人間にしていた。
「全部はやらない」
少女が言った。
「兄様の復讐は、兄様のもの。
私は……兄様の目が曇らないようにする」
翔は眉をひそめた。
「……曇る?」
「兄様は、許さないって決めてる。
その一貫性は、私は否定しない」
少女は一度だけ息を吸った。
「でも、怖いの。
この世界は優しいから、逃げ道が多い。
優しさの中で、人は自分を正当化できる」
翔の中で、第7話で感じた“動かない誰か”の影がよぎる。
少女は続けた。
「もし相手が“被害者でいれば守られる”って方向に逃げたら、
兄様はもっと苦しくなる」
翔は、何も言えなかった。
それは、俺が薄々感じていたことだ。
「だから、私は約束がほしい」
少女は、もう一度言った。
「協力する代わりに」
翔は、喉の奥が乾くのを感じながら訊いた。
「……何の約束だ」
少女は、ほんの少しだけ躊躇った。
それから、言葉を選んで言った。
「復讐が終わったら」
翔の心臓が、一拍遅れる。
「……終わったら?」
「兄様が、相手を“復讐相手”として見なくなったら」
殺すとか、捕まえるとか、そういう話じゃない。
精神の条件だ。
終わりが曖昧で、だからこそ逃げられない。
「その時、私を……妹として扱ってほしい」
言い切ると、少女は俯いた。
泣いている。
でも、声は震えていない。
翔は、言葉を失った。
妹として扱う。
それは簡単な言葉だ。
でも、俺にとっては、母の死と同じ場所に刺さっている。
家族を信じること。
優しさを受け取ること。
それは、母を失った自分を認めることでもある。
翔は、ゆっくりと息を吐いた。
「……できるか分からない」
正直に言った。
嘘をつく方が、もっと残酷だ。
少女は、うなずいた。
それだけでいい、とでも言うように。
「分かってる。
“できる”って言ってほしいんじゃない」
翔は顔を上げた。
「じゃあ何だ」
「“やる”って言ってほしい」
少女は、泣きながら笑った。
初めて見せた、作っていない笑顔だった。
「できるかどうかじゃなくて、
やる気があるかどうか」
翔は、喉の奥で何かが引っかかるのを感じた。
母の顔が浮かぶ。
あの安心した顔。
あの時、俺は何もできなかった。
今も、できる保証はない。
でも――やると言うことはできる。
翔は、ゆっくりとうなずいた。
「……分かった」
少女の呼吸が、震えながら整う。
「復讐が終わったら。
俺が“復讐相手”として見なくなったら。
その時、お前を妹として扱う努力をする」
努力という言葉に逃げた自分を、翔は内心で叱った。
でも、それ以上の約束は今は出せない。
少女は、涙を落としながら、何度も頷いた。
「うん……それでいい……」
翔は続けた。
「その代わり」
「うん」
「お前は、自分を削るな。
復讐のために、自分の人生を燃やすな」
少女は少しだけ目を丸くした。
そして、静かにうなずく。
「それも、約束に入れていい?」
「入れろ」
翔が言うと、少女は小さく笑った。
泣きながら笑うのは反則だ、と翔は思った。
でも口には出さない。
しばらく、二人の間に沈黙が落ちた。
気まずさは消えない。
仲直りでもない。
ただ、一本の線が引き直された。
翔は、視線を落としたまま言った。
「……ところで」
「なに?」
「お前の名前」
少女の表情が、ほんの少しだけ驚きに変わる。
翔は続けた。
「今まで、聞いてなかった」
少女は、一度だけ唇を噛んだ。
それから、胸の前で小さく拳を握り、まっすぐに言った。
「……今まで、言わなかったんだよ」
涙の跡が頬に残っている。
でも、目は逃げない。
「私は――水無月 澪」
名乗りは、お願いでも確認でもなかった。
ただの自己紹介だった。
「兄様の妹として生きるって決めた人間。
水無月 澪です」
翔は、その名前を頭の中で反芻した。
柊ではない。
同じではない。
それでも——彼女は妹だと言った。
その事実が、胸の奥を静かに重くする。
翔は、頬の熱が少しだけ引いたことに気づいた。
代わりに、別の熱が灯る。
約束。
契約。
終わったら。
それは未来の話だ。
だからこそ、今の自分を縛る。
柊 翔は、澪の名前をもう一度心の中で呼んだ。
まだ、信じてはいない。
でも――
名前を知った瞬間、
“妹”という役割だった存在が、
急に、人間としてそこに立った。
それだけで、今夜は十分だった。




