第8話:信用しろという言葉
夕方の光は、家の中をやけに柔らかく見せた。
カーテン越しのオレンジ色が、床に滲んでいる。
静かで、穏やかで、何事も起きていないような時間帯。
柊 翔はソファに座ったまま、何もしていなかった。
端末も見ていない。
考え事すら、していない。
――何もしない、という状態。
それが、ここ数日で一番多い。
「……兄様」
妹の声がした。
台所からではない。廊下からでもない。
同じリビングの、少し離れた位置。
「なに」
短く返す。
妹は一歩だけ近づいて、止まった。
この距離感も、もう当たり前になっている。
「最近……兄様、ずっと一人で考えてるでしょ」
否定しなかった。
肯定もしなかった。
「管理局の人とも話したし……
この世界のことも、少しは分かってきたと思う」
妹は、翔の表情を見ている。
探るようでもあり、怖がっているようでもある。
「だから……」
一瞬、言葉に詰まる。
「もう少しだけ、周りを信用してもいいんじゃないかなって」
その一言で、空気が変わった。
翔の中で、何かが音を立てて止まる。
信用。
その単語は、
ここでは何度も使われてきた。
管理局が言う。
母が言う。
医者が言う。
そして、妹が言った。
同じ言葉。
同じ方向。
翔は、ゆっくりと顔を上げた。
「……信用、か」
声は低かった。
怒ってはいない。
でも、温度もない。
「兄様……?」
「なあ」
翔は、妹を見た。
初めて、真正面から。
「お前さ」
そこで、言葉が一度途切れる。
自分でも驚くほど、胸の奥が重い。
「……分かってるつもりか」
妹が息を呑む。
「俺にとって、その言葉がどう聞こえるか」
少しだけ、声が震えた。
それでも、止めなかった。
「信用しろ、っていうのはさ」
翔は、指を組んだ。
「忘れろ、って言ってるのと同じだ」
妹の顔が、強張る。
「そんなつもりじゃ――」
「分かってる」
被せるように言った。
「分かってるよ。
お前が悪気で言ってるんじゃないことくらい」
だからこそ。
「でもな」
翔の声は、静かだった。
「お前らの、その“優しさ”が」
一瞬、言葉を探す。
「……わざとらしくて、信用できない」
妹の目が見開かれた。
「守ってるつもりなんだろ。
配慮してるつもりなんだろ」
翔は、目を逸らさなかった。
「でもそれって、
俺が壊れてる前提で扱ってるってことだ」
沈黙が落ちる。
「信用しろって言うなら、
まず、俺が何を失ったかを無かったことにするな」
声が、少しだけ荒くなる。
「母は死んだ。
それで終わりだ」
妹の唇が、小さく震えた。
「それなのに……
この世界は優しくて、
みんな“大丈夫”って顔をする」
翔は、息を吐いた。
「そんな優しさ、
俺には嘘にしか見えない」
次の瞬間。
――ぱん、と音がした。
頬に、衝撃。
世界が、一瞬だけ白くなる。
翔は、何が起きたのか分からず、ただ瞬きをした。
目の前に、妹がいた。
拳を握りしめ、肩を震わせて。
泣いていた。
「……それでも」
声が、掠れている。
「それでも、私は兄様の妹だよ…?」
涙が、ぽろぽろと落ちる。
「兄様がどうなっても、
信用しなくても、
優しさが嘘に見えても」
妹は、一歩も引かなかった。
「私は、妹として生きる」
翔は、言葉を失っていた。
怒りでも、悲しみでもない。
初めて見る表情だった。
配慮でも、遠慮でもない。
覚悟の顔。
「……兄様が、兄でいるつもりがなくても」
妹は、涙を拭わなかった。
「私は、兄様の妹で居たい
頬が、じんじんと痛む。
でも、その痛みより。
胸の奥が、ひどくざわついていた。
これは――
今まで見てきた“優しさ”とは、違う。
翔は、ゆっくりと息を吸った。
言葉が、出てこない。
出てきたとしても、
それが正しいかどうか、分からなかった。
ただ一つ。
この瞬間から、
何かが確実に変わったということだけは、
はっきりと分かっていた。




