第6話:線を引く準備
朝は、また同じように始まった。
妹のノック。
朝食の匂い。
母の「無理しなくていいからね」という声。
安全で、静かで、配慮に満ちた日常。
――だからこそ、違和感が際立つ。
俺は食卓で、箸を止めた。
「……管理局に、相談したいことがあります」
二人の動きが、わずかに止まる。
でも、誰も否定しない。
「もちろんよ」
母が言う。
即答だ。迷いがない。
「兄様が必要なら、私も付き添います」
妹も続く。
――やめろ。
その“当然”が、重い。
「一人で行きます」
少し強めに言うと、二人は顔を見合わせてから頷いた。
「分かったわ。
でも、終わったら連絡して」
「はい」
それ以上、何も言わない。
この家の人間は、俺の線を尊重する。
尊重されるほど、距離を測りたくなる。
◇
管理局の建物は、相変わらず白かった。
清潔で、角がなくて、安心できるはずの色。
受付の女性が、俺の名前を呼ぶ。
「柊 翔さん。どうぞ」
名前が、完全に“登録された音”で響く。
応接室には、昨日と同じ年上の女性がいた。
「今日は、どうされましたか」
柔らかい声。
だが、仕事の声だ。
「確認したいことがあります」
「はい」
「異世界から来た人間についてです」
一瞬。
本当に一瞬だけ、視線が泳いだ。
それで十分だった。
「どこまで、把握していますか」
俺は言葉を選ぶ。
「人数。
傾向。
それから……」
少し間を置く。
「加害歴のある人物が、含まれている可能性」
空気が、張る。
「それは……」
女性はすぐに否定しなかった。
それ自体が、答えだった。
「詳細は、個人情報に関わります」
「はい」
分かっている。
最初から、名前を聞くつもりはない。
「でも、可能性は否定できない。
そうですよね」
沈黙。
「……来訪者の中には、前の世界で事件に関わった方もいます」
“事件に関わった”。
便利な言い換えだ。
「加害者、という意味ですか」
今度は、はっきりと間が空いた。
「……そう表現される方も、います」
いる。
やっぱり、いる。
胸の奥が、冷える。
同時に、妙な落ち着きが広がる。
「彼らは、どう扱われていますか」
「被害者と同様、保護の対象です。
この世界では、過去よりも“現在の安全”を重視します」
つまり。
同じ屋根の下だ。
同じ世界で、同じ“守られる側”。
「……分かりました」
それ以上、聞かなかった。
これ以上踏み込めば、
俺が“危険因子”として記録される。
線は、ここだ。
◇
帰り道、空は曇っていた。
雨は降らない。
降らないが、重い。
俺は歩きながら、頭の中で整理する。
・異世界からの来訪者は複数
・その中に、加害歴のある人物がいる
・全員、保護対象として管理されている
つまり。
この世界は、
“清算をしない”世界だ。
過去は持ち込まない。
罪も、恨みも、未解決の感情も。
全部、蓋をする。
それが、この世界の優しさ。
そして、残酷さ。
家に戻ると、妹がリビングで勉強していた。
「おかえりなさい、兄様」
「ただいま」
短い会話。
平和な光景。
母が台所から顔を出す。
「疲れたでしょう?
今日は、早めに休んでいいわよ」
その言葉に、俺は頷いた。
部屋に戻り、ドアを閉める。
ベッドに腰を下ろし、深く息を吐く。
確認は、終わった。
まだ名前は分からない。
顔も、場所も。
だが、一つだけ、はっきりした。
――あいつが、この世界にいても、おかしくない。
その可能性を、
この世界は“問題”だと認識しない。
なら。
俺が、線を引くしかない。
誰を信じないか。
どこまで踏み込まないか。
そして、もし――
もし、見つけてしまったとき。
そのとき、俺はどうするのか。
答えは、もう半分できている。
柊 翔は、まだ動かない。
だが、もう迷ってもいない。
この世界の優しさに、
自分の正気を預けるつもりはなかった。




