第二部・第5話:地獄へのカウントダウン―3
転校してきたばかりの頃、翔は「この世界は男女比が逆転してるだけの現代日本」だと、自分に言い聞かせるように考えていた。
正確に言えば、そう考えないとやっていけなかった。
世界の仕組みを疑い始めたら、復讐が終わった今の自分には、支えになる柱が何も残らない気がしたからだ。
だから、学校に通い、教科書を開き、授業を受け、日常という形に自分を押し込めることで、「ここは日本だ」「元の世界と同じだ」と確認し続けてきた。
そして実際、国内の出来事は驚くほど一致していた。
年表の並びが同じ。
出来事が起きた順番も同じ。
地名も祝日も通貨も、骨格の部分は変わっていない。
だから余計に、今朝の噂が理解できなかった。
――転校生が来るらしい。
――しかも、外国の貴族。
貴族。
その単語が、この時代の日本の教室で出てくること自体がおかしい。
貴族なんて、歴史の中にしかいないはずだ。
復讐に頭を占領されていた頃なら、「また誰かの作り話だ」で終わっていた。
だが今は違う。
空白があるせいで、違和感が目に刺さる。
刺さって、抜けない。
◇
ホームルームのチャイムが鳴り、担任がいつもの調子で黒板の前に立った。
「今日は転校生を紹介する。……本人からも希望があってな、変に騒がないでやってくれ」
その言い方が、すでに“普通じゃない”を含んでいる。
教室がざわつく。
期待半分、好奇心半分。
そして、男子が少ないこの環境では、そういうざわめきに混じる「獲物を見つけた」みたいな熱も、隠しきれずに浮く。
翔は机の上で指を組みながら、表情を薄く保ったまま、ただ扉を見ていた。
扉が開く。
入ってきたのは、確かに“貴族っぽい”と言えばそう見える少女だった。
背筋が真っ直ぐで、歩く速度が一定で、視線がまっすぐ前を向いている。
制服を着ているのに、制服が彼女に合わせているように見える。
けれど、決定的に“貴族”を主張していたのは、彼女自身ではなく――後ろに立つ二人の男だった。
同じ制服ではない。
黒に近いスーツ。
視線の置き方が、教室の誰とも違う。
壁、窓、出入り口、そして生徒たちの手元。
まるで「危険が起きる前提」で世界を見ている。
護衛だ。
担任が咳払いをした。
「紹介する。……日本の文化に興味があって、しばらくこちらで学びたいそうだ。……ええと、自己紹介を」
少女は一歩前に出て、軽く頭を下げた。
「初めまして。転入生のリディアです」
発音が少しだけ硬い。
でも日本語は流暢だった。
「日本の学校生活を学ぶために来ました。……皆さんの迷惑にならないよう努力しますので、どうかよろしくお願いします」
丁寧すぎる言葉。
だが、その丁寧さが“演技”に見えない。
教室に一瞬だけ静寂が落ちて、その直後、女子たちのざわめきが爆ぜた。
「かわいい……」
「え、護衛?」
「ほんとに貴族?」
担任が慌てて抑える。
「ほら、騒がない。……席は……そうだな、水無月の後ろが空いてる。そこに座れ」
澪の後ろ。
翔から数列離れている。
リディアは頷き、護衛は教室の後方――出入口が見える位置に立った。
生徒が先生に「護衛の人は?」と聞くと、担任は困った顔でこう言った。
「安全のための“付き添い”だ。学校側も了承している。気にするな」
気にするなと言われて気にしないほど、教室は大人じゃない。
でも、翔は別の意味で気にしていた。
この世界は、男女比が逆転している。
それだけの変化なら、教室に護衛が立つ理由にはならない。
◇
授業が始まっても、翔の頭はさっきの光景から離れなかった。
制服の下にある“身分”が、どうして今の世界で成立している。
護衛が必要な生活とは何だ。
そして何より――外国の貴族、という噂が「噂のまま」では終わらなかったこと。
休み時間、澪の机の周りはすぐに人で埋まった。
新しい転校生がその後ろに座ったのだから当然だ。
質問攻め。
「日本語上手いね!」
「どこから来たの?」
「貴族ってほんと?」
リディアは笑顔を作って受け流すが、質問のすべてに答えない。
護衛の視線が一度だけ強く動くと、周囲は妙に静かになる。
空気を制圧する力がある。
それは“貴族の威圧”ではない。
“実力”だ。
翔は、その空気の変化を見ながら、胸の奥が冷えるのを感じた。
――今まで、どうして復讐以外のことを考えなかったんだ。
復讐に集中していたから。
それだけで済ませるには、あまりにも単純すぎる。
自分は、世界のズレから目を逸らしていた。
逸らせば、復讐だけで生きられたから。
◇
昼休み。
翔は購買のパンを手にしたまま、教室の隅で端末を開いた。
検索。
世界地図。
国外の情勢。
だが、表層だけでは分からない。
記事は曖昧で、言葉の定義もこの世界の常識に合わせて書かれているから、元の世界の“差分”として読み取れない。
だから、翔は別の方法を取った。
教科書だ。
世界史の教科書。
日本史の並びが同じなら、世界史はどうだ?
ページをめくる。
大航海時代、産業革命、世界大戦――流れは似ている。
だが、ふと目に入った単語で指が止まった。
“オスマントルコ”。
その表記が、何の注釈もなく、当然のように載っている。
帝国の滅亡の記述が薄い。
いや、薄いというより――前提が違う。
翔は乾いた笑いが出そうになるのを抑えた。
やっぱりだ。
男女比だけじゃない。
世界は細部でズレている。
それが国境を越えるほど大きくなっている。
◇
放課後、翔は廊下でリディアに声をかけた。
護衛が一歩前に出ようとしたが、リディアが小さく手を上げて止める。
その仕草ひとつが、命令として機能している。
やっぱり“それっぽい”。
「少し、いい?」
翔が言うと、リディアは丁寧に頷いた。
「はい。柊翔さん……ですよね。お会いできて光栄です」
名前を知っている。
アイドル志望として、学校に来ただけで噂になる。
それ自体は今さらだ。
問題は、彼女の目が“好奇心”より先に“評価”をしていることだった。
人を測る目。
護衛と同じ種類の目。
翔は、余計な話をしないことに決めて、単刀直入に聞いた。
「どこの国から来た?」
リディアは、ほんの少しだけ間を置いた。
言い方を、この国の常識に合わせるための間だ。
「オスマントルコです」
翔の思考が一瞬止まった。
その単語が、教科書の中の文字から現実に飛び出した。
――うそだろ。
――オスマン帝国が滅びなかった世界線?
喉の奥に、言葉にならない声が詰まる。
表情は崩さない。
崩したら負けだ。
でも、内心はひどく騒がしい。
細かい外国の歴史、めっちゃ気になるんですけど!?
そう叫びたい衝動が、胸の奥で跳ねた。
翔はそれを押し殺して、平坦な声で確認だけをした。
「……その国名、今もそう呼ばれてるのか」
リディアは小さく笑った。
「はい。帝国、と呼ぶ方もいますが……正式にはそうです。日本の方には分かりづらいかもしれませんね」
分かりづらい?
違う。
分かりすぎる。
元の世界では、そんな国名は“過去形”だった。
だから今、現実に存在しているだけで、世界線がズレている証拠になる。
翔は、呼吸を乱さないようにしながら頷いた。
「日本の文化に興味があるって聞いた」
「はい。特に……学校、部活動、祭り、言葉遣い、そういう“日常”に興味があります」
それは本音に聞こえた。
政治や経済ではなく、生活。
この世界での彼女の目的は、少なくとも“支配”ではない。
翔は少しだけ安心し、同時に余計に不安になった。
生活に興味があるなら、生活を壊す何かも持ってくる。
意図せずに。
◇
その日の夜、翔は父に連絡を入れた。
父がこの世界で何をしているのか、翔は詳しく知らない。
ただ、生活がある。
仕事がある。
そして――翔が戻ってきたことで、ようやく「生きる」側に戻ろうとしているのは見て分かる。
通話が繋がる。
『どうした、翔』
聞きなれていた声がした。
いや、正確には――今も聞きなれていこうとしている声、だ。
翔は要点だけを話した。
転校生が来たこと。
護衛がいること。
出身が“オスマントルコ”だということ。
『……へえ』
父の反応は薄い。
『悪いな、俺は仕事で手一杯だ。歴史がどうとか、考えたこともなかった』
翔は一瞬言葉を失った。
だが、すぐに理解した。
当然だ。
日本から出ない人間にとって、外国の歴史なんてどうでもいい。
生活に支障がないなら、気にする理由がない。
それが普通だ。
『お前は……そういうのが気になるのか』
父の声が少しだけ柔らかくなる。
『昔から、変なところで細かかったな』
翔は笑えなかった。
昔から細かかったんじゃない。
今になってようやく、細部が見えるようになっただけだ。
復讐しか見ていなかった視界が、ようやく広がっただけだ。
父は続けた。
『まあ、気になるなら調べればいい。俺は詳しくない。……でも、無理はするな』
その言葉が、妙に胸に残った。
無理をするな。
今まで、無理の上に無理を重ねてきた自分に対して、父はそれしか言わない。
正しさも、方向も、押し付けない。
ただ、親としての言葉だけが落ちる。
翔は短く答えた。
「分かった」
通話を切ったあと、部屋が静かになった。
静かなのに、胸の奥だけがざわざわしている。
復讐が終わって空っぽになったはずなのに。
今、別の熱が戻ってきている。
怒りではない。
憎しみでもない。
――知りたい。
――この世界は、どこからズレた。
――そして、自分はどこにいる。
翔は机の上の教科書を引き寄せ、世界史のページをもう一度開いた。
“オスマントルコ”。
文字が、現実と繋がったせいで、ただの単語ではなくなっている。
復讐の代わりに、生きがいになるものがあるとしたら。
それは、こういう“世界の綻び”なのかもしれない。
翔は、乾いた笑いを漏らした。
細かい外国の歴史、めっちゃ気になるんですけど!?
今度は、心の中でだけじゃなく、声になってしまいそうだった。
第二部は、優しいだけじゃ終わらない。
でも、第二部は――もう、復讐だけでも終わらない




