第二部・第4話:燃え尽きたあと
復讐が終わった直後の二、三日――柊翔は、自分でも信じられないくらい機嫌が良かった。
世界が急に優しくなったわけじゃないし、傷が消えたわけでもないのに、胸の奥にこびりついていた砂みたいなものが一度だけ払われて、肺に入る空気が軽くなった気がした。
配信で過去を公にした夜、喉が焼けるほど怖かったのに「言った」という事実が背中を支えていたし、学校に通い始めてからは、想像よりもずっと人の目が“痛くない”ことに戸惑うくらいだった。
挨拶される、席を詰めてもらう、ノートを見せてもらう、他愛ない話を振られる――どれも、翔が遠ざけてきたものなのに、目の前では当たり前みたいに起きて、当たり前みたいに自分も返してしまう。
笑顔を作るのに慣れている自分が、たまに「今日は作らなくてもいいかもしれない」と思える瞬間があったことが、むしろ怖いくらいだった。
けれど、その軽さは長続きしない。
三日目の夜あたりから、胸の奥の“空気が軽い”感覚は、別の感覚に変わっていった。
何かが抜けたあとに残る空洞の輪郭が、はっきり見え始めたのだ。
授業中にふとペンが止まる。
配信の企画を考えようとしても、思考が途中でほどける。
笑われれば笑い返せるのに、笑い返したあとの自分がどこにもいない。
帰宅して、靴を脱いで、部屋に入って、ベッドに腰を下ろした瞬間に「……俺、何やってんだろう」と声にならない声が漏れる。
平行世界に来てまで、ここまでして、わざわざ目立つ場所に立って、名前を売って、好感度を作って――それで手に入れたのが、復讐が終わったあとのこの空洞なのか。
吐き気がするほど、くだらない。
くだらないのに、否定できない。
復讐のために積み上げた日々が「空白を作るための準備」だったみたいに感じる瞬間があって、そのたびに自分自身に対する失望がじわじわと広がった。
怒りで走っていた頃は、迷いはあっても止まらなかった。
敵がいるというだけで、世界の輪郭はくっきりしていた。
あいつは許さない、俺は進む、線は越えない、でも折れない――その単純さが、どれほど自分を救っていたか、燃料がなくなってからようやく分かる。
燃料がないと、エンジンは静かに壊れる。
爆発しない。
音を立てない。
勝手に熱が冷めていき、冷めたことに気づいた瞬間に、逆に自分が怖くなる。
「熱がなくなったら、俺は何になる?」
その問いが、夜ごとに形を持っていく。
それでも翔は、ただ沈んで終わるのが嫌だった。
嫌というより、そんな余裕はなかった。
表に出た以上、見られる側でいる以上、いつまでも“終わった人間”の顔はできない。
だから、ほんの少しずつでもいい方向に持っていこうとする努力を始めた。
努力、と呼ぶのも滑稽なくらい不器用な行為だったが、それでもやらないよりはましだと自分に言い聞かせる。
具体的に何をするか――翔が最初に思いついたのは、以前考えかけていた「男子が生きやすい場所」を現実に作ることだった。
男女比の歪みのせいで、男は過剰に配慮されるか、逆に存在そのものを消されるかのどちらかになりやすい。
かわいそう、と言われるたびに居場所が狭くなる。
守られるたびに自由がなくなる。
なら、男が男のまま、自然体で、余計な役割を背負わずに息ができる場所が必要だ――それは正義でも運動でもない。
もっと生活に近い、ただの空気の交換所だ。
翔は夜中、端末を開いて短い募集文を書いた。
長文は避ける。
思想も語らない。
誰かを糾弾する言葉も入れない。
代わりに、ルールだけを置く。
「かわいそう扱い禁止」
「過去の詮索禁止」
「恋愛目的・勧誘禁止」
「過剰な敬語も不要」
「普通に喋る、普通に笑う、普通に帰る」
――それだけ。
最後に一行だけ、「男が男として、息をしていい場所を作る」と書いて送信した。
送った直後に、急に恥ずかしくなった。
自分はいつからこんなことを言う人間になったんだ。
いや、違う。
復讐のための“組織”ではない。
ただの“逃げ場”だ。
そう言い訳しながら、翔は送信画面を閉じた。
反応は思ったより早かった。
数人の参加希望。
場所の相談。
時間の提案。
どれも淡々としていて、だからこそ現実味があった。
週末、駅近くのカフェの一角。
人数は五人。
少なすぎる気もしたが、初回なら十分だと思った。
翔は帽子とマスクで顔を隠し、目立たない席に座った。
集まってきた男たちは、誰も大声で自己紹介しない。
誰も「推しです」なんて言わない。
むしろ、互いに距離を測りながら椅子に座り、飲み物を頼み、少しずつ空気を緩めていく。
そこで翔は気づく。
自分がやっていることは、結局いつもと同じだ。
線を引く、距離を測る、安心できる範囲を作る。
違うのは、その線が誰かを排除するためではなく、誰かを“普通”にするために引かれていることだけだった。
会話は拍子抜けするほど普通だった。
「学校で男子ってだけで席を譲られ続けて、逆に居心地が悪い」
「優しくされるほど、自分が何もできない存在みたいに感じる」
「配信で男が涙を見せると、妙に持ち上げられて気持ち悪い」
――愚痴に近いのに、どれも笑いに変換される。
誰かが自虐すると、別の誰かが「分かる」と言って肩をすくめる。
翔は相槌を打ちながら、胸の奥がほんの少しだけ温まるのを感じた。
こういう会話を、自分は何年も避けてきた。
避けてきたくせに、今さら必要としている。
滑稽だ。
でも、悪くない。
悪くないはずだった。
帰り道、翔は気づいてしまう。
何かが足りない。
温まったはずの胸が、家に近づくほどまた冷えていく。
笑ったのは本当だ。
居場所はできた。
自然体を目指す場所も作れた。
なのに、心の真ん中が空っぽのままなのは変わらない。
足りないのは、目的だ。
燃料だ。
自分を前に押し出す圧力だ。
優しさでも、普通でも、自由でもない。
もっと汚くて、もっと強くて、もっと単純なもの――復讐と同じ種類の“何か”。
家に着き、鍵を開けて、玄関で靴を脱ぐ。
リビングから澪の声がする。
「おかえり」
由衣もいる。
「どうだった?」
翔は「普通だった」と答える。
嘘ではない。
普通だった。
普通で、良かった。
それなのに、胸の奥が息苦しい。
部屋に戻って一人になると、その息苦しさが形になって押し寄せる。
復讐が終わった。
言い換えれば、復讐という一本の柱が折れた。
その柱に、どれだけ自分の体重を預けていたかを、折れてから知る。
柱が折れた瞬間に転ぶんじゃない。
少し歩ける。
笑える。
普通に見える。
だからこそ残酷だ。
普通に見えるのに、中身が空っぽになっていく。
翔は、椅子に座ったまま天井を見上げた。
自分が失ったものを思い出す。
母。
信じていた友達。
安心できた世界。
帰る場所。
全部、消えた。
失ったから、復讐にしがみついた。
復讐は、正義か悪か――そんな議論をしていた時期もある。
でも本当は違う。
復讐は、翔にとって“道徳”の問題ではなかった。
復讐とは、すべてを失ってやりたいことがなくなった自分に残された、唯一の生きがいだったのだ。
生きる理由がそれしかなかった。
朝起きる理由がそれしかなかった。
息をする理由がそれしかなかった。
だから燃えた。
だから走れた。
だから笑顔すら武器にできた。
復讐は回復だと信じたかったのは、回復が欲しかったからじゃない。
回復という言葉にすがらないと、自分がただの空っぽだと認めてしまうからだ。
気づいてしまった瞬間、胸の奥がひどく冷えた。
自分は復讐のために生きていた。
復讐が終わった今、自分は――何のために生きる?
答えは出ない。
出るはずがない。
だが、分かったことが一つだけある。
翔は復讐を“終えた”のではなく、復讐という生きがいを“失った”のだ。
だから今、苦しい。
だから今、空っぽだ。
だから今、次の理由が必要になる。
その夜、翔は部屋の明かりを消さなかった。
暗闇にすると、空洞の輪郭がもっとはっきり見えてしまう気がしたからだ。
机の上には、男子コミュニティの次回案内の下書きが開いたままになっている。
やる。
続ける。
意味があるからじゃない。
自分が壊れないために。
だがそれだけでは足りない。
足りないことを、もう知ってしまった。
翔は目を閉じ、胸の奥に残る冷えを受け入れた。
復讐が終わったあとに残るものが、平和でも救いでもなく、空白だということを――ようやく理解してしまったのだから。




