第二部・第3話:転校生の笑顔
転校してからしばらく経って、翔はようやく「学校」という場所の空気に慣れかけていた。授業の進み方、廊下の匂い、誰かに話しかけられる距離。全部がまだ落ち着かないのに、それでも以前みたいに息が詰まるほどではない。優しさは相変わらず不思議だったし、好意はまだ怖かったが、それでも一日を終えられるようにはなってきた――そのはずだった。
朝のホームルーム、担任が「転校生を紹介する」と言った瞬間、教室の空気が少しだけ弾んだ。こういう場面の期待はいつも同じだ。誰が来るのか、どんな子か、話題になるか。翔はその輪から一歩離れた場所で、それを観察する側にいた。知らない人間に慣れようとしている自分が、まだ信じられない。
教室の扉が開く。入ってきたのは、よくある「可愛い」という言葉にそのまま当てはまる女子だった。髪は艶があり、制服の着こなしも上手く、笑顔の角度が自然で、視線の動かし方に余裕がある。場慣れしている。アイドル志望の女子が多いこの学校で、彼女はその中心に立てるタイプの顔だった。――そして、翔はその顔を知っていた。
喉が、わずかに鳴った。声は出ない。胸の奥が冷たくなるのに、同時に熱が走る。過去の記憶の中で「殺人鬼」と繋がっている顔。事件の前後で、あいつの隣にいたはずの人間。翔は、指先が震えそうになるのを抑えて、机の下で掌を握り込んだ。
「綾瀬 由美です。よろしくお願いしまーす」
明るい声。笑顔。何も知らないみたいな顔。担任が席を指示し、由美が歩き出す。視線が一瞬、翔の方に流れた。その瞬間だけ笑顔が固まったように見えたのは、錯覚じゃない。彼女は、翔の存在を知っている。知らないはずがない。
席が近い。近すぎる。由美は翔の列の前方、斜めの位置に座った。ホームルームが終わり、ざわつく教室の中で、由美はすぐに翔の方へ歩いてきた。躊躇がない。距離感が妙に近い。
「……ひさしぶり~」
軽い調子。だが声が一瞬だけ上ずった。
「え、ほんとに……生きてたんだ。びっくり」
その言葉は、すぐに笑いで誤魔化された。「冗談だよ」という顔で、由美は口角を上げる。でも、言ってしまった。今のは滑りじゃない。漏れた。
翔は笑わなかった。表情は作れた。作り慣れている。けれど今日のそれは、いつもの“性格がいいアイドル”の笑顔じゃない。感情を隠すための薄い膜だ。彼はその膜の内側から、冷たい声を落とした。
「……ニュースでは、俺は行方不明だとしか報道されてなかった」
由美の笑顔が一瞬止まる。周りの女子が「知り合いなの?」と目を丸くしているが、翔は気にしない。
「なのに、どうして『死んだと思ってた』って言える? ……なぜ、俺が刺し殺されたと思った?」
由美は、ぱちぱちと瞬きをしてから、急に早口になった。
「え、いや、ほら……あれだよ。あいつがさ、絶対に殺すって、包丁持ってたっていうか……勢いがすごかったし……だから、そういうこともあるかなって……」
言葉が綺麗に繋がらない。説明の形を取ろうとして、失敗している。翔は一拍、息を吐いた。表情は崩さない。崩すと、周りに見られる。今はまだ、計画を崩せない。
「嘘だな」
短く言い切った。由美の肩が跳ねる。
「父さんが必死に動いてた時期があった。指名手配になるように、情報提供だって署名だって……俺が“行方不明”のまま終わらないように。もしお前が本当に『殺された』と思ってたなら、その時点で何か言えたはずだ。……何も言わずに、時間が解決するのを待ってた人間の言うことなんて、信用できるわけないだろ」
言葉が刺さったのか、由美は笑顔を作り直そうとして失敗した。口角だけが上がり、目が笑わない。反射的に「そんな怖い顔しないでよ」と言うが、それは翔の耳に届かなかった。怖い顔? 怖いのはこっちだ。お前の笑顔の方が。
「もちろん、あいつともちゃんと話すよ」
由美は急に“正しい人”の声を出した。周の時と同じ匂いがする。安心させる言い方。終わったことにしたい言い方。
「謝る。責任は取らないといけないからね」
責任。――取る? 何を? どう取る? 翔はその問いを口に出さなかった。ここで言い争えば、教室が止まる。注目を浴びる。自分の“表”が傷つく。復讐が終わった今でも、計画は続いている。信用を作る土俵は崩せない。
「……好きにしろ」
翔はそれだけ言った。由美は「うん!」と明るく返し、あっさり背中を向けた。まるで会話が“ちゃんと終わった”みたいに。
その背中を見て、翔は確信する。終わっていない。むしろ、ここからだ。由美は何かを隠している。何より、さっきの「刺し殺されてたと思ってた」は、由美の頭の中に“そう思う根拠”があったという証拠だ。
――誰から聞いた。何を聞いた。どこまで知っている。
翔は追いかけなかった。追えば、相手の物語に乗る。今の自分は、もう“感情で動いていい立場”じゃない。アイドルを目指す以上、怒りを見せるのは最終手段だ。まだ使わない。
その日、澪は一つだけ、翔の様子がいつもと違うことに気づいていた。兄の目が、数秒だけ“昔の目”に戻った瞬間があった。怒りと恐怖が混ざった目。澪はそれを見逃さなかった。だから――彼女は、由美を観測対象に切り替えた。
昼休み。由美は一人で校舎の端へ向かった。誰かと話しているようで話していない、そんな歩き方をする。澪は迷わず距離を取って後をつけた。尾行というほど大げさじゃない。偶然を装える距離。見失わない距離。兄がやっている“線の引き方”を、澪は学んでしまっている。
由美は中庭の裏、誰も来ない渡り廊下の陰で立ち止まり、スマホを取り出した。画面を数回タップし、通話を始める。その指の速さが、慣れている。澪は柱の影に身を寄せ、息を殺した。
由美の声が、低くなる。さっきの教室の声とは違う。
「……ねえ。まだ、あの話引きずってる?」
返事は、スピーカー越しにわずかに遅れて聞こえた。男の声。澪は一瞬だけ、背筋が冷えた。聞いたことがあるような、ないような。だが次の言葉で、確信する。
『由美……? なんで今さら……』
由美は、笑わない声で続けた。
「今日ね、会ったよ。……柊翔に」
通話の向こうが一瞬静まる。次の瞬間、声が荒くなった。
『は……? 生きてたのか? ふざけんな……!』
由美は短く息を吐いた。確認するみたいに、淡々と問う。
「あなたさ。……まだ私のせいだと思ってる?」
ほんのわずかな誘導。だが、澪には分かった。これは“言わせる”問いだ。由美は今、相手に言わせようとしている。
そして、男は案の定――爆発した。
『当たり前だろ!! 由美! お前が……お前があいつを殺すように誘導なんてした!! お前があんなこと言わなかったら、俺は今頃……!!』
澪の指先が震えた。耳が痛いほど心臓が鳴る。誘導。殺すように。――この言葉を、澪は絶対に聞かなかったことにできない。
由美は慌てて声を落とすふりをして、逆に畳みかけた。
「声、大きい。誰かに聞かれたら困るでしょ?」
その言い方が、あまりにも慣れている。
『……っ、くそ……! お前だって怖かったんだろ!? お前が言ったんだ! “あいつさえいなければ”って!!』
澪は、息を止めたまま、スマホをそっと取り出した。録音ボタンに指が触れる。迷いはなかった。兄のためじゃない。自分のためでもない。――これは事実だ。消してはいけない。
由美は、少しだけ声を柔らかくした。
「うん。怖かったよ。……でもね、あなたは“自分の意思”で動いたんだよ。そこ、間違えないで」
澪は、歯を食いしばった。なんて言い方をする。責任を分けて、自分だけ軽くする言い方。
『……ふざけんな……!』
男の声が、今にも泣きそうに震える。
『俺は……俺は、戻りたいんだよ……!』
その一言で、澪は理解した。これは今の世界の話じゃない。過去でもない。――“戻りたい”という言葉は、逃げた側の言葉だ。彼はまだ、終わっていない。
由美はそこで、通話を切らなかった。ただ静かに言った。
「落ち着いて。……次、どうするか考えよ」
その瞬間、澪の背中に冷たい汗が流れた。次。どうするか。考えよ。――この女は、今も何かを動かそうとしている。
澪は柱の影で、録音画面を握りしめたまま、ただ思った。
兄様には、まだ言えない。
でも、言わないわけにはいかない。
これは、学校の話じゃない。
日常の話でもない。
第二部は、やっぱり優しいだけじゃ終わらない。
澪の胸の奥で、静かに警報が鳴り続けていた。




