第二部・第2話:通う理由
学校に通うと決めた翌朝、
柊 翔は、しばらく天井を見つめたまま動けずにいた。
目覚ましは鳴っていない。
急ぐ必要も、遅刻を気にする理由もない。
それなのに、
身体だけが妙に重かった。
――学校。
その単語が、
自分の人生に再び出てくるとは思っていなかった。
◇
復讐をしていた頃、
時間は常に“使うもの”だった。
調べる。
考える。
準備する。
無駄な時間はなかった。
いや、
無駄だと思える時間そのものが存在しなかった。
だから今、
こうして何も考えずに横になっているこの状態が、
ひどく落ち着かない。
――何をすればいい。
――今日は、何を目標にすればいい。
答えは、ない。
◇
「兄様、起きてる?」
ノックのあと、
澪の声がした。
「起きてる」
そう返すと、
ドアが静かに開く。
制服姿の澪が、
少しだけ様子をうかがうように立っていた。
「……本当に、来るんだよね?」
確認するような声。
「ああ」
短く答える。
「どうせ暇だし」
澪は、
一瞬だけ困った顔をした。
「暇だから、
学校に来る人、初めて見た」
「俺も、
自分がそうなるとは思ってなかった」
それは本音だった。
◇
支度をしながら、
鏡に映る自分を見る。
配信のときとは違う服装。
アイドルを意識したものでもない。
ただ、
“学生として浮かない”程度の格好。
それだけで、
妙な違和感がある。
――俺、
ここにいていいのか?
そんな考えが、
ふと頭をよぎる。
復讐者。
告白者。
元・時の人。
それら全部を背負ったまま、
学校という場所に足を踏み入れる。
◇
家を出る直前、
元母親が声をかけてきた。
「無理しなくていいからね」
その言い方は、
心配でも命令でもない。
ただの、
確認だった。
「落ち着かなかったら、
帰ってきてもいい」
翔は、
靴を履きながら答える。
「落ち着くかどうか、
まだ分からない」
それでも。
「……行ってみる」
◇
学校への道は、
澪と並んで歩いた。
話題は、特にない。
天気の話も、
学校行事の話も、しない。
沈黙が、
気まずくない。
それだけで、
少し救われる。
◇
校門が見えたとき、
翔は無意識に足を止めた。
登校する生徒たちが、
こちらをちらちらと見る。
視線が集まる。
――ああ。
ここでも、
もう“何も知らない存在”ではいられない。
澪が、
小さく息を吸う。
「……多分ね」
前を向いたまま言った。
「思ってるより、
みんな優しいよ」
翔は、
その言葉をすぐには信じなかった。
信じる理由が、
まだない。
◇
校舎に入る。
廊下を歩く。
ひそひそ声。
でも、
悪意は感じない。
「……あの人?」
「柊翔、だよね」
名前を呼ばれること自体が、
久しぶりだった。
◇
教室に入った瞬間、
空気が変わる。
一斉に向けられる視線。
翔は、
反射的に表情を作りかけて、
やめた。
――今日は、
兵器でいる必要はない。
担任が、
簡単な紹介をする。
配信者。
アイドル志望。
転入。
過去の話は、
一切出ない。
それが、
ありがたかった。
◇
席に着くと、
隣の女子生徒が
おずおずと声をかけてきた。
「あ、あの……」
翔は、
構えずに顔を向ける。
「昨日の配信、
見ました」
一瞬、
心臓が跳ねる。
でも。
「……すごく、
ちゃんとしてて」
言葉を選びながら、
続ける。
「だから、その……
来てくれて、
ありがとう、です」
その一言で、
頭が真っ白になる。
感謝?
ここで?
◇
「……こちらこそ」
それしか言えなかった。
隣の女子生徒は、
ほっとしたように笑った。
その笑顔に、
計算はない。
同情とも、
好奇心とも違う。
ただの、
人としての反応。
◇
授業が始まる。
ノートを取る。
先生の声を聞く。
信じられないほど、
普通だ。
そして。
信じられないほど、
居心地が悪くない。
◇
休み時間、
何人かが話しかけてくる。
配信の話。
学校の話。
誰も、
踏み込みすぎない。
それが、
逆に怖い。
――俺の過去を、
知らないから優しいのか。
――知っていて、
それでも優しいのか。
まだ、判断できない。
◇
それでも、
ふと思う。
こんな場所を、
自分はずっと
遠ざけてきた。
信用しないことで、
守ってきたもの。
だが今、
守っていたはずの世界の外に、
こんな居場所がある。
それを知ってしまったことが、
少しだけ怖い。
◇
昼休み、
澪がこちらを見る。
目が合う。
翔は、
小さく頷いた。
大丈夫だ、
という合図。
嘘ではない。
まだ、
何も始まっていないだけだ。
◇
復讐が終わり、
次に選んだのは、
戦いじゃなかった。
日常だ。
それが、
どれほど厄介で、
どれほど壊れやすいものか。
翔は、
まだ知らない。
だがこの日、
はっきりと理解した。
復讐以外の時間は、
思っていたよりも、
静かで、
残酷で、
そして――
優しい。
第二部は、
確かに、
別の形で牙を剥き始めていた。




