第4話:安全すぎる日常
朝は、静かに始まった。
ノックは二回。
強すぎず、弱すぎず、ためらいのある音。
「……兄様、起きてますか」
妹の声だった。
昨日と同じ距離感。踏み込みすぎない、でも放置もしない、ちょうどいい“配慮”。
「起きてる」
短く答えると、少し間があってからドアが開いた。
「おはようございます。朝食……無理そうなら、後でも大丈夫です」
選択肢を用意する。
それが、この家の基本方針らしい。
「行く」
「はい」
それだけで、彼女はほっとしたように笑った。
――安心されるのは、相変わらず苦手だ。
食卓には、温かい匂いがあった。
味噌汁。焼き魚。白米。
見慣れた朝食。なのに、どこか“作られた安心”の匂いがする。
「翔、無理しなくていいからね」
母役の女性が言う。
俺の名前を呼ぶときだけ、声が少し柔らかくなる。
「今日は、管理局の人が来る予定なの。
手続きだけだから、すぐ終わると思うけど……」
管理局。
昨日聞いた単語。
「分かりました」
感情を乗せずに答えると、二人はそれ以上何も言わなかった。
踏み込まない。詮索しない。
――完璧だ。
食事を終える頃、インターホンが鳴った。
来た。
昨日と同じ女性と、もう一人。
今度は若い。タブレットを抱えている。
「おはようございます、柊 翔さん」
名前を呼ばれる。
昨日より、はっきりと。
「本日は、生活環境の確認と、今後の説明に伺いました」
説明。
嫌な予感しかしない。
リビングで向かい合って座る。
妹と母は少し離れた場所にいる。
立ち会いはするが、発言はしない。そういう取り決めらしい。
「まず、この世界の基本からお話しします」
タブレットが操作され、簡単な図が表示された。
「ご存じの通り、男女比はおよそ一対千。
男性は極端に少なく、社会的に保護対象とされています」
淡々とした説明。
感情はない。事実だけ。
「保護、というのは?」
「危険から隔離する、という意味ではありません。
ただし、行動にはいくつかの制限があります」
来た。
「具体的には、居住地の登録、定期的な健康チェック、
無断外出の制限、交友関係の把握などです」
「監視、ですね」
俺が言うと、女性は首を横に振った。
「管理です。
男性が被害に遭わないための、最低限の措置です」
最低限。
その言葉を、俺は信用しない。
「拒否権は」
「ありません」
即答だった。
「ただし、意見は出せます。
柊さんの精神状態や希望は、記録されます」
記録。
それも、嫌な言葉だ。
「……質問があります」
「どうぞ」
「この世界に来た人間は、俺だけですか」
一瞬だけ、空気が止まった。
ほんの一瞬。
でも、俺は見逃さなかった。
「いいえ」
答えは、すぐに返ってきた。
「異世界からの来訪者は、過去にも確認されています」
複数。
その事実が、胸の奥に小さな棘を打ち込む。
「……そうですか」
それ以上は聞かなかった。
今は、これでいい。
説明は続いた。
学校。仕事。将来の選択肢。
どれも“用意されている”。
選べるようで、選ばされている。
「最後に」
若い方の職員が、タブレットを閉じて言った。
「何か、困ったことがあれば、必ず連絡してください。
柊さんは、この世界にとって、とても大切な存在です」
大切。
便利な言葉だ。
彼女たちが帰った後、家の中はまた静かになった。
「……疲れたよね」
妹が、小さく言う。
「大丈夫」
そう答えると、彼女はそれ以上何も言わなかった。
自室に戻り、ベッドに座る。
窓の外は穏やかで、危険の気配はどこにもない。
安全だ。
驚くほどに。
でも。
安全すぎる。
守られている。
管理されている。
理解されている“つもり”になられている。
ふと、管理局の資料の一文を思い出す。
――異世界からの来訪者は、過去にも確認されています。
もし。
もしも、だ。
もし、あいつが――
あの刃を持った男が、この世界に来ていたら。
胸の奥が、わずかに熱を持つ。
怒りじゃない。
恐怖でもない。
もっと冷たい、何か。
俺は、静かに考える。
この世界は、優しい。
そして、閉じている。
だからこそ、もし“異物”が紛れ込んでいたとしても、
外からは見えない。
――確認する必要がある。
復讐じゃない。
まだ。
ただの、安全確認だ。
俺が、この安全すぎる世界で、
壊れずに生きていくための。
柊 翔は、そう自分に言い聞かせながら、
ゆっくりと息を吐いた。




