第3話:許さないという選択
夜は静かだった。
用意された部屋は、広くもなく狭くもない。ベッド、机、クローゼット。必要なものは揃っている。
――揃いすぎている、と言った方が正しい。
俺はベッドに腰掛けたまま、しばらく動けずにいた。
電気は消してある。暗い方が落ち着く。
目を閉じると、余計なものが見えなくなるから。
廊下の向こうで、足音が一度だけした。
すぐに止まる。
様子をうかがっているのが分かる。
優しい。
配慮がある。
――だから、信用できない。
息を吸って、吐く。
呼吸は正常だ。過呼吸じゃない。震えてもいない。
自分が思っているより、俺は落ち着いている。
それが、少しだけ怖かった。
頭の中に、あいつの顔が浮かぶ。
親友だと思っていた男。
同じクラスで、同じゲームをして、同じ愚痴を言って、同じように笑っていたはずの相手。
――奪っただろ。
あの言葉。
何を奪ったのか、最後まで聞けなかった。
後から知った。
あいつは、俺が自分の彼女を奪ったと“思い込んでいた”らしい。
実際には、俺は何もしていない。
話したことすら、ほとんどなかった。
向こうが一方的に誤解して、周囲の無責任な言葉がそれを煽って、
偶然が、悪意の形を取った。
それだけの話だ。
そう、説明された。
警察も、弁護士も、教師も、同じことを言った。
「不幸な事故だった」
「誰も、こんな結果を望んでいなかった」
「彼も、深く後悔している」
後悔。
その言葉を聞くたびに、俺は思った。
――じゃあ、母は何だったんだ。
俺を庇って、迷いなく前に出て、刃を受けた。
叫ぶ間もなかった。
転ぶより先に、倒れた。
病室で見た母は、静かだった。
苦しそうじゃなかった。
それが、救いだと誰かが言った。
救い?
ふざけるな。
母は、死んだ。
それで終わりだ。
理由があろうが、誤解だろうが、偶然だろうが、
母が生き返ることはない。
それなのに。
世界は、あいつの事情を“理解”しようとする。
あいつの後悔を“評価”しようとする。
あいつの未来を“考慮”しようとする。
俺に、同じことを求めてくる。
――分かってあげて。
――許してあげて。
――前に進もう。
分かるわけがない。
許せるわけがない。
前に進む?
何を踏み台にして?
俺はベッドに横になり、天井を見つめた。
ここは異世界だ。
男女比が狂っていて、男は希少で、保護される存在らしい。
だから俺には、居場所が用意されている。
家族がいて、妹がいて、優しい母がいる。
……“いる”。
その言葉が、喉に引っかかる。
いる、だけだ。
本物かどうかは、分からない。
俺は、信じない。
それは決めている。
でも、それとは別に、もう一つ、決めなきゃいけないことがあった。
――あいつを、どうするか。
許す?
ありえない。
理解する?
それは、母を裏切る行為だ。
復讐?
今は、まだ分からない。
だけど、これだけははっきりしている。
理由を聞かない。
事情を考慮しない。
感情移入しない。
俺は、あいつを“人間”として扱わない。
それは残酷だ。
冷たい。
正しくない。
でも、正しさは、もう母を守ってくれなかった。
なら、選ぶ理由は一つしかない。
――俺が壊れない方だ。
許さない。
それだけでいい。
復讐を誓う必要もない。
怒りに身を任せる必要もない。
ただ、線を引く。
ここから先、あいつは、俺の人生に入らない。
どんな言葉も、どんな涙も、どんな後悔も、通さない。
それが、俺の正常だ。
目を閉じる。
胸の奥が、少しだけ静かになる。
不思議だった。
怒りを抑えたわけでも、悲しみを乗り越えたわけでもないのに、
呼吸が楽になる。
ああ、そうか。
俺はもう、答えを出したんだ。
柊 翔は、許さない。
それが、この世界で生きるための、
そして――母を失った自分が、これ以上壊れないための、
唯一の選択だった。




