第28話:初配信
配信ボタンの前で、
柊 翔は一度だけ、深く息を吸った。
部屋は静かだ。
カメラの向こうに、まだ誰もいない。
――ここからは、表の世界。
怒りも、復讐も、今は置いていく。
置いていくふりをする。
指が、動いた。
配信開始。
◇
最初は、何も起きない。
同時接続、二。
三。
五。
知らない名前が、ぽつぽつと流れる。
《音大丈夫?》
《画質きれい》
翔は、軽く頭を下げた。
「こんばんは。初配信です」
声は、落ち着いている。
緊張はあるが、震えはない。
「見てくれて、ありがとうございます」
台本は、ない。
でも、言うことは決めていた。
「自己紹介からします。
柊 翔です」
コメントが少し増える。
《イケメン》
《名前覚えた》
《新人?》
「新人です」
即答。
「配信も、こういうのも、全部初めてです」
嘘は言わない。
盛らない。
「今日、ここに来た理由は一つだけで」
少しだけ、間を取る。
「人気アイドルを目指します」
一瞬、コメントが止まった。
次の瞬間。
《は?》
《いきなりで草》
《宣言強い》
翔は、少しだけ口角を上げた。
「理由は、単純です」
カメラを見る。
「人に覚えてもらえる存在になりたい」
それは、本音だ。
「応援される立場に立ちたい。
それだけです」
余計なことは言わない。
過去も、背景も、語らない。
「歌も、ダンスも、
正直、まだ何もできません」
正直に言う。
「だから、これからです」
コメントが流れる。
《潔い》
《好感度高いな》
《推していい?》
翔は、軽く笑った。
「ありがとうございます」
その言葉一つで、
空気が柔らぐのを感じる。
――これが、好感度。
◇
「今日は、長くやりません」
最初から決めていた。
「自己紹介と宣言だけ」
コメントが少し残念そうに流れる。
《もう終わり?》
《短い》
「短い方が、覚えてもらえると思って」
理由を添える。
「次は、
歌か、何か企画を用意します」
視線を外さずに、続ける。
「それから」
一拍。
「コラボも、やっていきたい」
コメントが、少しざわつく。
《誰と?》
《新人同士?》
「相手は、これから探します」
ここも、嘘はない。
「一緒にやってみて、
楽しく続けられる人と」
言葉を選ぶ。
「無理に、何かを背負わせない形で」
由衣の顔が、一瞬だけ脳裏をよぎる。
――無関心でいてくれる人。
「今日は、ここまでです」
翔は、頭を下げた。
「応援してくれるなら、
また、会いに来てください」
最後に、はっきりと言う。
「よろしくお願いします」
配信終了。
◇
画面が暗くなる。
部屋に、静けさが戻った。
心臓の音が、少し遅れて聞こえる。
「……終わった」
呟くと、
背後から声がした。
「お疲れ」
澪だ。
「思ったより、普通だったね」
「普通を狙った」
由衣が、端末を覗き込む。
「初動としては、上出来」
数字は、まだ小さい。
でも、ゼロじゃない。
それで十分だ。
翔は、椅子に深く腰掛けた。
怒りは、消えていない。
復讐も、終わっていない。
でも。
世界に向けて、名前を出した。
それだけで、
確実に一歩前に進んでいる。
「……ここからだな」
澪が頷く。
「ここから」
由衣も、同じ言葉を繰り返した。
性格がいいアイドル。
穏やかな顔。
応援される存在。
それは仮面だ。
でも、
仮面を被ったままでも、
前に進むことはできる。
柊 翔は、暗くなった画面を見つめた。
次に会う時は、
もう少し、名前を覚えられているはずだ。
それでいい。
復讐は、
その先にある。
今はただ、
始めたという事実だけを、
胸の奥に置いていた。




