第25話:淡々とした提案
朝のリビングは、静かだった。
水無月 澪は、湯気の立つマグを両手で包みながら、
向かいに座る兄の顔を見ていた。
柊 翔は、いつも通り落ち着いている。
落ち着きすぎていて、逆に嫌な予感がした。
「……で?」
澪が促すと、翔は頷いた。
「結論から言う」
前置きが短い時ほど、内容は重い。
「好感度を作る」
澪は、瞬きを一つした。
「世間からの信用がないと、組織の話は前に進まない。
匿名のトップは、陰謀論扱いされるだけだ」
澪は黙って聞いている。
遮らないが、同意もしていない。
「だから、顔を出す。
名前を知らせる。
感じのいい人物として認識される必要がある」
ここまでは、まだ理解できる。
「……それで?」
澪は、続きを促した。
「性格がいいアイドルとしてアイドルになりアイドルユニットを結成する」
沈黙。
澪のマグが、机に置かれる音だけが響いた。
「……は?」
短い。
だが、全力で引いている。
「アイドルって、比喩だ」
翔は、表情を変えない。
「意味は、
・穏やか
・攻撃しない
・誰の敵にもならない
・好感度が高い
この四点を満たす“表の人格”」
澪は、ゆっくりと首を傾げた。
「……それを、兄様が? っていうか相手は?」
「そう」
即答。
「現実的に考えて、
犯人と対立する人物が信用を得るには、
“知ってる人”“嫌われてない人”になるのが最短だ そもそも相方が見つかる気がしない」
理屈は、通っている。
通っているのが、なおさら怖い。
「ちょっと待って」
澪が手を上げる。
「それ、兄様が一番やっちゃいけない役じゃない?」
「やれる」
否定はしない。
断言する。
「怒りを見せない。
本音を語らない。
誰にも深入りしない」
澪の眉が、じわじわと寄っていく。
「……それ、
“性格がいい”じゃなくて
“感情を殺してる”だけじゃない?」
翔は、少し考えた。
「結果が同じなら、問題ない」
澪は、はっきりと引いた。
「地獄じゃん」
「必要な役割だ」
「兄様」
澪は、声を低くする。
「それ、
自分が一番嫌ってる“被害者面”と
構造、同じだよ」
翔は、否定しなかった。
「分かってる」
「分かっててやるの?」
「分かってるからやる」
澪は、言葉を失った。
少しの間、沈黙が落ちる。
「……ちなみに」
澪は、恐る恐る聞いた。
「なんで、
“アイドル”って発想になったの?」
翔は、淡々と答える。
「犯人が、
俺に恋人を取られたと勘違いした」
澪の顔が、引きつった。
「つまり、
少なくとも外見条件では
勝ち目があると判断された」
「……兄様」
「自慢じゃない。分析だ」
澪は、額を押さえた。
「最悪だ……
論理的なのが、最悪」
翔は、少しだけ首を傾げる。
「他に案があるなら聞く」
澪は、しばらく黙ってから、深く息を吐いた。
「……ない」
正直な答えだった。
「でも」
視線を上げる。
「それ、
長期的に兄様が壊れるやつだよ」
翔は、静かに返した。
「もう壊れてる」
それは、悲観でも自嘲でもない。
事実の提示だった。
「これ以上壊れないための、選択だ」
澪は、何も言えなかった。
理屈としては、
兄の言う通りだ。
そして何より――
兄は、世界と戦わない方法を選んでいる。
それが、
一番、兄らしい。
「……一つだけ条件」
澪は、真剣な目で言った。
「私が、
ブレーキ役に入る」
翔は、即座に頷いた。
「頼む」
澪は、溜息をついた。
「ほんとに……
性格がいいアイドルとか、
誰が考えるの」
「俺」
澪は、乾いた笑いを漏らした。
「……最悪」
そう言いながらも、
彼女は席を立たなかった。
引いたまま、
付き合う覚悟は決めている。
それが、
水無月 澪という存在だった。




