第22話:隣に立つ理由
夜は、静かだった。
音がないわけじゃない。
ただ、余計なものが削ぎ落とされている。
朝比奈 由衣は、自室の窓辺に立っていた。
配信画面は閉じたまま。
端末は机の上に置かれている。
――押せなかった。
その事実が、まだ胸に残っている。
自分は臆病だ。
正しいことをしたいと口では言いながら、
世界の前に立つ覚悟が足りない。
だからといって、
何もしないでいられるほど、割り切れてもいない。
中途半端。
それが、今の自分だ。
玄関のチャイムが鳴ったのは、その時だった。
由衣は、一瞬だけ固まった。
こんな時間に、誰だろう。
澪なら、連絡がある。
学校の人でもない。
少しだけ迷ってから、玄関へ向かう。
扉を開けると――
そこに立っていたのは、柊 翔だった。
由衣は、言葉を失った。
「……どうして、ここが」
「澪に聞いた」
短い答え。
言い訳はない。
翔は、由衣を見ている。
責める目でも、慰める目でもない。
ただ、まっすぐだ。
「今、少し話せるか」
由衣は、反射的に頷いた。
◇
由衣の部屋は、必要最低限のものしかない。
机。椅子。ベッド。
そして、端末。
翔は、端末に視線を向けてから、すぐに逸らした。
「配信、しようとしてたんだろ」
由衣の胸が、きゅっと縮む。
「……うん」
「止まった」
「……うん」
それだけで、十分だった。
翔は、少し間を置いてから言った。
「俺は、復讐したい」
由衣は、顔を上げる。
その言葉に、飾りはない。
正義でも、理念でもない。
ただの、本音だ。
「許さないって、決めてる」
由衣は、何も言えなかった。
「でも」
翔は、続ける。
「俺一人じゃ、何もできない」
その言葉は、弱音だった。
そして、事実だった。
「動けば、相手の物語が完成する。
黙れば、世界は向こうを選ぶ」
翔は、拳を握らない。
「このままでいいわけがない。
でも、俺は前に出られない」
由衣の喉が、鳴った。
翔は、由衣を見る。
「だから、頼みたい」
命令じゃない。
提案だ。
「同じ世界の出身者としてしかできない仕事がある」
由衣の目が、揺れる。
「俺は、語らない。
でも、全部を黙らせたいわけでもない」
一歩、距離を詰める。
「世界の外から、線を引き続けるには、
内側を知ってる人間が必要だ」
由衣は、唇を噛んだ。
「……それって」
「告発じゃない」
翔は、即答した。
「正義を振りかざす役でもない」
一拍。
「確認する役だ」
由衣は、息を呑む。
「同じ世界で生きて、
同じ事件を知って、
それでも黙っていた人間にしかできない」
由衣の胸に、熱が灯る。
それは、怒りでも使命感でもない。
――居場所だ。
翔は、最後に言った。
「幼馴染として」
由衣の肩が、震えた。
「俺の味方として、
隣に立ってくれ」
頼む、でもない。
命じる、でもない。
選ばせている。
由衣の視界が、滲む。
幼馴染。
その言葉は、ずっと胸の奥に刺さっていた。
あの時、話しかけられなかった。
何もできなかった。
でも、今は。
「……私」
声が、掠れる。
「正しいこと、分からない」
「分からなくていい」
翔は、すぐに言った。
「俺も分からない」
由衣は、笑ってしまった。
少しだけ。
「……それでも、いいの?」
「いい」
短く、強く。
由衣は、深く息を吸った。
配信開始のボタンを、思い出す。
押せなかった指。
震えた手。
でも、今は違う。
「……隣に立つだけで、いいなら」
翔は、頷いた。
「それでいい」
由衣は、涙を拭った。
世界に向かって叫ばなくていい。
誰かを糾弾しなくていい。
ただ、
逃げなかった自分でいられる場所が、
ここにある。
「……分かった」
由衣は、顔を上げて言った。
「私、手伝う」
その言葉を聞いて、
翔は、初めてほんの少しだけ、表情を緩めた。
救われたのは、どちらだったのか。
それは、まだ分からない。
ただ一つ確かなのは。
復讐は、
もう一人で抱えるものではなくなったということ。
由衣は、窓の外の夜を見た。
暗い。
けれど、
足元は、はっきりと見えていた。
二人分の影が、
静かに並んで、床に落ちていた。




