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第21話:押せなかった指

配信画面は、もう開いている。


 朝比奈 由衣は、端末の前に座ったまま、動けずにいた。

 カメラはオフ。

 マイクもミュート。


 準備だけは、完璧だった。


 タイトルも決めた。

 構成も考えた。

 最初に何を言うかも、何度も頭の中で繰り返した。


 ――前の世界で、人を殺した人がいる。

 ――世界が変わっても、罪は消えない。


 正しい。

 間違っていない。


 それなのに。


 配信開始のボタンの上で、

 指が、止まった。


 ◇


 画面の端に、時刻が表示されている。


 この時間帯なら、人は集まる。

 話題性もある。

 タイミングとしては、最適だ。


 ――最適すぎる。


 由衣は、唇を噛んだ。


 もし、今これを押したら。


 世界は、私の言葉を聞く。

 同時に、誰かを“悪者”として見る。


 それが、正しいとしても。


 胸の奥に、別の感情が湧く。


 ――また、だ。


 あの時と、同じだ。


 教室の隅。

 同じクラスにいた、彼の背中。

 話しかけようとして、できなかった。


 勇気がなかった。

 関わるのが、怖かった。


 結果、

 何もできないまま、全部が終わった。


 今度こそ。

 今度こそ、違う選択をしなきゃ。


 そう思うのに、

 指が、震える。


 ◇


 澪の言葉が、頭の中で再生される。


 ――それは勇気じゃない。

 ――衝動だよ。


 否定された気は、しなかった。

 でも、逃げ道を塞がれた感覚は残っている。


 由衣は、画面に映る自分の顔を見た。


 目が、怯えている。


 この顔で、

 誰かを糾弾するのか。


 この声で、

 真実を語るのか。


 ――違う。


 それは、

 「正しいことをした自分」を守るための行為だ。


 由衣は、端末を一度伏せた。


 呼吸を整えようとする。

 でも、うまくいかない。


 胸が、苦しい。


 配信をすれば、

 少なくとも“何かした”と言える。


 しなければ、

 また、何もしなかった人間に戻る。


 その二択が、

 由衣を追い詰める。


 ◇


 端末が、震えた。


 通知。


 配信者の続報。

 コメント数増加。

 支持する声。


 由衣は、画面を見て、歯を食いしばった。


 ――このままじゃ。


 世界は、

 あの人を選ぶ。


 それが、許せない。


 でも。


 私が選ばれる必要はない。


 由衣は、その事実に気づいて、

 逆に、息が詰まった。


 じゃあ、私は何をしたい?


 正義を示したい?

 怒りをぶつけたい?


 違う。


 ――放置したくない。


 それだけだ。


 なのに、

 やり方が、分からない。


 由衣は、端末を見つめたまま、

 小さく呟いた。


「……怖い」


 声に出した瞬間、

 涙が滲んだ。


 誰かを告発するのが、怖い。

 世界に向かって語るのが、怖い。


 そして何より。


 また、間違えるのが怖い。


 ◇


 由衣は、配信画面を閉じた。


 保存も、削除もしない。

 ただ、閉じる。


 逃げではない。

 でも、前進でもない。


 その曖昧さが、

 胸を締めつける。


 膝の上で、手を握る。


 ――このままで、いいわけがない。


 でも、

 一人で踏み出す覚悟も、

 今の自分には、ない。


 由衣は、顔を上げた。


 窓の外は、夜。

 静かで、何も起きていない。


 世界は、待ってくれない。

 でも、

 誰かを待つことは、できる。


 由衣は、そう思った。


 誰を待っているのか、

 自分でも、はっきりとは分からないまま。


 ただ一つだけ、確かなのは。


 配信開始のボタンは、

 今夜も、押されなかったということだ。


 そして、その選択が、

 由衣を追い詰めると同時に――

 次の救いへの余白を、

 確かに残していた。

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