第18話:顔を見た瞬間
配信は、始まっていた。
柊 翔は、端末を手にしたまま、再生を止めている。
画面は暗転したまま。
音も、まだ出していない。
――最初だけ。
そう決めたのは、自分だ。
深く息を吸い、
親指で、再生を押した。
◇
画面が明るくなる。
照明は弱い。
背景は白い壁。
生活感のない、整えられた部屋。
そして――
顔。
その瞬間、
翔の視界が、狭くなった。
違う。
見覚えがある、という感覚じゃない。
一致した。
理屈じゃない。
証拠でもない。
推理でもない。
――あの日の記憶と。
心臓が、強く跳ねた。
音が、遠ざかる。
配信者の声が、言葉として届かない。
ただ、
顔だけが、そこにある。
◇
床が、冷たかった。
それだけが、はっきりと蘇る。
玄関の方から、何かが倒れる音。
母の声が、途中で切れる。
名前を呼ぼうとして、
声が出なかった。
視界の端で、
赤が、にじむ。
全部は、思い出さない。
思い出せない。
それでも、
足りてしまう。
この顔だ。
間違えるはずがない。
翔の呼吸が、乱れた。
指先が、震える。
端末を落としそうになり、
握り直す。
配信者は、何かを話している。
――怖かった。
――眠れなかった。
――誰にも言えなかった。
そんな言葉が、断片的に耳に入る。
怒りが、
音を立てて、溢れた。
頭の奥が、熱くなる。
視界が、赤に近づく。
殺した。
この顔が。
母を。
――許さない。
思考じゃない。
判断でもない。
反射だ。
立ち上がろうとして、
足に力が入らない。
歯を食いしばる。
今、ここで。
今、動けば。
世界なんて、どうでもいい。
ただ、
目の前の存在を否定したい。
◇
「……兄様」
声が、届いた。
遠くからじゃない。
すぐ隣から。
翔は、振り向けなかった。
「それ、当然の反応だよ」
澪の声は、低く、落ち着いている。
止めない。
否定しない。
「顔を見たら、そうなる」
翔の喉が、ひくりと鳴った。
「……殺した」
声が、かすれる。
「分かってる」
澪は、即答した。
「でも、今それを表に出したら」
一拍。
「兄様が“追い詰めた人”になる」
その言葉が、
怒りの熱に、冷水を浴びせた。
翔の中で、
二つの映像が重なる。
母の最期。
そして今、画面の向こうで怯える顔。
――世界は、どっちを見る?
答えは、分かっている。
「……っ」
翔は、唇を噛んだ。
叫ばない。
壊さない。
ただ、
その場に踏みとどまる。
澪は、淡々と続ける。
「兄様が怒った瞬間、
この人の物語は完成する」
翔の手の震えが、
少しだけ収まる。
「被害者は、
“怯えさせられた側”になる」
――だから。
澪は、最後にこう言った。
「今は、見て」
命令じゃない。
選択肢の提示だ。
「最初の言葉だけでいい」
翔は、画面に視線を戻した。
まだ、怒りは消えない。
消えるはずもない。
だが、
怒りに使われることは、拒否できる。
配信者の声が、
ようやく、言葉として耳に入ってくる。
震えた声で、
こう言っていた。
「……僕は、
悪い人間じゃありません」
その一言で、
全てが、はっきりした。
柊 翔は、思う。
――ああ。
――やっぱりだ。
これは、謝罪じゃない。
逃げ切るための物語だ。
怒りは、まだ胸の奥で燃えている。
だが、
線は、越えない。
その選択だけは、
母を失った日から、
一度も揺らいでいなかった。




