13
「……くっそ、ええのん当てよったな……!」
十三は肩を押さえながら後退した。斬撃は深く、そして確かに追ってきた。
さっきまでの余裕は、もうどこにもなかった。
「……もうちょい遊びたかったんやけどなァ……しゃあない」
十三は身をひるがえし、非常口へと跳ねる。
その時だった。
「――そこまでだ、戦闘は終了だ」
通路の奥から、重たくも落ち着いた声が響いた。船の揺れに合わせるように、加賀谷がふらふらと現れた。
「……うぇ……うう、マジで船酔いヤバい……」
顔色が青白い。歩くたびにわずかによろけている。
「加賀谷!? 来るな、危ない!」
ミレイが叫ぶが、加賀谷はぐっと手を上げて制した。
「大丈夫……戦う気はない。……うぉぇ……見てるだけで酔いそうだ……」
加賀谷の後ろには、杖を構えたティアがぴたりと控えていた。目つきは鋭く、ミレイの異変を察知してすぐに駆けつけたのだ。
十三は一瞬、加賀谷の姿を見て目を細めた。
「――おっと。そっちも来よったか。これは……厄介やなァ」
そして、肩を竦めて笑った。
「まあええわ。今日はこのへんにしといたる。ミレイはん、また会える日を楽しみにしとるで?」
軽い口調で言い残し、十三は非常口から風のように消えた。
直後、扉がバンッと閉まり、静寂が戻る。
⸻
少し後・船内の小部屋にて
「……ああ、マジで無理……揺れるたびに内臓が逆流する……」
加賀谷が横になりながら呻く。額には冷や汗。ティアが水の入った器を差し出しながら心配そうにのぞきこむ。
「大丈夫ですか……加賀谷さん……?」
「……情けない……はず……」
一方、ミレイは剣を収め、少し離れた壁にもたれていた。まだ呼吸は乱れているが、心は落ち着きを取り戻していた。
「来てくれて……助かったよ。ふたりとも」
加賀谷はうめきながら片手を挙げた。「……助けられたのは……こっちのほう……っす……」
ティアはミレイの方に視線を向けて、小さく微笑んだ。
「……ミレイさん、すごくかっこよかった。ありがとうございます」
ミレイは少しだけ目を丸くし、それから微かに頬を染めて目をそらす。
「当然のことをしただけよ。守るって……決めたから」
その声は静かで、けれど、どこまでもまっすぐだった。
その言葉に、ティアは胸の奥が熱くなるのを感じた。
「……お姉ちゃん」
ぽつりと、自然に口をついて出た呼び名に、ミレイはピクリと反応する。
「……ふふ、そう呼ばれるのは……悪くないかもね」
船の揺れに合わせて、どこか柔らかな空気が流れる。
その傍らでは、加賀谷が船酔いと戦いながら横たわっていた。
「……頼むから、その空気でさらに酔わせないでくれ……」
「ふふ、ごめんね、加賀谷」
ティアがくすくすと笑い、ミレイもわずかに口元を緩める。
嵐の夜が過ぎ去ったあとの、ひとときの安らぎ。
三人の旅は、少しずつ“家族”のような温かさを帯びていくのだった。
――――
──夜。赤黒い煙が空を覆い、地面を血が染めていた。
森の外れにあった小さな家は、すでに屋根の半分を崩され、木製の扉が吹き飛んでいた。
「……かあ、さ……」
泣き声にもならない声が、か細く漏れる。
五歳の少年が、壁の影で小さく震えている。
目の前では、父の叫びと、母の断末魔、そして姉の悲鳴が交錯していた。
大地が揺れ、何かが軋む音がする。
それは「魔物」だった。
狼にも似た巨大な牙。しなる四肢。
瞳に理性など微塵もなく、ただ“喰らう”という本能のみで動く化け物。
「おとう、さ……」
少年の手に、姉の切れた髪留めが落ちた。
目の前で、血飛沫と肉の断裂音が響き、何かが転がった。
それは──母の腕だった。
「──」
声が出なかった。叫びも泣き声も、喉の奥で凍りついた。
そして。
魔物は、血に染まった牙を剥き、壁の陰に隠れた少年へと首をもたげた。
──ガキの匂い。
──まだ生きてる。
──喰える。
その瞳が合った瞬間、少年の心が崩壊した。
震えも、涙も止まり、ただ真っ白になった。
だが──
「……間に合ったか」
風が裂けた。剣閃と共に、一閃。
魔物の首が、肩口から斜めに裂け、崩れ落ちた。
剣を握っていたのは、若き日のリターニ・レオナルドだった。
白銀の鎧に、紅の紋章。冷ややかな瞳で魔物を見下ろし、そして少年に視線を落とした。
「……生きてるな」
少年はすでに、自分が誰かすらも分からない目をしていた。
その時、森の奥から別の足音が響いた。
白衣に身を包んだ男が、ゆっくりと歩いてくる。
片手には分厚い皮製の契約書と、奇妙な水晶端末。
眼鏡の奥の目が爛々と光っていた。
「おおお〜〜〜これはまた、良い“素材”を拾いましたねぇ〜〜〜」
ひょろ長い体をくねらせて、白衣の男はレオナルドに近づく。
「レオナルド様ぁ。これは、ぜひ私に。いやぁ、滅多にいませんよ、こういう壊れ方をした個体。未発達な精神、極限下の断絶記憶。いやあ、これはいい……」
「……お前か、“蟲師”のファウスト」
「ははっ、そんな物騒な呼び方しないでくださいよぉ。私はただの、“契約研究者”ですってば。で、彼……もう名前も人格もなさそうですが、引き取っていいですよね?」
レオナルドは一瞬、剣に手をかけかけて……やめた。
この男に逆らえば、どんな“面倒”になるかは、よく知っていた。
「……好きにしろ」
「やったぁ〜〜〜では、しばらく“調整”して、また報告しますねぇ。飽きたら返します。たぶん」
──数年後。
レオナルドの屋敷に、ふらりと一人の青年が送り返されてきた。
片袖だけ長い黒コートに、どこか抜けたような笑みを浮かべている。
「おひさ〜。いやぁ、飽きたんで、差し上げますわ。今ならまだ“使い物”になりますし」
ファウストは手を振って去っていった。
残された青年は、無邪気な笑みを浮かべながら、言った。
「なぁなぁ、おっさんは“何して遊んでくれるんや?」
それが、“十三”の誕生だった。
────
ギルド連盟地下、執行官専用の隔離処置室。
冷たい石床に膝をついたNo.13は、首に黒い契約具の刻印が浮かび上がるのを見て、静かに目を閉じていた。
「……ほな、これで終いやな」
処分執行人たちが静かに呪文を紡ぎ始める。契約違反者への罰。記憶の削除――すなわち、魂の空洞化。十三という存在は、今日をもって歴史から抹消されるはずだった。
だが。
契約具が光らない。
刻印が、動かない。
処分執行人が顔をしかめる。
「……契約、干渉されています。内容が書き換わっている……!」
「なに……?」
その声を聞きつけて現れたのは、戦闘部門隊長サウゼル・カリンディスだった。
彼は書類を片手にゆっくりと近づき、十三の前で足を止めると、冷ややかな視線を注いだ。
「契約改竄……誰がやった?」
処分執行人たちは首を振る。
「わかりません……外部からの改変です。改竄者の特定は不可能。ただ、改変されたのは“忠誠契約項目”……“ギルド上層部への絶対服従”が、解除されている」
サウゼルの目が鋭く細まった。
(契約の改変……まさか、“あの男”か)
「――加賀谷 蓮」
つぶやいたその名に、周囲がざわつく。
「奴が……あの“契約解除士”が、十三にまで干渉を……!?」
十三がぽかんと口を開けた。
「え、なんの話? なんや知らんけど……命拾いしたんか、俺……?」
ひょろひょろと立ち上がり、サウゼルの視線を避けて後ずさる。
「んじゃ、俺……これで失礼しますわ。ほなまたー……」
あっさりと退室していく十三。
後に残ったのは、呆然とする処分官たちと、静かに拳を握るサウゼルだった。
(加賀谷蓮……貴様……)
十三が処刑室を出た直後、白衣の処分執行官たちがサウゼルに駆け寄ってきた。
「隊長! 処分対象の“十三”、健在です! どうしますか!?」
「すぐに拘束を!」
「……待て」
サウゼルの一言で、その場の空気が一変した。
「……え?」
「さっきの光……あれは“書き換え後”の光だ。
もはや以前の契約構造ではない。執行権限の正当性が失われた可能性がある」
戸惑う執行官たちに、サウゼルは冷然と告げた。
「いいか。お前ら、よく聞け。
“上の許可なく、契約書改訂後の対象に手を出す”ことが、どれほどの重罪か分かっているな?」
数人の顔色がさっと青ざめた。
「俺たちは“命令”で動く。己の判断で処理対象に手を出した瞬間、処分されるのはお前らだ」
「……でも、十三は明確な任務失敗者で……」
「だったら尚更だ。失敗者の処理権は、契約上層と監察部門に移行する。今の十三に手を出せば、
“上層命令の妨害”として、お前らごと“記憶消去”されるぞ」
静寂が訪れた。
執行官たちは目を見合わせ、やがて誰もが手を下ろす。
「放っておけ。……あいつの“処理”は、既に俺の手を離れた」
背を向けたサウゼルは、吐き捨てるように呟いた。
「……それに、“あの目”は……もう、ギルドの犬の目じゃなかった」
歩き出す彼の背後で、処分執行官の一人が小声で漏らした。
「……じゃあ、十三は――自由になったってことか?」
その声にサウゼルは、立ち止まりもせず、ただ一言だけ返した。
「違う。“誰かの”犬に、飼い主が変わっただけだ」
────
薄暗い空間を、ひょろりとした影が歩いていた。
No.13――十三。
濡れた壁を指でなぞりながら、ひとり言のように呟く。
「ふふん、なんや知らんけど……助かった、っちゅうわけやなぁ……」
足取りは軽い。まるで処分命令を受けていた本人とは思えないほどに。
「まぁ、死ぬんは慣れとるけど……ワシ、地味に生きるの好きやねんなぁ……」
虚ろな瞳の奥に、一瞬、赤い光が揺れた。
――思い出すのは、あの港での“エンデ・ヴァルグ”との邂逅。
その時、ほんの僅かに刻まれた“文字列”の違和感。契約の術式が変質した感触。
「……ったく、勝手に契約書いじるとか、趣味悪ぅて敵わんわぁ。ま、ワシも似たようなモンやけど」
十三は立ち止まり、自分の掌を見つめた。
魔力文様が浮かび上がる。
処分対象として刻まれていた“契約制限文”は消え、新たな術式に上書きされていた。
しかも――
「“絶対服従”の条文が抜けてる。命令者の記名も……あらへん。ほぉ……匿名契約、か」
何者かの“意志”だけが、十三の契約に組み込まれている。
だが、それが誰なのかは一切不明。
ただひとつ確かなのは――
「“生かされた”理由が、あるっちゅうことやな……」
どくん、と胸が鳴った。
まるで、心臓ではなく、“魂”が脈打つような重み。
「ふふっ……ほな、またおもろい遊びが始まりそうやなぁ……」
十三は仰ぐ。
船底の天井を抜け、その先にある“自由”とも“支配”ともつかぬ空を見つめた。
「どこまでいけるんやろな、ワシ……」
肩の落ちたコートを翻して、彼は闇の中へと消えていった。
まるで、また“飼い主”の命令が聞こえるのを、心待ちにする犬のように。
■ エンデ・ヴァルグ
元・契約管理庁「深層記録局」の局長。
封印契約、人格干渉契約など国家機密レベルの術式を統括。
十数年前に失踪。現在は「特級指名解除者」として存在を抹消されている。
契約制度の基礎理論を築いた人物とされる。
真の目的は「契約による秩序の破壊と、意志の自由による新秩序の構築」だと公言している。