辞めたいと言えなかった、その人の代わりに
加賀谷 蓮、三十二歳。
退職代行所属。
“辞めたいと言えない人の代わりに、会社にそれを伝える”――それが俺の仕事だった。
⸻
「……明日の朝、会社に行くのが怖いんです。助けてください」
夜遅く、届いた一通のメール。
文面の言葉は平静を装っているのに、にじむような焦燥と絶望が伝わってきた。
依頼人は、二十四歳の女性事務員。
パワハラ上司に四六時中監視され、「退職」の言葉を出すことすらできない。
プライベートの時間まで詮索され、心がすり減っていた。
「わかりました。明朝、私が直接伺います」
俺はメールを返し、予定を入れた。
この仕事はいつも、緊張感と怒りと痛みを伴う。
でも、それでもやる。
逃げるんじゃない。“守るため”に、俺が代わりに言うんだ。
⸻
翌朝8時30分。
都内某所の中堅企業本社ビル。
応接室に通され、総務部長と向き合う。
「本人が来ない? それで辞める? ふざけた話だな」
予想通りの反応だった。
俺は落ち着いた声で返す。
「民法627条に基づき、退職の意思表示は当人の自由です。
依頼人は精神的損害も受けており、継続勤務が困難と判断されています」
部長は鼻で笑いながらも、最終的には退職届を受理した。
最後に吐き捨てられた言葉が印象的だった。
「“逃げ癖”のついた奴は、どこに行っても続かねぇよ」
……そういうあんたが、誰より人を潰してるって、わからないのか。
⸻
その帰り道。
階段を下りていたとき、不意に背後から声が飛んだ。
「……あんたが、“あいつ”の退職を代行したんだな」
振り返る間もなく、鋭い痛みが胸に走る。
何かが、俺の身体に突き刺さった。
「俺の女だったんだよ……! あんたのせいで、あいつは!」
怒鳴り声が、遠ざかっていく。
足元が崩れ、視界が暗く染まった。
“俺の女”──
あの依頼人のことか。
何度も「上司がプライベートに介入してくる」と言っていた。
なるほど。
……最悪のストーカーだ。
最期の瞬間、ぼんやりと思った。
この仕事は、誰かを救う仕事だ。
けれど──
救った誰かの“加害者”に殺されるとはな。
俺は……
間違ってたのか……?
⸻
意識が、白い光に包まれていく。
⸻
気がつけば、見知らぬ大地に横たわっていた。
土の匂い。やけに澄んだ空気。
体を起こすと、空中に文字が浮かんだ。
《転移者:カガヤ・レン》
職業:代行者
スキル:1件
【契約観察眼】
誓約・契約・服従の構造を視認・解析する
条件を満たす場合、拘束構造の矛盾点を見抜き、無効化可能
「……スキル……?」
混乱は、すぐには晴れなかった。
転生? 異世界?
……ふざけるな、そんな話、現実にあるはずがない。
足は震え、喉が乾く。
現実感なんて、まるでなかった。
だが、確かに息はできる。心臓は打っている。
「死んだ……んだな、俺」
思わずつぶやいた声が、風にかき消された。
ふと、肩の小さなバッグが目に入った。
中には、薄くて汚れた羊皮紙のような紙が一枚。
手に取ると、なぜか……読める。
「お願いです。誰か、助けて──」
文字は短く、乱れていた。
震える手で書かれたように見えた。
文章として整ってもいない。ただの、叫びだ。
「……なんで、読めるんだ。これ……?」
紙を持つ手に、力が入る。
これは何かの“依頼”なのか?
誰の? どこから?
そんなの、何もわからない。
でも、たった一つ、胸の奥で引っかかった。
この言葉は、きっと“言えなかった誰かの声”だ。
そしてそれは、俺が今まで──
何度も、代わりに言ってきたものだった。
「……なんなんだよ、この世界」
そう呟きながら、俺は立ち上がった。
ふらつく足で、見知らぬ大地に第一歩を踏み出す。
加賀谷蓮32歳独身
退職代行のプロ