心の壁
父が去った家は、広く、静かだった。
母はユウトとミコを胸に抱き、玄関の戸が閉まる音を聞いたあの日の夜を、何度も夢に見た。
玄関に置き去りにされた夫の靴。
脱ぎ捨てられたままの上着。
どれもまだ、夫の匂いを微かに留めていた。
母はそれを片付けることができず、ただその前に膝をつき、目を閉じた。
(帰ってくるんじゃないか。今にも、あの優しい声で「ごめん」と言ってくれるんじゃないか……)
でも、時が過ぎても、玄関の戸が開くことはなかった。
***
三毛猫症候群――その悲劇の歴史は、社会を動かした。
最初の少年の死からわずか数年、政府は異例の速さで保護法を整備した。
ユウトが生まれると、すぐに支援が始まった。
医療費は全額公費負担。
家庭訪問の看護師が定期的に消毒や機器管理を手伝い、専用の医療センターから医師が月に一度、家を訪れた。
ミコのための流動食、排泄管理用具、モニタリング機器、保護枕……すべてが無償で届けられた。
母はその支援の手厚さに、何度も胸を打たれた。
(ありがたい……本当に……)
夜の帳の中、ユウトとミコを寝かせた後、窓の外の星を見上げ、母は小さく呟くこともあった。
「あなた……もし見ていてくれるなら……この国は、ちゃんと私たちを守ってくれてるよ……」
けれど、どんな支援があっても、母の孤独は消えなかった。
道端での視線。
公園のベンチに座ると、隣からそっと立ち去る人々。
病院の待合室で交わされる、気づかれないふりをしたひそひそ声。
「すごいわね……本当に生きてるのかしら……」
「怖くないのかしら、あの人……」
母は顔を上げ、ユウトをそっと抱きしめた。
(この子は、何も悪くない。この子は、私の誇り。)
法律がどれほど彼らを守ろうとしても、人の心の中の壁は厚かった。
母はその壁に、毎日静かに、けれど決して折れずに立ち向かっていた。