ミコ
退院の前夜、病室は静かだった。
母はカーテンの隙間から差し込む月の光を見上げ、胸に抱くユウトの小さな体の重みを感じていた。
赤ん坊の頭に寄り添うように眠る三毛猫を見つめ、そっとその毛並みに触れた。
柔らかく、まだ湿り気を帯びたその毛は、体温を宿していた。
母の胸に、あの日の記憶がよみがえった。
初めての妊娠。
小さな女の子の命を宿し、夫と名前を決めた日のこと。
――美琴にしよう。きれいな音の響きだ。優しい子に育つように。
けれど、その命は生まれることができなかった。
名を呼ぶことも、抱くこともできなかったあの日の痛みが、胸の奥で微かに疼いた。
そして今、また自分の腕に宿った小さな命。
その頭に、寄り添うように生きるこの三毛猫。
「……あなたに、美琴の名をもらってほしい。」
「ミコ。ユウトを、どうか守ってあげてね……」
母の瞳から一筋の涙がこぼれ、赤ん坊の頬に落ちた。
その夜、月の光は優しく二つの命を照らしていた。
数日後、退院の日を迎えた。
病院の玄関を出ると、春の匂いが胸いっぱいに広がった。
湿った土の香り、遠くで咲く花の甘い匂い、かすかな風の音。
母は白い手でユウトをしっかりと抱き、その頭のミコを守るようにそっと覆った。
母の頬はまだ少し青ざめていた。
細い腕は疲れをにじませながらも、赤ん坊の体を支える力はどこまでも強かった。
黒髪が春の風に揺れ、その瞳はまっすぐ前を見据えていた。
「ユウト……ミコ……これからは、私が守るからね。」
声は小さく、それでいて決して折れない意志が込められていた。
ユウトは眠りの中で、唇をわずかに動かした。
ミコも小さな体を母の手の中で震わせ、風の匂いを嗅ぐように鼻を動かした。
その姿は、小さな家族の誓いのようだった。
母はゆっくりと歩き出した。
道行く人の視線が、彼女と赤ん坊に注がれているのを感じた。
だが、母はその一つ一つの視線を胸の奥で静かに受け止め、歩みを止めなかった。
家へと続く坂道の向こうに、柔らかな光が差し込んでいた。