朔月
ーーー
「これ以上、あの村へ行くことは許さぬ。」
「そんな、お父様どうして?」
「×××××といったか。あの農夫にずいぶん入れ込んでいるようだな。お前はエインズワース家の一員なのだよ。」
「わかっています。でも…」
「お前は農夫として生きるとでも言うのか?そんなに甘いものじゃない。庭の一角で花や野菜を育てているくらいならば良いだろう。その行為に責任は無い。ただ農夫として生きるというならば、それは貴族の責任と共にこの不自由のない生活を捨てると言うことだぞ?」
ーあれから何度か村を訪れ、その度に×××××の元へと赴き共に農作業を行った。最初は少し迷惑そうにしていた彼も少しづつ私を受け入れてくれたのか、顔を出す度に笑顔で迎え入れてくれるようになっていた。(相変わらず彼は気付か無いままだったけれど…)
そんな生活が暫く続いた後、私はお父様の私室に呼び出されていたー
「それでも、私は自由に生きてみたいのです!貴族としての責務を放り出したいわけではありません。それにお父様もいつかおっしゃっていたではないですか!領主は領民の為にあると!それにお父様だって領民の生活を正しく知る為に自ら足を運んでいるではないですか!」
「それとこれとは話が違うであろう!私が領地へ足を運んでいるのは領民の生活を把握し、円滑に領地を運営する為だ!けして農夫と共に土に塗れる為に村へ赴いている訳ではない!それがお前はなんだ?領民と一緒に土に塗れたいだと?これ以上言うならばお前と縁を切っても構わんのだぞ!?」
ードンッ!
父は机を叩きつけてそう言った。
私の言葉は少し暴論であっただろうか。それでも彼と畑仕事をする楽しさを知る前ならばそれでもよかった。でも私は知ってしまった。それに知らずとはいえ、貴族の私に遠慮無く接してくれる彼との関係も心地よかった。
「!!!わかりました…お父様がそこまでおっしゃるのなら…」
「おぉ!やっとわかってくれたか!!」
「…私はこの家を出ていきます。」
「!!!なっ…あぁ、もうわかった!それならばこの家を出ていくがいい。今すぐにだ!!」
「今までありがとうございました。」
スッ…
売り言葉に買い言葉だったけれどこうして私は家を出ることにした。
「お嬢様、今一度旦那様と話をなさってください。旦那様もきっと本心では御座いません!」
「ヨーゼフ、わかっているわ。でも私も引けないもの。お父様が折れるか、私が諦めるか。我慢比べよ!それにうちにはお兄様がいるじゃない!跡取りなら問題ないわ!」
早足で出ていこうとする私を引き留めるべく、執事のヨーゼフが追いかけてくる。今にして思えば畑仕事をする為に村へ出掛ける私を見かける度に、青い顔をして追いかけて来ていたような気もする。もしかしたら私を引き留めきれなかった度にお父様に叱られていたのかも知れない。
「お嬢様…それならばせめてニコライを頼ってください。」
「ニコライ?去年までうちの庭師を務めていたニコライのこと?」
「えぇ。彼は今、村までの道中にあるエインズワース家所有の小屋に住んでおります。どうしてもお屋敷を出るとおっしゃるのならばせめて2ヶ月に一度、彼の元へと訪れて無事を知らせてください。それならば旦那様もひとまず納得するでしょう。もう引き留めませんので、せめて手紙をあやつに渡してください。すぐに書きますので。」
「えぇ。わかったわ。」
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執事のヨーゼフにニコライを頼るように言われた私は教えられた彼の住む小屋へとやって来た。
ーコンコンッ
「ちょっと待ってくれ。こんな村外れの村に何の用…って…***お嬢様…?一体どうされました?それもろくに護衛もつけずに…?」
「家出しちゃったの!この先の村で農夫として生活するわ!それでヨーゼフから2ヶ月に一度はニコライのところへ顔を出して無事を知らせるようにと言われたの!これはヨーゼフから預かった手紙よ。これからはたまに顔を出すわ!それに農夫として働くにはうちのお庭のお世話をしていたニコライの話も色々聞きたかったからちょうど良かったわ!」
「なんてことを…昔からお転婆だとは思っていましたがここまでとは…」
久しぶりに会ったニコライは元気そうだった。そしてここへ来たあらましを伝えると呆れたように頭を振って天を仰いだ。
「はぁ。とりあえず話はわかりました。もし、定期的に連絡がなければお屋敷にそのまま報告します。そこでお嬢様の逃避行は終わり。それでよろしいですな?」
「ええ!それでいいわ!また花や作物の事を色々教えてね!」
「ひとまずお疲れでしょう。ここには幸いにお嬢様のお好きな紅茶を常備しております。1日ここで休んで改めて出立するのが宜しいかと思います。それにこの1年、お屋敷の様子も少しは変わったでしょう。この老いぼれの話し相手になって貰えればと思いますが如何ですかな?」
「えぇ。ええ!いっぱい話を聞いてね!」
そうして小屋で一晩ニコライ相手に語り尽くして、そして…
「じゃあまた来るわね!風邪とか引かないようにね!ニコライももうおじいちゃんなんだから!」
「***お嬢様には敵いませんな。またお待ちしておりますよ。お嬢様もお元気で。」
そうして私は小屋を飛び出して彼の元へと駆けて行った。
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いつも通りの村の風景、いつも通りの土の匂い、いつも通りの頬を優しく撫でる風。それらは仮初であったとしてもいつも私に自由と平穏を与えてくれていた。
「×××××!また来たわ!」
「***、また唐突に来たね。ほんと何処から現れるんだい?」
「ふふ。内緒よ!それより聞いて!今日からここへ泊めてくれない?」
「え!?な、何を言っているんだよ。そんなこと出来るわけ無いだろう?急にどうしたの?」
「実は…家出しちゃった!」
「ええ!?なんでまた?ダメだよ。ご両親も心配するよ?」
「いいの!ちゃんと行き先は言ってきたもの。それに×××××が泊めてくれないと私、野宿になっちゃうわ。そして悪い奴らに拐かされてひどい目に遭わされるかも…?」
私のその言葉に×××××は開いた口が塞がらないようだった。腕を組んで暫く目を瞑った彼は色々と思案しているようだった。そして、
「わかった。そう言われて断れる訳無いじゃないか…その代わりに今まで以上にしっかり畑仕事を手伝ってもらうよ!うちに2人食べていく余裕なんてないんだから。」
「任せておいて!それにいい野菜の育て方を聞いてきたの。早速試しましょう!」
「え、君が?一体誰から?」
「ふふ。それは内緒!ひとまず休憩にしましょう!沢山歩いたからちょっと疲れちゃった!」
「ほんと何処から来たんだよ。まったく…」
×××××に家に泊めて貰う許可を得て、それに伴って目一杯畑仕事が出来るようだ。これから始まる生活に思わず心が踊った。これからどんなことが待ち受けていたとしてもきっと乗り越えられる。根拠もない自信だったけど、それがその時の私の全てだった…
ーーーーー
チュンチュン…チチチチ…
サァー…
×××××が玄関の扉を開くと外から小鳥の鳴き声が聴こえてくる。彼は柔らかい日差しを浴びながら私の方へ振り返って話しかけてきた。
「***!今日は暖かいね。雪も溶けてきてそろそろ野菜の作付けが出来そうだ!」
「今年の冬は寒かったものね。私もいっぱいお手伝いするわ!きっと今年は豊作よ!」
私は彼に向かって優しく笑った。
扉から吹き込んだ肌に触れる風は少し冷たく、冬の名残を残しながらそれでも確かに春の訪れを感じた。
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ジリジリ…
日に日に1日が長くなり、家の中も少し蒸している。動かなくても少し額に汗が滲んできていた。
彼の肩越しに見える空は吸い込まれそうなほど青く、彼は空を仰いで少し気怠そうに肩を落とした。
「×××××!毎日暑いけどお仕事頑張ってね!今日は市場へ買い物に行ってくるから、今夜の食事はあなたの好きなものにするわ!」
「そう言われると頑張らなきゃね。それに君のお父様お母様に早く認めて貰えるようにならなくちゃいけないしね!」
そう彼に発破をかけると彼は気合を入れ直すように自分の頬を叩いた。そして私の頬に軽くキスをして、彼は今日も畑へと向かった。
(市場へいって×××××の好きなものを作ってあげなくちゃ!あと、たまには彼の好きなエールでも買ってきてあげようかな?)
そうして私は彼の後を追うように家を出て市場へと向かった。
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遠くに見える山々は徐々に色づき、季節の移り変わりを告げている頃、屋敷の庭の一角で作っていた野菜たちとは全然大きさの違う野菜達を見て私はとても興奮した。ただ2人で手を入れただけじゃない、彼と一緒に作業をして十二分に満足の行く出来となった。そんな野菜達を眺めながら彼は私に話しかけてきた。
「***!今年は沢山作物が実ったね。このカボチャもいい出来だ!君の実家のお屋敷でスープとして出てくるかも知れないよ?そうすると「このカボチャの生産者は誰だね?」ってなって2人のことを認めてもらえるかもね!」
「ふふ。そうだといいわね!さ、早く収穫しましょ。次は村長さんの畑の麦の作付の手伝いがあるんだし、あんまりのんびりしてると村長さんに「遅いぞ!!」って怒られてちゃうわ!」
そう言って頭1つ分、私より大きい彼を見上げて私は満面の笑みで彼に微笑んだ。
確かな手応えと重みを感じ、私は心の中で神様に感謝を捧げながら2人で1つずつ丁寧に収穫していく。
(来年も彼とこの瞬間を迎えられますように。)
ぶわっ
応えるように急に一陣の風が吹き抜け、落ち葉が舞い上がっていった。
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シンシンシン…
また季節は移り変わり、空からは雪が降ってきた。
収穫祭も終わり、村の雰囲気も次第に落ち着きを取り戻していく。
出来た野菜たちは税としていくらか納めるらしい。そして残った他の出来のいい作物も物々交換や行商人に売ることができたようだった。
そしてあとの形が悪いものは自分で食べるらしい。毎年そうやって過ごしているそうだ。
「×××××!見て!雪が降ってきたわ!これじゃ畑仕事も満足に出来ないわね。どうしましょうか?」
「そうだね。たしかにこの調子だと暫く作業は出来なさそうだな…よし、バタバタしていてちゃんと農具の手入れが出来ていなかったから綺麗にしようかな!***も手伝ってくれるかい?」
「ええ!任せてちょうだい!」
隣にいる彼は私を誘った。
興味津々に彼の後を着いていきふと手を繋いだ。そして他愛もないことを話しながらいつも通り、畑への道を歩いていく。
繋いだ右手は私とは違う。少しゴツゴツとして大きな手だった。私はこの手が大好きなのだ。
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ーコンコンッ
「おじゃまします。ニコライいるー?」
「今回もちゃんと報告に来ましたな。ささ、疲れたでしょう。少しお茶でもしていかれるがよろしかろう。」
「そうね!ところでお父様はそろそろ折れたかしら?」
「まさか。お嬢様のお父上ですぞ?そんな簡単に折れたりはしますまいて。」
約束通り私は2ヶ月に一度ニコライの元へと通っていた。
そろそろ家出してから1年が経つだろうか?お父様は中々頑固なのでまだ折れる様子は無いようだ。彼の人となりなどはニコライからヨーゼフ経由でお父様に伝えてもらっているけれど、全然認めてくれないので私も意地になって家出を続行していた。彼との生活は楽しいので問題は無いのだが、そろそろちょっと外聞が悪くなって来ているように感じる。
「ちょっと引っかかる言い方ね。まぁいいわ!まだまだ諦める様子がないのならば、私もまだまだ折れてあげないんだから!」
「やれやれ。やはり血は争えませんな。」
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その日の夜、×××××にはお父様がまだまだ面会には応じてくれないことを伝えた。私はそこまで気にはしていないのだけれども、彼はやはり結婚もしていない女とずっと一つ屋根の下で一緒に暮らすということに申し訳なさを感じているようだった。
(なんとかお父様を説得出来ないかしら…)
そんな事を考えていると彼は心配そうにこちらを伺ったあと、もっともっと畑を立派にしてお金をたくさん稼いでお父様に認めて貰おうと言った。そんな前向きな彼の発言に私はまだまだ頑張れると思ったのだった。
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村へ来てから何度目かの収穫祭も控えたある日、今年も立派に育った作物を市場へ卸しに行った×××××がなかなか帰ってこない。夕飯の準備はとうに終え、暇を持て余して机に突っ伏していた。
(値段の交渉が上手くいってないのかしら?それとも何かトラブルに巻き込まれた?まさか怪我をしてたりしないわよね…)
そんなことを考えながら起き上がって外を眺めていると、空がうっすらと紫掛かって来た頃にようやく彼が帰ってきた。
「ただいま。」
「おかえりなさい。今日は納品だけだったのに時間がかかったのね。何か良い食材でもあったの?」
ひとまず心配していたような怪我もトラブルに巻き込まれた形跡も無く、ホッとした私は彼に遅くなった理由を訊ねた。市場へ行った時に×××××が食材を買ってくることもあるので、今が旬の食材って何かあったかな?と思い頭に思い浮かべていると、彼は照れくさそうな顔をしながら私に小さな包みを差し出した。
「あぁ。とても良いものがあったよ。***に似合うと思って買ってきたんだ。」
「ブローチ?嬉しい!ありがとう!でも、高かったんじゃないの?」
思わぬプレゼントに凄く驚いた。正直なところ農夫の日常は日用品を購入して、日頃食べていくことが目一杯であまり余裕のある生活ではない。それでも彼は日頃から冬の間や、もしもの時の為にある程度お金を貯めていた。その為プレゼントなど貰ったことは無く、私もあまり華美に着飾るのは好みでは無かったので特に気にしてはいなかったのだ。それでもやはり私は女の子なのだう。愛する人からの装飾品のプレゼントに心が躍った。
「作物の出来が良かったんで仲買商人が色をつけてくれたんだ。それとこれも。」
「なに?わっ!アネモネ!?どうしたの!?」
もうひとつの心配だった作物の値段交渉に苦労したどころか、思ったより高値で売れたらしい。そしてさらに目の前に差し出されたアネモネの花を見てさらに驚いた。
「イワンの店で見つけたんだ。***の好きな花だったよね?」
ーぎゅっ
思わず彼の胸に飛び込んでしまった。アネモネはお屋敷で育てていた事もあり、とても好きな花だ。一度、彼に好きな花を聞かれたことがあったけれど、覚えていてくれた事に感激して思わず涙が零れそうになった。そして、急になんだか恥ずかしくなって彼の胸に顔を埋めた。
「×××××、本当にありがとう!一生大切にするわ。愛してる!」
「***、僕も愛してる」
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ザーッ………
季節外れの長雨が降り続く中、私はしばらく調子を崩していた。
「***、今日は体調はどうだい?普段丈夫な君がこんなに寝込むなんてやっぱりおかしいよ。やっぱりお医者様に診てもらおう…豊作続きだったおかげで蓄えも増えてきたしお金の心配をしているなら大丈夫だよ?」
「お医者様なんて大げさよ。ちょっと疲れちゃっただけだから暫く寝ていればすぐ治っちゃうわ!だからあなたは心配しないで畑の様子でも見てきて。ね?」
彼が心配そうに私の顔を覗き込んでいる。ここへ住み始めてから何度か体調を崩したことがあったけれど、ここまで長引くのは初めてだった。でも私ばかりに構ってもらう訳にはいかない。この長雨で畑の作物が駄目になってしまっては冬を越すのが大変になってしまう。少し寂しいけれども畑の様子を見に行くように彼に伝えた。
「…わかったよ。ただし、本当にちゃんとベッドで横になっていること!なるべく早く帰るからゆっくり休んでおくんだよ。」
「ありがとう×××××。それじゃ、お言葉に甘えて横になっているわ。いってらっしゃい。」
「…いってきます。」
そう言って彼は少し歩き出したかと思えば心配そうにこちらへ振り返る。その様子を見て心配しないで良いよと伝えるようにベッドからひらひらと手を振った。
ーーー
ケホッ…ケホッ……
(本当にどうしたのかしら?いつもだったら1日寝ていれば治るのに…早く治さないと×××××がもっと心配しちゃうわ。)
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「***!熱も下がったし元気になったみたいでよかった!」
「ふふ。だから大したこと無いって言ったじゃない。お医者様なんて大げさなんだから!」
「君が体調を崩すなんて滅多に無いから心配しただけだよ。でも暫く無理しちゃ駄目だからね!」
あれから数日後、私はベッドから起き上がれるくらいには元気を取り戻した。それでも気怠さはまだ少し抜けきっておらず、少し咳が出るが彼には気付かれてはいないようだった。
「わかってるわ。あなたこそ暫くちゃんと寝ていなかったでしょ?今夜はぐっすり眠ってまた明日から頑張って働きましょう!そういえば仔牛、見られなかったわね…すぐ買い手が見つかったって…」
「残念だったね。きっと来年もまた新しい仔牛が生まれるさ!」
隣のアントンさんのところに産まれた仔牛を見るのを楽しみにしていたけれどタイミングが悪く、仔牛は売れてしまったようだった。産まれたての仔牛は見たことが無かったのでとても残念だ。
「そうね。次こそは見たいわ。その時は×××××も一緒に見に行きましょう!」
「もちろんだとも。そろそろ暗くなってくるからその前に帰ろうか?」
残念がっている私を見て彼は何かを思案しているようだったが流石に牛は飼えないだろう。でも彼ならやりかねないかな?と思い少し可笑しくなった。
「そうね。あ、その前に井戸でお水を汲んでくるわ。寝込んでいたから瓶の水が残り少なくなっていたの。」
「手伝おうか?」
「大丈夫。それよりあなたは先に家に戻って薪を割っておいて貰えると嬉しいわ!」
「わかったよ。でもまだまだ無理しちゃ駄目だからね。」
「ありがとう。それじゃ後でね!」
タッタッタッタッタッタッタッ……
ーーー
ーゲホッゲホッ!
井戸へ辿り着いた私は近くの木に向かって咳き込んだ。
走ったのは失敗だったかな?そう思い手を見ると少し咳に血が混じっている。それを見て私は怖くなった。
(…寝込んでいた時にたくさん咳をしたからよ。それで喉が傷ついちゃったんだわ。大丈夫、大丈夫…またご飯を食べてしっかり寝ればなんとも無くなるわ!)
そう自分に言い聞かせ、汲んだ水で手を洗った。帰った時に彼に気付かれないように何度も何度も…
気付けば辺りは夕陽でオレンジ色に染まっていた。
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ーギィ…
「ただいま!」
「遅かったね。心配で井戸まで様子を見に行こうとしてたところだよ。」
空が紫色に染まり始めた頃、私はようやく家に辿り着いた。心配そうな彼の顔を見て精一杯平静を装い、彼に言い訳をした。
「隣の奥さんに捕まっちゃって…ほら、暫く寝込んでいたでしょう?それで体調を心配してもらっていたの!それよりお部屋が綺麗になってる。掃除してくれたの?ありがとう!」
「薪割りが早く終わって暇を持て余していただけだよ!さ、それより早くご飯の準備をしよう!今日は君の快気祝いだし、普段より少しだけ豪華にね!」
「そんなことで贅沢してたらすぐお金無くなっちゃうわよ?でもその気持ちはとても嬉しいわ。×××××ありがとう。愛してる。」
少しの疑念も抱かせないようにおどけて笑ってみせると彼は安心感を覚えようだった。遅くなった事を詫び、料理に取り掛かろうとすると彼が夕飯を作ってくれることになった。暫く待つと良い匂いと共に器にシチューを盛り付けた彼がキッチンから姿を現した。その夜食べたシチューは今まで食べたどのシチューよりも美味しかった。
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ーコンコンッ
「お嬢様、お待ちしておりましたよ。ん?少しお痩せになりましたか?」
「ニコライこそちゃんとご飯食べてる?」
私はいつものようにニコライの小屋を訪れていた。
今までならそこまで時間もかからなかった道程がいつもより遠く感じられた。久しぶりに会うと変化があったのだろう。ニコライは少し心配そうに声をかけてきた。
「お嬢様、お久しぶりです。」
「ヨーゼフ!久しぶりね。元気にしていた?」
たまにニコライに紅茶を売りにヨーゼフがやって来ているとは聞いていたけれども、タイミングが悪くなかなか会うことがなかった。
「私は変わりなく。ニコライから元気にやっているようだと報告を受けておりましたが…お体は大丈夫ですか?顔色が少し優れませんが…」
「この間少し寝込んじゃって…でも大丈夫!もうすっかり治ったから。」
そう言って小屋へと足を踏み入れた瞬間、私は目の前が真っ暗になった。
ーバタッ
「!!お嬢様、大丈夫ですか!?」
「ヨーゼフ、落ち着け!ひとまずお嬢様をベッドに!」
「…あぁ、そうだな。お前が少し体調が悪いというので医者を伴ってきていてよかった。すぐに診てもらおう。」
朦朧とする意識の中、ニコライとヨーゼフの慌てる声を聞いた。そして私は意識を手放した。
ーーー
「あれ?なんで私は寝ているの?」
「お嬢様、気が付かれましたか!?急にお倒れになったのです。」
「…どのくらい寝ていたのかしら?」
「ほんの1時間くらいです。目を覚まされて良かった…」
「そう…心配をかけたわね。それじゃ、私はそろそろ帰らなきゃ。×××××が心配しちゃうもの。」
「何を言っているんですか!急に倒れられたのですよ!?もうお屋敷へ帰りましょう…このままでは旦那様へ顔向けが出来ません。」
ヨーゼフが必死の形相で彼の元へ帰ろうとする私を引き留めてきた。その顔を見て少し罪悪感を覚える。でも、もう彼のいない生活は考えられなかった。
「ヨーゼフ。今ここで無理やり連れ帰ってもまたお嬢様は家出するぞ。お前だってわかっているじゃろ?」
「しかし…」
「そこでだ。お嬢様、今日はヨーゼフに村まで馬車で送って貰ってください。異論は認めませぬ。そして1ヶ月後、ヨーゼフにもう一度医者を連れて来てもらいます。そこできちんと診てもらってください。でなければわしは今後お嬢様に協力は致しませぬ。」
「…わかったわ。心配をかけてごめんなさい…」
ニコライの小屋を出て、ヨーゼフと共に馬車へと乗り込み村へと戻った。村で使っている馬車とは違い、クッションを敷き詰められ振動を軽減されている馬車に懐かしさを覚えた。初めてあの村へ訪れた馬車もこの馬車だったなと思い、思わず笑みが零れた。
「…お嬢様、本当に今からでもお屋敷へ戻るつもりはありませんか?」
「…今すぐに×××××との結婚をお父様が認めてくださるのなら帰るわ。でも、そんなことは無理なんでしょう?」
「そうですね。彼がお嬢様と結婚するにはやはり身分も違います。お倒れになって伝えられませんでしたが、実は旦那様から面会許可が降りたのです。しかし今日お倒れになった事をお伝えするとさらに厳しくなるでしょう。」
「…来月までお父様には黙っていてもらえないかしら…?ちゃんとお医者様に診てもらうわ。それでダメなら大人しく帰るから。せめて後1ヶ月だけ…」
「…はぁ、わかりました。この事は私の胸の内に閉まっておきます。」
ヨーゼフの心配そうな顔を真っ直ぐ見ることが出来ず、私は顔を伏せた。もう駄目かも知れない…そんな感情が胸を満たしていき、思わず1筋の涙が零れた。
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「ありがとう。ここで大丈夫よ。」
村の近くまで送ってもらった私は馬車を降りた。村まで送るとヨーゼフは言い張ったけど、こんな馬車から降りるところを彼どころか村の人に見られる訳にはいかなかった。
「それじゃ、また1ヶ月に。」
そう告げて、私は少し覚束ない足取りで彼の元へと帰っていった。
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……ゴホッゴホッ!!
「***、気分はどう?」
「平気よ。きっと今回もただの風邪よ。最近冷えてきたからかな?もうちょっと早くお布団を足しておくべきだったわ。」
山から木々の鮮やかな色が抜け落ち、冬の足音が聞こえ始めた頃、あの日からちょうど1ヶ月経った。そして私は再び体調を崩した…
「確かに急に冷えてきたからね。ところで欲しいものはあるかい?」
「ううん。大丈夫よ。それより一緒の部屋にいてあなたに伝染っちゃうと大変だから、あなたは畑の様子を見てきてね。折角今年も沢山作物が実ったんだもの。駄目になっちゃう前に市場に売りに行かなきゃ!」
「そうだね。それに将来子供が出来たときに不自由させたくないからね。それじゃ畑へ行ってくるよ。」
「えぇ。行ってらっしゃい!ごめんね…頑張ってね。」
彼を見送り、私はこの生活に終止符を打つことを決めた。あれからも体調は戻りきらず、彼に見られないように陰で咳をしては少し血を吐いていた。そして体は痛み、限界が来ているのを感じていた。
屋敷へ戻って主治医に診てもらえれば治るかもしれない。でもそうすると二度と彼に会うことは叶わないだろう。その思いだけでズルズルと引き伸ばしてしまった…
そしてある日、もしも私が彼の元で死んでしまった時のことを考えてしまった。
きっと彼は悲しんでくれるだろう。でも身分を明かしていないとはいえ、私は貴族だ。そうなった時、平民の彼はきっと謂れのない誹りを受けて、もしかしたら父から罰を受けるかもしれない。そう考えると怖くなった。
彼の両親は私が家出をする前にすでに亡くなっていて天涯孤独の身だ。万が一死刑にでも処されてしまったら彼のご両親に申し訳がたたない。
そう思うと私のわがままで彼を不幸にする訳にはいかなくなった。勿論彼と離れたい訳じゃない。それでも彼が不幸に見舞われることだけは何としても避けたかった。今ならまだ間に合うかもしれない。
だからせめて今夜だけは…
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トントントントンッ---グツグツグツグツ…
「ただいま。」
「おかえりなさい。」
「駄目じゃないか。ちゃんと寝ていないと。」
彼はキッチンに立つ私を見ると咎めるように注意をした。その顔には心配していると言わんばかりの表情が浮かんでいる。申し訳なくなったけれど、今日だけは譲れなかった。
「もうすっかり平気よ。熱だって下がったし体も動くんだから働いてきたあなたの為に食事くらい作らなくっちゃ。」
「ありがとう。でも本当に無理はしちゃ駄目だよ?」
そう言うと良い匂いが漂う鍋に気が取られたようだ。
かき混ぜながら煮込んでいる鍋を覗き込んでいる。
「あれ?それは何を作っているの?」
「あなたが仕事をしている時に隣の奥さんが様子を見に来てくれて、その時にお裾分けを頂いたの。それで子供の頃私が好きだった料理を作っているの。香辛料は高くてあまり買えないから似たようなものだけどね!」
今までは身分のことがバレるんじゃないかと思って意図的に彼と子どもの頃の話をするのを避けていたけれど、私の事を知って欲しくなってしまった。
離れると決めたのに未練がましいとは思う。
「そうなんだ。君の子供の頃のこと、ちゃんと聞いたこと無かったね。もっと知りたいな。教えてくれる?」
「ええ。もちろん!もうすぐ出来上がるから食べながらお話しましょう!」
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---とある新月の夜---
「さっきは君のことが沢山知れて嬉しかった。今度は僕が子供の頃の話を聞い欲しいな。」
「ええ。私もあなたのことをもっと知りたいわ。今まではバタバタしてこんな風に思い出話をする余裕なんて無かったもの。」
ベッドに横たわりながら私の髪を撫でる彼は愛おしそうに私を見つめてくれる。その姿を見るだけで私も愛おしさが込み上げてくる。
「そうだね。蓄えにも余裕が出てきたし、君のご両親への面会許可も降りた。やっと本当の意味で一緒にいられるようになるね。」
「ありがとう。あなたと一緒に過ごせて本当に私、幸せだわ…」
「急にどうしたの?まるでいなくなっちゃうみたいな事を言って。」
彼のその言葉に思わず涙が浮かんだ。しかしそれがもう叶わないと思うと、彼の顔を見ることが出来なかった。
「ううん。なんでもないの。でも私、あなたと出会わなければきっと違う領地のご子息との政略結婚の道具になっていたわ。でも自分で好きになった人と一緒にいられることが嬉しいの。」
「まだまだこれから一緒に楽しいことをしよう!もちろん辛いことや喧嘩だってすることもあるだろうけど、それでも僕は君を世界一愛しているよ。」
「ありがとう。私も世界一あなたを愛しているわ×××××」
「そろそろ寝ようか。元気になったといってもまだ病み上がりだしね。」
「ええ。おやすみなさい。また明日。」
「おやすみ***。愛しているよ。」
「私も愛してるわ。×××××」
また明日。その明日がもう来ないことを知っていながら私は彼にそう告げてしまった。
悔しさと悲しさ、寂しさが胸に溢れて来る。
彼と離れたくなくて、いつもより彼に身を寄せた。
まるでその体温をその身に刻んで忘れないようにするかのように。
そうして夜は更けていった……
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スッ…
彼が眠りについたことを確認すると、起こさないように私はそっとベッドから抜け出した。
足音を立てないようにドレッサーへと近づき、彼から貰った一番大切なブローチを静かに引き出しから取り出し、上着を羽織った…
(ごめんなさい…今までありがとう。きっとこれから先もあなた以上に好きになる人なんて現れない。世界で1番あなたを愛しているわ。)
ーキィ…パタン……
もう一度最後に彼の顔を見つめ、私は未練を断つように静かに彼の元を後にした。
外に出て空を見上げると月は無く、ぼんやりと僅かな星明かりだけが輝いていた。
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ーコンコンッ
私は家を出たその足でニコライの小屋へと向かった。
あまりグズグズしていると彼が私のことを追いかけて来るだろう。そう思うといち早く彼の元から去らなければいけなかった。
「こんな夜更けに一体誰じゃ?って、***お嬢様…?一体どうなされた?医者に診てもらうとした日は明日ですぞ?」
「えぇ。わかっているわ…私、お屋敷へ帰るわ。」
その言葉にニコライは目を剥いて驚いていた。
そしてひとまず小屋の中へ案内されて、椅子に座っていると紅茶を持ってきてくれた。
心身ともに冷え切っていたところへ彼の気遣いがありがたかった。
「何があったのです?一緒に暮らしていた男はこの事を知っているのですか?」
「いえ、何も伝えていないわ。そして今後伝えるつもりもないもの。」
「わかりました…深くは聞きませぬ。しかしもう夜も遅い。ワシのベッドで良ければお使いください。」
「ありがとう。でもニコライはどうするの?」
「なに、老いぼれたとはいえ一晩くらいなら寝ずとも平気ですじゃ。何も無いとは思いますがリビングで警戒しておくことにします。幸い暇つぶしの手慰みがいくらか残っておりましてな。まぁちょうどいい機会ですわい。」
そういうと彼の寝室に案内された。
申し訳なさでいっぱいになったが、病み上がりの体で明かりの無い中を歩き通して疲れがかなり溜まっていたのだろう。ベッドに横になるとすぐに私は眠ってしまった。
ーーー
リビングで暖炉の火に薪をくべながらワシはお嬢様の様子を思い返していた。
「憔悴しきっていたの…顔色も先月よりかなり悪くなっているようじゃった。それに黙って出てきたと言っておったの…もう男と添い遂げることは叶うまいて。せめて今夜だけでも穏やかに過ごして欲しいもんじゃ…」
パチパチと薪が爆ぜる音を聞きながら、お嬢様の子供の頃の様子を思い出していた。そして安楽椅子に深く腰をかけてゆらゆらと揺れながら、冷めきった紅茶を一口、口へと運んだ。
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翌朝。日が昇って少し経った頃、ヨーゼフがお医者様を伴ってやって来た。そして、彼に屋敷へと戻る事を伝えた。
「…本当に宜しいのですか?」
「なによ。屋敷へ戻ってほしいんじゃなかったの?」
お医者様の診察を受けていると扉越しにヨーゼフがそんなことを聞いてきた。そう言われると決心が揺らぎそうだった。
諦めたくて諦めた訳じゃない。今もずっと後悔しっぱなしだ。でも彼の事を思うと尚更、彼の元を離れざるを得なかったのだ。
「×××××との生活はとても楽しかったわ。だからこそ、これ以上彼に迷惑をかける訳にはいかなくなったの…」
「…わかりました。お屋敷へ戻りましょう。」
ーーー
「それじゃニコライ、元気でね!」
「***お嬢様もお元気で。しっかり医者に診てもらって元気になってください。」
「大丈夫よ!それより、ひとつお願いしても良いかしら?」
「ワシに出来ることであれば。」
「もしかしたらここへ私のことを探しに来る人がいるかもしれないわ。そうしたらさようならとだけ伝えて欲しいの。」
「…わかりました。必ず伝えます。」
「…ありがとう。」
そうして私は馬車に乗り込んだ。もう二度と×××××と会うことは無いだろう。小屋から出発して暫く走った後、屋敷のある街へ向かう為に大きく整備された街道に出た。窓越にぼんやり眺めていた風景にふと彼の姿を見たような気がした。
(こんなに早く×××××が来れるわけ無いよね。畑だって手入れしなきゃいけないもの…)
人影を見たそれは、奇しくもそれはニコライの小屋へと続く細い道だった…
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お屋敷へと戻ってきた私はお父様にこっぴどく絞られ、またお母様、お兄様からは泣いて抱きつかれた。
×××××と離れたのはとても悲しいけれど、またこうやって家族と会うことが出来た。
「全くこの馬鹿娘が!!…よく、帰ってきた。」
「お父様、ごめんなさい。」
「あなた!そんな言い方しなくても。おかえりなさい***。少し逞しくなったかしら?でも大人びたわね。」
「お母様…ただいま帰りました。心配をかけてごめんなさい。」
「良いのよ。こうして無事に帰ってきたんですから。」
「***、よく帰ってきた。」
「お兄様、お元気そうでなによりです。少しお疲れのようですけれど?」
「あぁ、父上から後を継ぐように言われてな。再来週には継承の義を王都で行う予定だ。見てみろ!父上はお前が家出してからやつれてしまってな。見るに見れなかったから前倒しにはなるが私が次の領主として後を継ぐことになったのだ。」
「それはなんとも…申し訳ございません…」
叱責をうけ、また家族に迎え入れられた私は数年ぶりに会う家族のぬくもりに触れた。父も母も少し痩せただろうか?それに白髪も少し増えたように感じる。
対照的に兄はまさしく全盛期と言わんばかりに活力が漲っており、子供の頃の父を彷彿とさせた。
「ところで***、体調があまりすぐれないらしいな?医者を呼んでいる。診てもらいなさい。」
「はい…わかりました。」
どうやら父はヨーゼフから前もって聞いていたようだったけれど、1ヶ月待って欲しいという私の願いを聞き入れてくれていたようだった。おかげできちんと納得出来る形で×××××と別れることが出来た。
ちゃんと治せばまた彼と会う機会も作れるかもしれない。そう思い、私は診察を受けることにした。
ーーー
「…今、なんと言ったのだ…?」
「残念ながらお嬢様の病気はもう手の施しようがありません。」
「!!…お前は医者だろう!病人を治すことがお前の仕事ではないのか!!」
診察を受け、結果を聞くために同伴していた父は激昂してお医者様に掴みかかっていた。
一方で私は話があまり頭に全然入ってこず、呆然としていた。
「それでもなんとかしろ!金ならいくらかかっても構わん!!まだ***は結婚もしていないんだぞ!それなのに…あぁ、なんてことだ…」
頭を垂れ、地に膝を着いた父は母に慰められていた。
「それで、***の病名は何なのでしょうか?」
母がお医者様へと問いかける。
「癌という病気です。それも末期の。皮膚に発生したものであれば切除すれば助かったという論文を読んだことがありますが、お嬢様は喉に発生しております。現在の医療技術では切除が不可能なのです。仮に切除出来たとしても、縫合が出来ずに出血で亡くなってしまわれる…
吐血しているのもこれが原因かと思われます。」
「聞いたことのない病気です。薬草でなんとか治療は出来ないのですか?」
「現在、これに効く薬草は確認されておりません。そもそも何故、癌が発生するのかもはっきりしていないのです…」
淡々とお医者様が私の病状について説明をする。
父は悲しみから涙を流し、母はそんな父を支えるように寄り添い、兄は難しい顔をして腕を組んでいた。
すると、父が急に立ち上がり、
「…娘がこんな事になったのもあの村の小僧のせいだ!×××××とかいったな?即刻縛り首にしてくれる!」
「やめて!×××××のせいでは無いわ!お医者様も原因は不明だと仰ったじゃない!」
「しかし…」
「きっと貴族の責務を果たさずにいた私への天罰よ…誰も悪くないわ。」
やり場のない怒りを覚えた父の暴走を諫め、私はお医者様へと問いかけた。
「先生…私は後どのくらい生きられますか?」
「おそらく、あと1ヶ月程度かと思われます…私どもに出来ることと言えばお嬢様に麻薬を投与して痛みを和らげる事くらいでございます…」
「麻薬だと…?あんな悪魔の薬を娘に与えようというのか!?そもそもわが国では流通が禁止されておるではないか!!」
「…他国の文献では少量であれば鎮痛効果があると記載がございます。エインズワース家であれば秘密裏に入手することも可能かと思います。しかし発覚すればお咎めを免れません。私から言えるのはここまででございます…」
その言葉に父は悩んでいるようだった。
それもそうだろう。国での流通が禁止されているはずの麻薬を使用して廃人のようになった人間がスラム街にはいるようで、憲兵に捕らえられた人間を父と兄は何度か見たことがあるようだった。
「…本当に少量であれば廃人になったりはしないのだな?」
「廃人になっている者は過剰に摂取した者でございます。それに今この瞬間にもお嬢様はかなりの痛みに侵されているはず。お亡くなりになるまで痛みに悶えるよりは良いかと思います…」
「***、お前はどうしたい?」
「私はこの痛みは天罰だと思って受け入れます。それにあと1ヶ月ばかりしか生きられない私の為に、家を危険に晒すわけには参りません。」
「…そうか………おい、麻薬の手配は貴様は可能なのか?伝手などはあるのか?」
「お父様!?」
この痛みを受け入れるつもりだと伝えると父は法を犯してまでも麻薬を手配しようとお医者様へと問いかけていた。そんな父を止めるために兄に縋った。
「お兄様、お父様を止めてください!私の為に危険は犯せません!」
「…***、それは出来ない。あと1ヶ月の命だというのであれば、お前が苦しんでいる姿を父上や母上、家の者に見せろと言うのか?なんの為の家族だ?家族の1人も救えないで領民を治めるなど出来るはずがなかろう。法が問題だと言うのであれば私が王に直訴しよう。」
「…なんて馬鹿なことを…」
「やっと家族が揃ったんだぞ!それなのにこんな事になってしまったのだ…なに、エインズワース家は王の懐刀だ。脅してでも言うことを聞いてもらうさ。」
もう父も母も兄も止めることは出来ないようだ。
私の罪深さにほとほと嫌気が差し、それと相反して家出をしていた私なんかの為に一生懸命考えてくれることが嬉しかった。
「お父様、お母様、お兄様。迷惑をかけて申し訳ございません…ありがとう…」
そうして私は残りの時間をベッドの上で過ごすことになった。
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無事に兄が叙勲を終え、領主となって数日後。
あれから私はろくに歩くことも叶わないほどに弱っていた。お医者様の見立て通り、1ヶ月程度の命というのは正しかったようだ。そんな中、領主を引き継いだばかりで忙しいであろう兄が私の私室を訪ねてきて、ベッドの横の椅子に腰掛けた。
「***、体調はどうだ?」
「あまり良いとは言えません。でもお兄様が王様へ掛け合ってくださったおかげで痛みもあまり無く過ごせています。」
「そうか。何か欲しい物はあるか?」
「いえ、これ以上望むのは贅沢です。ただでさえ迷惑をかけ通していると言うのに…」
「気にしなくていいと言っただろう。お前はたった1人の妹なのだから。」
「ありがとうございます。でも、ひとつだけお願いしても良いですか?」
「うむ。なんだ?」
「私が家出をしていた時に一緒に住んでいた彼。×××××がもしもこの家を訪ねてくることがあれば私は他領へ嫁いだと伝えてもらえますか?」
「なんでそんなことを?」
「彼には楽しい時間を沢山貰いました。それなのに私は何も言わずに出ていきました。彼の幸せを願っての行動でしたけれど、それでも私に囚われているようならば諦めさせて欲しいのです…」
「お前はそれで良いのか?」
「えぇ。私は彼に貰ったこのブローチがあれば十分です。」
「わかった。もしも訪ねてくることがあれば必ず伝えよう。」
「宜しくお願いします。少し眠くなってきました…少し眠りますね。」
「あぁ。ゆっくり眠るが良い。」
そうして私は瞼を閉じて眠りに着いた。彼と過ごした幸せな日々を夢で見られるように願いながら…
ーーー
ロウソクの明かりだけが照らす真っ暗な部屋の中、私は猛烈な息苦しさを覚えて目を覚ました。
(あぁ。ついに最後の時がやって来たのね…)
ーゴホッゴホッ!
激しく咳き込んだ拍子に大量の血を吐いた。そして寝る時も肌身離さず私の胸元を飾っていた×××××から貰った翠色のブローチが血で赤黒く染まった…少しづつ体から熱が抜け落ちていく気がして、私は恐怖に震えた。
私の激しく咳き込む音が聞こえたのだろう。外が慌ただしくなり、ヨーゼフが部屋へ飛び込んでくる。
「お嬢様、大丈夫ですか!?おい!医者を今すぐ呼べ!お前は湯を沸かしてこい!お前はすぐに旦那様と奥様、それにアルフォンス様を呼んで来るのだ!」
ヨーゼフがメイドに指示を飛ばしている。
あぁ、きっと両親も兄も間に合わないだろうという確信がある。少しづつ薄れていく意識の中で彼の幸せを祈った。
(ごめんなさい×××××。出来れば私があなたのそばで一緒に笑って生きていきたかったけれど、この先のあなたの未来に私はいないわ。私のことはもう忘れてね。そして素敵な奥さんを見つけて幸せになってね。)
そして私はこれまで彼と過ごした幸せな瞬間を思い出していた。
「ルチ………」
そんな中、微かに私を呼ぶ×××××の声が聞こえた気がした。
「嫌っ…」−だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!!ほんとは死にたくなんてない!!!ずっと彼と一緒にいたい!!!
彼に忘れ…ら…れ………−
猛烈に彼の元を去ってしまったことを後悔した。でももう遅い。もう自分の意思で指の一本も動かせなくなってしまった。そして私は意識を失った。
空には彼の元を離れた時と同じ、月も無く真っ暗な空だけが広がっていた。
ーーー
むかしむかしあるところに
叶わぬ恋がありました…