自分より不幸な人がいるという事実は、自分の境遇が辛いという感情を否定する根拠にはならない
「自分より辛い人がいるのだから、嘆いてはいけない」と思った。
親戚たちへの結婚報告のために行った食事会の1ヶ月後、遠く1500キロほど離れた地での社外プレゼンを成功させて社長よりお褒めあずかった次の日に、癌の診断をくらったときのことだ。
自分が冷めているタイプなためか「結婚で幸せの絶頂!」みたいな感じでは全然なかったし、仕事面でも褒められた事自体は嬉しいものの給料や昇進には一切反映されないのでまぁ別にねえ……という感じだった。そのためよくいう「天国から地獄」感は無い。だがそれでも、なんというか、この世界は自分がただ幸せなステータスを手に入れるのは許さないんだな、と思った。
私が患った癌は、症例数がここ三十年で三十人ほど。宝くじで生産される億万長者より少ない。そのため五年生存率はわからない。治療は手術のみ。地獄の辛さと噂される抗がん剤は無しだ。顎の中身半分を取って骨まで削って別の部分から採取した筋肉で埋める。障害は残るらしいが手脚や目や耳が取られることを思えば随分と大目に見てもらった方ではないだろうか。
それに、世の中には癌で亡くなる方が大勢いる。死を宣告されながら生きる人もいる。一方で私の癌は五年生存率は算出されないが、採取した癌細胞自体の活性が極めて低く、転移や再発の可能性は低いそうだ。まぁ年に一人出るかどうかの確率を射抜いて患者に当選した身としては、今更「可能性が低い」と言われても安心できるわけがなかったのだが。念のため入院前に買った年末ジャンボ宝くじは300円しか当たらなかった。やはり低確率の事象が重なることは本当に極めて稀なのだろう。はずれくじで勇気づけられるよりはいっそ五億円欲しかったんですけど。なんでこっちは当たりませんかね?
まぁともかく、命の危険という意味ではずっと辛い目にあっている方がいるのだ。彼らからしてみたら私の状況は全く問題ないレベルにマシであろう。
さらに、病気は癌だけではない。命の危険はどこにでも転がっている。私の人生で出会った中にも、若くしてくも膜下出血や交通事故で突然命を奪われた方がいた。命を取られなくても重い障害を抱える方もいる。私は「今手術しないと五年後どうなっているかわからない」と言われて、選んで手術をするのだ。覚悟ができるだけマシではないか。
手術は十時間ほどかかるらしいが、自分は全身麻酔で寝ているだけである。頑張るのは手術する先生方と、手術室の外でヤキモキ待つハメになる家族たちだ。特に連れ合いは結婚したばかりなのに私の両親とともに十二時間以上待つハメになる。(手術は十時間との予告だが、全身麻酔のときは前後一時間ずつ時間がかかるものなのだ。ちなみに実際は手術でトラブルがあり十四時間かかった)洗濯物や身の回りの世話のために毎日病院に通うのは家族で、私は日がな一日病室で寝ているだけであろう。彼らの苦労を思えば楽なもんである。
と、手術をするまでは思っていた。
マジで思っていた。
手術前日に心療内科に行かされて、今の心境を言わされた時にも上記のような話をした。
心療内科の先生が若干引き気味に
「手術、いつですか? え、明日? ずいぶん落ち着いていらっしゃいますね」
とおっしゃったことを覚えている。
だって手足や目や耳だったら耐えられなかった。私のこれは転移さえなければ命の危険もない。辛いものは辛いし怖いものは怖いけど、でも、最悪の状況よりは随分マシだろうと。だからこの程度で辛がるべきではないのかなー、などと。
いや馬鹿じゃねえの!
ばっっっっかじゃねえの!!!?
って思いましたね、手術後。
何を物分かりヅラしてたんだ。何も分かってなかった。割に合わない。割に合わないが過ぎる。辛いモノは辛いのだ。ちょっと考えれば辛いのは当たり前だった。もしかして、実は手術にビビって思考力が衰えていたのか。
だいたい手術の痛みときたらどうだ、麻酔してなお、痛いなんてレベルじゃない。なにあれ。麻酔があっても痛いわあんなもん。もちろん、追加の麻酔を投入するための「痛かったら押すボタン」ももらいましたけど、全くの気休めマシンだった。効いてるのか効いていないのか分からない。というか痛みが持続しすぎて、痛みの概念がよく分からなくなったような気がしていた。神経をぶったぎってしまって今後一切何も感じないはずの場所でも痛い。幻痛ではなく、その周辺組織がまるごと悲鳴を上げていた痛みだ。
麻酔があってこんなに痛いのであれば、なかったらどうなってるんだ、コレ。
それからね、漫画や何かでよく描写されるんでご存知でしょうけれど、大怪我すると高熱がでるんですよ。アレは本当なのですね。インフルエンザ顔負けの高熱が出ました。脳に障害が出ないか心配になるレベルの高熱。本気で怖かった。熱によるダルさよりも、脳細胞への影響に対する恐怖が強かった。
自分は、脳の機能が失われることを通常よりも怖がっていると思う。これは賢さだけが自分の長所だという自己評価のためだ。実際これが失われたら自分はマジで能無し、ただの社会不適合者である。医療用の麻薬だって怖い(義務教育で麻薬が脳を委縮させる写真を見せられたのが脳裏にちらついている)のに、この高熱で脳細胞が破壊されないか、気が気ではなかった。
これが手術後4日くらい続く。熱と痛みのピークは2日目から3日目でした。
しかも、ここが一番最悪なのですが、なんとこの辛さ、何も生産しないのである。
何も生産しない、というのは正確ではない。自分の命が手に入る。ただ命をつなぐだけでこの苦しみなのだ。
これがどれだけ理不尽か。
命は何にも代えられない、それはその通りだと思う。だからこそ自分は手術を受けた。
だけど。だけど、ですよ?
この歳の圧倒的多数の人間が、何も引き換えに差し出さずに生きているんですよ。
九割以上の人間が百円で買っているものを、私だけ百万円で買うハメになっている、と例えたらわかりやすいだろうか。
理不尽に感じませんか。
と、ここで「いや、一千万円出してる人もいるし、いくら金を積んでも買わせてもらえない人もいるよ」と、即座にもう一人の自分が反論してくるのだ。高熱と痛みの病床にいるにも関わらず、である。
この期に及んで他人との不幸サイズ比べをしている自分に対して怒りが湧いた。
自分より辛い方々の存在が何だというのだ。
世界一辛い人しか辛がっちゃいけないのか? その世界一って誰が決めるんだよ。その人はその人で辛いだろうけど、私の辛さとは一切関係ねーわ。
マジでなんでなんだよ、私が何したっていうんだ。
確かに若干痩せ型で低血圧と慢性的な貧血とアレルギー体質はあったし猫背でストレートネックだが、それ以外は平均以上の健康さを誇る生活習慣の持ち主である、と自負しているのに。定期的な運動とバランスがとれた食事、規則正しい早寝早起き。酒はアレルギーで飲めない、たばこは家族含めて誰も吸わない。
それなのに、なんで年に1人でるか出ないかの打率をブチ抜いてこんな病気になるんだろう、しかもこのタイミングで。私なんかが結婚した罰でもくだりましたかね? 会社で評価されたのがいけませんでしたかね。いただけたのはお褒めの言葉だけで給料もボーナスも上がってませんけど、それでも生意気でしたか?
だいたい世の中には病気になりたがってるヤツも不摂生してるヤツも山ほどいるんだからそっちを病気にしとけよ。ゲームバランスがおかしいだろ運営いい加減にしろよ。
こんなの辛いに決まってるだろう。馬鹿か。
割に合わないが過ぎる。
こんなに私が苦しんだところで、父の病気は治らないし、母が今後病気にならない保証はないし、配偶者の仕事がうまくいくわけでもない。亡くなった祖父にあえるわけでもない。
何かいいことがあるなら耐えられる。誰かのためになるなら耐えられる。だが、そんな報酬はない。生きられるだけ。いや命は何ものにも代えられないけど、これって世の中の大半が割と当たり前に享受していますよね。何このコスト。
……それに気が付いた手術後2日目の夜、はじめて涙がでた。
手術後の巨大な痛みと高熱のなかで、私はやっと自分に降りかかった理不尽を理不尽と感じて泣くことができたのだった。
頭の回転数をとりえだと思っている割にこの体たらくでお恥ずかしい限りである。
だが追い詰められないと学べないことがある、ということも学べた。
そして、これは本当に、性格というものの業の深さを物語っているなあと感動すら覚えるもう一つの学びであるが。
なんと、今の自分は、あの時の痛みや悲しみやくやしさを忘れて、自分より辛い境遇の人間の存在を理由に自分の辛さを軽視する傾向がいまだにあるのだ。
「つっても、もっと苦しい人もいる訳だし。ここで私が自分ばかりと嘆くのもなんか……」とか、割と言ってる。
また、目の前の人が私よりもっと辛い思いをしている可能性について配慮した結果、自分の病気について公表していない。このエッセイで初めて外に向けて書き散らかしました。
そのためなのか何なのか、わりと病弱自慢やら不幸自慢やらをされては「あーあ、あんたはいいよねー」とか「きみは気をつけて健康なままでいてよね」とか言われてしまうこともある。そんな時はいつも、衝動的に自分の体験談で殴り返したくなる気持ちと「私に言えるレベルはこの程度ってだけでもっと辛い体験が裏にあるのかも」という気持ちが心の中でめちゃくちゃな喧嘩しながら、行動では相手を励まし続けるのだ。大変疲れる。
癌の後に2つほど別の病気をやらかして入院手術するなどまあまあ酷い目にあってもこの行動が変わらない。
病気で価値観が変わった人とか、本気で尊敬するわ。無理。染み付いて取れない。死ぬ思いをしたことで価値観が変わって生き方が変わった――なんて人は結構いらっしゃいますけど、「アカウント乗っ取られでもしたの?」というのが私の感想である。価値観なんてどうやったらそんな劇的に変わるのだろうか?
だから、私が十四時間の手術を経ないと学べなかった、そして結構簡単に忘れつつある事実について、改めて書き記しておこうと思った。
自分より不幸な人がいるという事実は、自分の境遇が辛いという感情を否定する根拠にはならない。
なんで今更これを書き残したかというと、今日、出産のために入院したからです。
陣痛もきてないし破水もしてないんですけど。
陣痛って痛いらしいですが、背中40センチ切って顎の中身半分抜くのとどっちが痛いのかな。
今回は耐え抜けば念願の子供が産まれるというボーナス付きだけど(ちなみにこの子を授かるのにもわりと苦労した。いや、まあ、もっと苦労してる人は多いし結果が出ない人も多い分野ではあるから軽率に辛かったアピなんて憚られるが。それでも私としては辛かった)ここ数年は良いニュースの後に最悪なニュースで人生をギリギリ死なない程度のレベル感で殴られて「ギリギリ特筆すべきでもない不幸せ大盛り欲張りセット」を食わされてきたので、無事に健康な人間が出てきてくれるのか不安で仕方ない。
周りの妊婦さんたちみたいにワクワクキラキラできねえ。
みんなどうしてあんなキラキラしてられるんだ。
前世でそんな徳を積んだのか。それともキラキラで不安を殴り殺し返すライフハックとかなのか。