第1話 狸の少女
———————— 約1か月前 ペトキの森 午後 ————————
その化け物はボロボロになった鉄の剣を引きずり、森の中を彷徨っていた。
『魔人の加護』を何度も発動させた代償か、身体の内側から黒い煙が立ち昇り、崩壊を始めている。
楽しかった。
あれほど心躍る経験は今までになかった。
「ヴァドゥナ・・・」
あの人間の雌は忘れない。
あの雌をいつかねじ伏せて、自分の子どもを産ませる。
泣き叫ぶ「ヴァドゥナ」を組み伏せて滅茶苦茶に犯してやる。
化け物は激痛に耐えながらニヤリと笑う。
・・・腹が減った。
体力を回復したいが、化け物の放つオーラが全ての生き物を寄せ付けず、こちらも走る元気がないので追いかけることもままならない。
そして、化け物は仰向けにどさり、と倒れた。
木々の間から星空を見上げる。
今日は空が澄んでいて星が良く見える。
そして、片角の怪物はそこで意識が途絶えた。
———————— 約1か月前 ペトキの森 午前 ————————
「ねぇえ?ねぇったら」
魔物の言葉で自分に何者かが声をかけている。
「・・・ねぇ、大丈夫?」
「?」
「角つき」は目を開ける。
目の前にいるのは見たこともない小さい雌の生き物だ。
それは後に狸の獣人の子どもだということを知るが、この時には「角つき」は、獣人は成人の雄と雌しか見たことがなかった。
「・・・ガァ・・・」
渡りに舟とはこのことだ。「角つき」はよくわからない雌を食らおうと手を伸ばす。
「あ、ちょっと待ってね」
狸の少女は持っていた麻袋をごそごそと探ると干し肉のかけらとドングリを取り出した。
「これ!あげる。お腹空いてるでしょう?」
狸の少女は「角つき」の手にそっとそれらをのせた。
「食べて!」
「・・・」
「角つき」は手に乗った僅かな食べ物を口の中に放り込む。
「ねぇ、美味しい?」
狸の少女は笑顔で尋ねる。
「お肉は村人から盗んできたとっておきなのよ」
狸の少女はそう言って笑う。
すぐ後に小さなお腹からぐぅぅぅ・・・と可愛い音が鳴る。
「・・・えへへ、私もお腹空いちゃった。喉・・・渇いてるよね?待ってて、水も取ってくる」
狸の少女は「角つき」の返事も聞かずに走り去っていく。
「・・・」
1人取り残された「角つき」は戸惑っていた。
生まれて間もなくして、彼の巣は冒険者に襲撃を受けた。
状況が理解できないまま、大人たちに寝室の隠し通路から逃がされ、そこからは兄弟数体と共に人間から逃れる日々だった。
兄弟の中では身体が大きく、物覚えも良い方だった彼は、ある時、偶然、他のソシアか、あるいは魔獣に襲われ、死にかかっていた冒険者を見つけ、初めて自分の手で殺した。
冒険者の肉を食らい、装備を奪ってからは、今までよりも敵が簡単に倒せるようになった。
兄弟は次々に冒険者に殺されていったが、彼は何とか生き延びた。
やがて、彼に守ってもらおうと他のソシアの巣から生き延びた者たちが集まるようになり、集団ができた。集団になってからは、徐々に今度はこちらから新米冒険者を狙って襲うようになった。
今までは冒険者に襲われることに怯えて逃げ隠れする生活だったが、立場が逆転した時、途轍もない快感を得た。
冒険者との戦闘の経験が蓄積されていくと、ある時、身体が突然大きくなり、強い力を持つようになった。
その時、自分がソシアの上位種になったと確信した。
手下たちを統率し、自分の巣をつくり、人間の雌を捕まえて犯し、家族を作った。
初めて彼は彼だけの家族を持った。
しかし、それは仮面をつけた人間たちによって一瞬で崩される。
子どもも仲間も全て仮面の人間に奪われた。
そして彼はその仮面の集団の中に様々な実験を受けた。
身体を鋭利な刃物で生きたまま刻まれ、脳を弄られ、色々な薬品を投与された。
人間の言葉は当時、あまりわからなかったが、甲高い女の笑い声が耳に残っている。
ある日、実験の途中に、突然、全身が溶けそうなくらい熱を発した。
彼は必死で助けてくれと叫んだが、仮面の集団はこちらの様子を見て大喜びしていた。
熱で意識が朦朧とし、何度も吐いた。胃液がぐつぐつと煮え立っており、実験場の床を吐しゃ物が溶かした。
何日も、何週間も、いや、何か月も熱は引かなかった。
時間の感覚はとっくに失われていたので、正確な時間はわからない。
しかし、体感的にはそれだけ長い時間、彼は苦しんでいた。
彼がハイ・ソシアとして進化した時とはまた別の感覚だったが、熱が引いた時、自分がこれまでとはまた別の生き物になったという感覚があった。
そして彼はハイ・ソシアの変異種「角つき」となった。
その頃には自分に実験を行っていた人間たちの言葉が少しわかるようになっていた。
その実験を行うリーダー格の女——— ロザリーという女だった ———が、手下に「角つき」のための武器と防具を作らせ、戦い方を教えるように指示した。
そして、「角つき」はしばらくそこで戦闘訓練を受けた。
死ぬギリギリまで追い詰められては、強力な回復魔法で強制的に回復させられることを繰り返し、彼は高い戦闘技術と武器の扱い方を覚えた。
しかし、彼は一度としてこの仮面の集団に感謝したことはない。
戦闘訓練では何人もロザリーの部下を引き裂き、無残に殺したが、彼女はその姿をみて怒るどころか涙を流して歓喜していた。
やがて、十分にベテラン冒険者にも通用する実力をつけた彼は、彼でも壊せない頑強な檻に入れられ、ザカー平原に放たれた。
彼はそこで再度、手下を作り、巣を完成させた。
仮面の集団はどこからともなく定期的に現れ、彼とその仲間たちに物資を援助した。
彼の手下が育ち、新米冒険者の雌を自分たちで捕らえられる実力がついた時、彼と彼の手下たちは物資を運んできた仮面の集団を襲い、その全てを奪い取った。
彼にとっては復讐のつもりだったが、あのロザリーという女はそれでも腹を立ててはいないだろう。
それから数日後に「ヴァドゥナ」が襲ってきたので、仮面の集団とはそこでつながりが切れたが・・・。
なんにせよ、「角つき」の一生の中で、「ヴァドゥナ」が初めての自分と対等な関係で接してきた生き物だった。
魔物と冒険者という立場の違いはあったが、「自分から一方的に奪う者」でも、「自分を見下す者」でも、「自分の手下」でもない存在だった。
しかし、あの雌も違う。
あの雌は弱い。恐らく「角つき」が腕を一振りすればただの肉の塊になるだろう。
しかし、そんな弱い雌の癖に、「角つき」を心配し、自分の空腹よりも優先して「角つき」に食料を与えた。
馬鹿にされたわけでも、憐れまれたわけでもない。手下たちがリーダーに捧げるそれとも違う。
純粋な「角つき」への優しさ・・・
そんな経験は生まれてこの方一度もなかった。
「お待たせ!」
狸の少女がとてとてと手に何かを抱えて「角つき」の元へ走ってくる。
彼女の手にあるのはなにかの動物の胃袋だ。
彼女が動物を仕留めたのか、それとも死体から手に入れたのかはわからないが、胃を水で洗い、乾燥させて水筒代わりに使っている。
狸の少女は「角つき」の口元に胃袋の水筒を当てて、水を飲ませようとする。
彼は戸惑いながらもされるがままに水を飲んだ。
彼が誰かに食べ物を与えてもらったり、飲み物を飲ませてもらったりしたのは生まれてから本当に短い間だけだ。
「角つき」は胸の内側に奇妙な感覚を覚えながら、水を飲む。
「なぜだ?」
「角つき」は魔物語で狸の少女に問う。
「なぜ俺を助ける?」
「? 倒れたから」
彼女はきょとんとした顔をして魔物語で返事をする。さも当然というように。
「俺が怖くないのか?」
「怖くないよ?」
「・・・」
「角つき」はその回答に戸惑う。今まで自分が関わってきた者は敵であり、味方であり、彼を恐れた。だが、彼女は心の底から彼を恐れていなかった。
「でも良かった。あなた喋れないのかと思った」
「喋れる・・・が・・・」
これまで彼はあまりコミュニケーションを取る必要はなかった。
彼が再び口を開こうとした時、再度、小さなお腹からぐぅぅぅ・・・と可愛い音が鳴る。
「えへへ・・・やっぱりなにか食べ物探してくる」
狸の少女は笑う。
「待ってて。村から盗んでくるね」
そう言い残すと彼女は姿を消した。
———————— 約1か月前 ペトキの森 午前 ————————
彼女が姿を消してから数時間後、彼女は麻袋いっぱいの干し肉とチーズを持って戻ってきた。
「・・・これはなんだ?」
「角つき」はチーズを指差し、鼻を摘まむ。
「チーズだけど、知らないの?」
「人間の腐敗臭よりもひどい匂いだ。これは・・・食べ物なのか?絶対やめた方がいいぞ」
狸の少女はチーズをひょいと摘まむと口の中に放り込む。
「うーん。おいしっ」
狸の少女は破顔する。
「・・・正気の沙汰とは思えん。腹を壊すぞ」
「大丈夫だよ。疑い深いなぁ・・・えいっ」
狸の少女はチーズを「角つき」の口の中に無理矢理押し込む。
「ぐへっ・・・なんだこれは・・・」
口の中にすえた匂いが広がり、「角つき」は顔をしかめる。しかし、彼女が恐らく苦労して取ってきたであろう食物を吐き出すわけにもいかず、諦めて咀嚼する。
「・・・美味い?」
「でしょ!」
狸の少女はころころと笑った。
「ほら、もっとあるよ。一緒に食べよっ」
「美味い・・・美味い・・・」
その日の夕食は「角つき」にとっては腹の足しにもならない程の量だったが、彼の心はとても満たされていた。
「どう?ちょっとは元気になった?」
彼女は彼に笑いかける。
「角つき」は相変わらず全身に激痛が走り、身体のあちらこちらから黒い煙を噴き出していたが、「ああ」と頷いた。
うまく表現できないが、「悪くない」感覚だった。




