第11話 帰ってきたユージン
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『ユージン…』
あの懐かしい声が突然、ユージンの名前を呼ぶ。
胸の奥がポカポカと暖かくなるようなずっと聴いていたい声だ。
小柄で色白、可愛らしい顔立ちにグリーンガーネットのような色の瞳…。
『ルッカ…』
ユージンは目を開いて声の主に返事をする。
目の前には銀髪のエルフが笑みを浮かべ、手に花を持って立っていた。
『おかえり』
『…ッ』
ユージンは胸が熱くなり、思わず彼女を抱きしめようとする。
だが、その腕を彼女は冷たく振り払う。いつの間にか彼女の手に持っているのは花束ではなく、ヴァルナの鋼の剣に代わっていた。
『来ないでよ』
彼女は吐き捨てるように言い放つ。
『!?』
その瞳の色はいつのまにかピンクスピネルのような色に変わり、髪も黒髪になっている。
『…貴方のせいよ。ルッカが耐えられなくなったのは。だから私は貴方とはもう行かない』
『る………し、シエラ…待ってくれ、俺は………俺は魔神教なんかじゃ…』
『さようなら』
彼女はフードをかぶり、すぅっと消えいていく。
『まっ…………………ルッカ!!!!』
――――― アマイア暦1330年水仙の月10日 朝 ―――――
<ウルグニ山北西 魔神教アジト ヨハンの部屋>
「ルッカ!!!!!!」
ユージンは自分の大声で意識が覚醒する。
気づくと手を上に突き上げていた。
自分がハッ…ハッ…ハッ…、と短く荒い呼吸をしていることに気づく。
心臓がドッドッドッ…と暴れ狂い、全身はぐっしょりと汗で濡れていた。
さっきのことが夢だと遅れて理解する。
花を持ったルッカは「羽つき」の事件が終わって戻った直後の墓地のシーン、そして最後のシエラは魔神教のアジトでの別れのシーン。
どちらもユージンの記憶によって少し歪められている。
そこまで整理ができた時、
「…………?」
いつの間にか自分の顔を心配そうに覗き込んでいる顔が見えた。
まるでオルロのような赤髪の長髪に、ヘソナイト・ガーネットのようなオレンジ色の瞳の30代半ばくらいのヒューマンだ。
ベッドの隣には椅子があり、ずっとそこでユージンの意識が回復するのを待っていたようだ。
「ヨハン…大丈夫?」
彼女は心配そうにユージンの前髪を掻き分け、頬に手を当てる。
―――誰だコイツ?…………「ヨハン」?
頭の中で更新の止まっていた様々な情報が一気に押し寄せてくる。
オハイ湖の地下が魔神教のアジトだったこと。
そこでソシアの変異種などの実験が行われていたこと。
ジルベルトの死体を弄って作られた合成生物と戦ったこと。
グラシアナが裏切り者だったこと。
あの青フードの仲間、ロザリーとボニファと対峙したこと。
ユージンはまるで役に立たなかったが、仲間たちが協力してなんとか2人を倒したこと。
グラシアナが魔神教の信者だった事実に耐えられなくなったルッカが壊れ、シエラという別人格が生まれたこと。
グラシアナが魔神教の信者だったことを機にオルロが自分も魔神教の信者かもしれないというカミングアウトを始め、仲間がバラバラになったこと。
仲間たちと別れて1人、魔神教のアジトに残り、ロザリーの被験者たちを逃がそうとしたこと。
そこで突然声をかけられて…
あの薄藤色の髪のヒューマンの顔を思い出す。
「…ッ」
「ちょっと…ヨハン?!」
赤髪の女性がユージンの側に駆け寄り、背中を擦る。
―――呼吸が…息ができない…。
ひっ…ひっ…、と小さく声を上げてユージンは小刻みに震える。全身に鳥肌が立っているのがわかった。
思い出すだけでも恐ろしい。
あの青フードの親玉…
魔神教大司教のイレーネ。
脳裏に彼女と青フードの男―――エドヴァルトの顔が鮮明に浮かぶ。
まるでそこにいるかのように彼らはユージンの頭の中で声を上げる。
『あっはっはっはっはっはっはっは!!!!!!』
『おやすみ。…ユージン』
「!? や、やめろぉぉぉぉおおおおおーーーーーー!!!!!!!!! …むぐッ?!」
ユージンが叫んだ直後、赤髪の女はユージンの頭を自分の胸に抱き寄せる。
面識はないはずなのにどこか母親のような、姉のような安心する感覚があった。
「…大丈夫。もう平気」
彼女は寝る前にぐずる小さい子どもをあやすように優しい声をかけて、ユージンの背中を優しく撫でる。
「大丈夫。ここには貴方を脅かす者はないものないわ」
「………」
ユージンは戸惑いながらも、大人しく彼女に身を委ねる。
身体の力が抜けると、徐々に呼吸に意識を向けられるようになる。
前にギルドのカウンセラーから「過呼吸は息の吸いすぎで起こる」と言われたのを思い出す。
脳が頭を回そうとして、酸素沢山を欲するらしい。その結果、空気を取り込み過ぎて肺が膨らみ、それ以上空気が入らなくなる。それが息苦しさの正体だ、と。
一方、息を吐きすぎた場合には、凹んだ肺は元に戻ろうとする。その結果、自動的に肺に空気を取り込む。だからまずは吐くことを意識することが大事である。
確かそんな内容だった。
―――そうだ。まずは息を吐くことだ。
目を瞑って肺から息を吐き出す。
すると先程まで吸えなかった空気が肺の中に入ってくる。…呼吸ができた。
何度も繰り返すうちに徐々に落ち着いてくる。同時にパニックだった頭が正常に戻ってきた。
その様子をみて女性はユージンから身体を離す。
「…ヨハン、ここがどこだかわかる?」
「…」
―――思い出せない。
「私のことは?」
「…?」
―――わからない。
ユージンが困ったような顔をすると、赤髪の女性は「ちょっと待ってて」と立ち上がった。
「アンタの相棒を呼んでくるわ。アンタが倒れてから寝ずに2日も看病してたものだから注意したんだけど聞かなくてね。最終的に私がぶん殴って…………あー…んんん…その、「ちょっと強引に」眠らせたんだけど」
心配して献身的に看病する人間を遠ざけるために殴って気絶させたという。
…どうやらこの女性はわりと豪快な性格のようだ。
「アンタが目覚めたところに立合えなかったから怒るかもしれないけど、起きたのを黙っていたらもっと大変だろうから」
彼女はそう言うとドアへ歩いていく。そして振り返って、「私はルシア。アンタのボス。まあゆっくりでいいから思い出して」とさらりと言うと彼女はドアを閉じた。
「…」
ユージンは小さく息をついた。
まだ全然自分の記憶がまとまらない。
断片的に記憶が浮かんでくるが、思い出す記憶の順序がバラバラでなにがなんだかわからない。整理が必要だった。
まず、先程の赤髪の女性は「ルシア」と名乗った。
聞き覚えがある。その時、頭の中に先程の女性の声が響いた。
『ヨハン。彼女はルシア。ルシアは貴方にとって上司みたいなものよ』
声と共に当時の映像が頭の中に浮かぶ。初めて彼女にあった時の記憶だ。ここでは自分は「ヨハン」と呼ばれているらしい。
…自分の隣に誰かいたような気がするが思い出せない。
『ここが貴方の仕事場よ。いずれはここの部屋を取り仕切ってもらう』
白衣を着たルシアが自分に部屋を説明している。レイル共和国ではオハイ湖のアジト以外で見たことがないような機械が沢山置いてある。ギブラと比べればまだまだ水準は低いものの、レイルの共和国の技術レベルを遥かに超えた機材だ。
ルシアの近くにいる長身の体格の良い白髪交じりの男がこちらをあまり歓迎していない表情で見ていた。
『ヨハン!貴方が一緒にいてなんでこうなったの!?信じられない!!』
ルシアが顔を真っ赤にして怒っている。隣にはミントグリーンの髪に白い肌の美しいヒューマンが自分と一緒に正座させられている。
この後、魔神ウロス様へのお祈りをたっぷりと午前中いっぱいさせられたのを思い出す。
「…ッ!?」
「ルシア」という名前をトリガーに断片的な記憶が飛び出してくる。
魔神教の司教ルシア―――イレーネの部下だ。
「…ってことは、ここは魔神教のアジトか?!」
ユージンは小さく叫び、そして自分の左肩に蜂の巣のような形の刺青が彫られていることに気づく。
「!?」
オハイ湖のアジトで、グラシアナの足に刻まれていたあの刺青と同じものだ。
つまり…魔神教の信者の証。
頭をハンマーで殴られたような強いショックがユージンを襲う。
想像しなかった展開に、全身が凍りつく。
「どういうことだ?俺が…魔神教徒?」
―――今、敵中ど真ん中にいて、しかも、俺もその信者ってことか!?
その時、タイミングよくベッドの下からなにかがユージンの膝の上にぴょーん、と飛び出してくる。
「イチゴウ?お前…イチゴウか?!」
強い不安に襲われている中で唯一見知った顔が目の前に現れて、救われた気持ちになる。少し目に涙が浮かんできてしまう。
「…」
イチゴウはこっくり、と頭を縦に振り、ユージンをじっと見つめた。
彼はなにか言いたげな様子だったが、ピクリ、とドアを見て、そして素早くベッドに下に再び戻った。
直後、ノックもせずにバーン、と大きな音を立ててドアが開く。
「は?!」
「あ、こら!」
ルシアの制止の声が後ろから飛ぶが、ドアを開いた主はそれを無視して、
「ヨハーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン!!!!!!」
「ぶはっ?!」
ミントグリーンの髪のヒューマンが目に涙を浮かべながらユージンの胸に向かって飛び込んでくる。
先程思い出した記憶の中で一緒に正座させられていたヒューマンだ。
彼?彼女?は美しい顔立ちをしているが、中性的で性別がイマイチわからない。
「良かった…本当に良かった。ごめん、僕…君が目覚める時に立ち会えなかった…ごめんよぅ」
この人がルシアの言っていた相棒だろうか?とてもいい匂いのする美人に抱きしめられながらユージンは目を白黒させる。
「ハァァァァァァン……………半日ぶりのヨハンの匂いだ。落ち着く…スンスン…」
「僕」という自称だが、恐らくこの感じは女性だろう。彼女はユージンの首筋の匂いをくんくん、と嗅ぐ。
「ちょっと汗の匂いもするけど、それもしゅきぃぃぃ…………」
「ちょっと、シュネル。まだヨハンは本調子じゃないんだから」
部屋に入ってきたルシアが後ろからシュネルという人物を羽交い締めにして引き剥がす。
「ああッ!!!!もう、ルシア様、そんな…酷い!!僕はただヨハンとの再会を…」
「どうしたの?アンタ、いつもに増して変よ!?」と言いながらルシアは彼女と一緒に後ろに下がった。
「…ごめんね、ヨハン。貴方の意識が戻って嬉しかったのかちょっと変なテンションになってるの。変な子だけどここまでいつもは変じゃないのよ」
ルシアが必死でフォローする。
「あ、いえ…」
ユージンはドキドキしながら首を横に振る。
「どう?なにか思い出した?」
ルシアが遠慮がちにユージンに声をかける。
「いえ…まだ…」
ユージンはバクバクと脈打つ胸を押さながら、首を横に振った。
このドキドキはシュネルに抱きつかれたからではない―――いや、それもあるかもしれないが…。
目の前にいるのがイレーネの部下で―――それも魔神教の幹部、司教の座にいる人間だからだ。
状況が見えないが、「ヨハン」と名乗っていた自分ではなく、元の記憶が戻ったことを勘付かれればマズいことになるのは明白だった。
なんと答えようか迷っていると、シュネルが「え?!なに?ヨハン…もしかして記憶がないの?」と口を挟む。
「ああ…」
ユージンは少し心の中でほっとしながら頷くとシュネルは悲しそうに顔を歪める。
「僕だよ!僕、僕。シュネルだよ!…………やっぱりイチゴちゃんのせい?」
「いちごちゃん?何言ってるのシュネル?」
「え?ああ、イチゴちゃんっていうのは…………その、いちごを食べてる時にヨハンが喉を詰まらせて………」
シュネルが慌てたようにルシアにユージンが倒れた経緯を説明する。
「その話は前にも聞いたけど………食べ物を「ちゃん」づけするのは変よ?………とりあえず、ちょっと落ち着きなさい」
ルシアがシュネルをベッドの横の椅子に座らせて子どものように言い聞かせる。
「今、ヨハンは意識が戻ったばかりで混乱してるの。あまり無茶させちゃダメよ」
「でも」
「で・も・じゃ・な・い」
ルシアがシュネルの頭をぐわっし、と掴み、笑顔で凄む。そこには有無を言わさぬ迫力があった。
「ヨハンに負担をかけたらダメでしょ?」
「…………はぁい」
シュネルはしょげたように肩を落とす。
ルシアはそれを見て、肩をすくめ、「シュネル、ヨハンに状況を説明してあげて。私はイレーネ様にヨハンの意識が戻ったことを報告してくるから」とシュネルに言い残すと部屋を出ていった。
「…」
「…」
2人きりになった部屋でなんとなくお互いが無言になる。
記憶がまだ戻りきっていないが、ルッカやヴァルナとは違った種類の…どうやら自分に好意がありそうな美女とどう接していいかわからない。
―――そもそも俺と彼女はどんな関係だったんだ?
ユージンはどぎまぎしながらシュネルの顔を盗み見る。
どの角度からみても完璧としか言いようのない美しい顔。滑らかな白い肌…。
シュネルと目が合い、彼女は灰色の瞳を輝かせる。
「まずは良かった。改めて…おかえりっ」
シュネルはユージンを再度抱きしめる。
「あ…ああ」
ユージンは顔を赤らめて頬を掻いた。
「それで、俺が倒れた経緯を教えてくれるか?」
「えっと…俺たちってどんな関係だっけ?」と聞きたい気持ちを堪えて、まずは事情を尋ねる。
「そうだったね。…イチゴちゃん、出てきていいよ」
シュネルが声をかけると、「イチゴちゃん」と呼ばれたイチゴウがベッドの下から這い出してくる。
「…え?俺、イチゴウ…じゃなかったイチゴちゃんを食べたの?マジで?」
記憶を失っていたユージンはそこまで腹が減っていたのだろうか?一体どういう状況なのかわからずシュネルに尋ねる。
「あ、いや、ううん。違う違う。えっとね…」
シュネルは慌てて首を横に振り、説明を始める。
今はアマイア暦1330年水仙の月10日。ここはウルグニ山の北西にある「組織」―――魔神教のアジトだという。
「ヨハン」としてのユージンは約1年前にここにイレーネに連れられて、ロザリーの後任としてソシアの変異体や合成生物の研究をしていたという。
シュネルと「ヨハン」は魔神教の幹部候補であり、合成生物。
「イチゴ」は「ヨハン」の部屋で偶然シュネルが見つけたトカゲで、果物のいちごが好きだから「イチゴ」と名付けた。
その「イチゴ」が1年かけて集めてきた草花を擦り潰し、それを「ヨハン」は飲んで倒れたという。
「飲んだ直後に『…そういうことか、イチゴ。ありがとう。全部思い出せた』って言ってたんだけど…なにかわかる?」
シュネルがベッドの椅子に座り、ユージンのベッドに顔を近づけて尋ねる。
―――可愛い。いや、待て落ち着け、俺。俺はルッカ一筋…。
ユージンは心の中で自分の煩悩に言い聞かせ、抱きつきたくなる欲求を鎮める。
「ヨハン」の部屋に気軽に出入りしていた感じや、先程の抱擁、ルシアが「相棒」といっていたことなどから、どうやら「ヨハン」とシュネルはただならぬ関係だったようだ。
彼女の話と自分の記憶から推察するに、恐らく、イレーネに飲まされたあの液体はユージンの記憶を奪うなにかだったのだろう。
記憶を奪われたユージンは合成生物の「ヨハン」という偽りの情報を信じ込まされ、魔神教に入信した。
ユージンは自分の左肩に刻まれた蜂の巣のような刺青を見やる。
どうやら入信した後、ロザリーの後任としてソシアの変異体や合成生物の研究を手伝わされていたらしい。
だが、ギブラの知識を総動員してイチゴウがイレーネに奪われた記憶を取り戻す薬を作ってユージンに飲ませた。
彼女は「ヨハン」のことを心底心配してくれているようだし、「イチゴ」が薬を飲ませたこともルシアには黙ってくれているようだが…。
ユージンは再度シュネルの顔を見る。
「? どう?」
シュネルは綺麗な顔で微笑む。真っ白な首筋から思わず目が離せなくなる。
彼女の白い麻のシャツがズレて、右肩から僅かに蜂の巣の刺青が覗いていた。
なんとなくいけないものを見てしまった気がして、ユージンは顔を赤らめる。
だが、すぐに煩悩を振り払い、思考を正常に戻した。
そう…彼女もまた魔神教なのだ。それも幹部候補の人間。
彼女の振る舞いに不自然な様子は見られないが、ひょっとするとルシアに言われてユージンの記憶が戻ったのではないかと探りを入れている可能性もゼロではない。
ルシアの指示でないにしてもユージンは魔神教、特にイレーネ派からすれば、これまでに何度も計画を邪魔し、挙げ句、ロザリーを倒した相手だ。
記憶が戻ったことがバレれば、ただでは済まされないだろう。
―――とすれば、頼りになるのはイチゴウだけ、か。
「…いや、断片的な記憶はあるんだけど、まだ………」
ユージンは先程の彼女の質問に対し、首を振る。
「そっか…」
シュネルは形の良い眉を下げて俯く。そして、しばらく経ってから顔を再び上げた。
「………ねぇ、身体の方はもう大丈夫?」
「ん?ああ…怪我してたわけじゃないから。寝てて多少なまったかもしれないけど…」
「良かった」とシュネルは微笑んだ。
そしてドアの方を見て、ルシアがいないことを確認してからユージンの耳に口元を近づける。
「…じゃあさ、今晩、お風呂行こう?身体は拭いてあげてたけど、汗掻いて気持ち悪いでしょ」
ひそひそ、とシュネルは蠱惑的な笑みを浮かべて囁いた。
「はぃぃぃぃいいいいい!?」
ユージンは頬を赤らめ素っ頓狂な声を上げた。




