第9話 チューさん
「セラ!」
「あ、ママ!」
セラのトイレ事件から約1時間後、シエラはようやくセラの母親を見つける。
「す、すみません、すみません…。娘がご迷惑をおかけしました。…どこ行ってたの?探したのよ」
セラの母親はシエラに頭を下げた後、セラに呼びかける。
はぐれた後、必死で探していたのだろう。彼女の靴と服は砂埃で白く汚れていた。
「おしっこ」
セラは口を尖らせて俯く。
「…大通りで、1人で泣いていたの。それで声をかけたらトイレっていうから連れて行ったわ。…ね?」
シエラが事情を母親に説明する。
そしてセラに同意を求めると、「…チューさんがいい」とセラは首を振る。
「…」
シエラは黙り、そしてネズミのぬいぐるみを取り出す。
「チューさんとトイレに行ったんだよね?」
「うんっ!!!」
声音を変えてネズミのぬいぐるみを動かすとセラは元気よく頷く。
「わー…良いお返事」
シエラは地声で小さく呟く。
「本当にご迷惑をおかけしました…その…まだこの辺に慣れてなくて」
「いいえ。でも次からははぐれないようにね?この子、可愛いから冗談抜きに人攫いとかに遭うわよ?」
「気をつけます…」
母親は申し訳無さそうに謝る。
「この辺に慣れていないって言ってたけど、どこか別の所から来たの?」
「ええ、テベロから移ってきたんです…正確にはちょっと前まではボロドム大神殿にいたのですが…」
「ああ…」
シエラは頷く。
丁度半年くらい前か、大都市テベロの上空から突如、巨大な竜が飛来した。
「テベロの竜災」と呼ばれたその事件はシエラも知っている。
栄華を誇ったレイル共和国屈指の大都会は1日で壊滅状態に陥ったという。
未だにテベロは復興できておらず、多くの民はボロドム大神殿へと避難したというが…。
「…こんな小さい娘を連れて大変だったわね」
父親の姿がないことからシエラは事情を察する。
恐らくセラの父親は「テベロの竜災」で亡くなったのだろう。
家族や故郷を失った悲しみはよくわかる。
愛する人や居場所を失うのはとても辛いことだ。
シエラも姉に自分の里を燃やされる前は両親や親友と呼べる友人がいた。
火だるまになって死んでいった親友…。あの苦しみの表情を今も忘れることができない。
…彼女の名前はなんと言ったか。
シエラは目を細める。今はもう思い出せなかった。
逆に、あの日抱いた姉に対する恨みや憎しみは今でも昨日のことのようにしっかりと覚えている。
彼女は燃え盛る炎を背に、シエラを見て、笑っていた。
なにもできない愚図をあざ笑うかのように。
なにも知らない馬鹿を見下すように。
手のひらの上で転がされていることにも気づかない道化を憐れむかのように。
「…」
『シエラ…』
ルッカが心の中でシエラに声をかける。
シエラは歯を強く食いしばっていた。
ギリギリと顎が痛くなるのに気づき、ハッとなって顎に込める力を緩める。
「大丈夫ですか?」
「…ああ、ごめんなさい。ちょっと昔のことを思い出していて」
シエラは心配そうに顔を覗き込むセラの母親に「大丈夫よ」と返事をする。
「…さて、私はそろそろ行くわ。…セラ」
「?」
シエラはねずみのぬいぐるみを彼女に渡す。
「え?くれるの?」
「…よろしくね、セラちゃん。僕、チューさん!」
シエラは声音を変えてねずみのぬいぐるみを動かすと、ぬいぐるみから手を離す。
セラは顔をパッと輝かせて「よろしくね!チューさん!」とぬいぐるみを抱きしめる。
「大事にしてね?」
「うんっ!!ありがとう!」
セラはシエラに笑顔を向けた。
シエラは笑うと手を振って背を向ける。
「あ!…ちょっと待って!せめてお名前を!」
セラの母親がシエラの背中に声をかける。
「…シエラよ。じゃあね」
シエラは振り返らずにひらひらと手を振って歩き出す。
「…シエラ…さん」
セラの母親はシエラの名前を呟いてその背中を見守る。
「チューさんだよぉ、こんにちは、セラちゃん」
「こんにちは!」
セラは1人でシエラからもらったぬいぐるみで遊び始める。
セラの母親はセラと小さくなっていくシエラの背中を見比べた。
「シエラ…そう、彼女が…」
セラの母親は目を瞑って、天を仰ぐ。
そして、セラの手を取って、彼女の視線の高さに目を合わせる。
「?」
「セラ、ちょっとお姉さんに伝え忘れちゃったことがあるの。お母さん、ちょっと行ってくるね」
「あたしも行く!」
セラの母親は首を振る。
「急いでいかないと見失っちゃうからここにいて。…もし今度お母さんとはぐれてしまったら今度はちゃんと衛兵所に行くのよ。衛兵所、わかる?」
「…うん」
セラはねずみのぬいぐるみを抱えながら頷く。
「良い子ね」
セラの母親は笑ってセラの頭を撫でる。
そして、シエラの後ろ姿を追って走っていった。
「シエラさん!!」
「?」
シエラは自分を呼び止める声に気づき、振り返る。
セラの母親だ。
「ちょっと!セラをまた置いてきて…」
「す、すみません。ちょっとお伝えしたいことがありまして」
シエラに追いついたセラの母親は肩で息をしながら彼女の手を握る。
「? なに?」
「…『女神たちに報復を』!!!」
「!?」
セラの母親はシエラに抱きつくと、神々への決別の言葉を口にする。
それはかつて、グラシアナがオハイ湖の地下にあった魔神教のアジトで叫んだキーワードだった。
途端にセラの母親の身体から黒い光が溢れ出し、直後、内側から吹き出すエネルギーに身体が耐えきれず、爆ぜる。
強力なエネルギー波が生まれ、通り一帯を黒い光が飲み込んだ。
それはシエラが予想もしなかった相手からの道連れ行為…
人通りが多く、活気のあった通りは途端に血の海と化し、砕け散った肉と骨と内臓が海の上に浮かぶ。
平和な日常は彼女の自爆によって、一瞬で悪夢のような地獄の光景に様変わりした。
「きゃーっっっっっ!!!!!」
キーン…………と爆発の音でいかれた大衆の耳に真っ先に飛び込んできたのは女性の悲鳴だった。
先程までそこあったはずの恋人の手以外が消えていた。
女性は恋人の手を恋人つなぎで握ったまま泣き叫ぶ。
「うわぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
その声によって我に返った男性は自分の片足が爆発に呑み込まれ、失っていたことに遅れて気づく。
爆風で吹き飛ばされ倒れていたが、全身が痺れていて、今の今まで足が失くなっていたことに気づかなかったのだ。
それらの声を引き金に我に返った人々が悲鳴や鳴き声を一斉に上げ始める。
我先にと爆心地から逃げる人々。
力の弱い老人や子どもたちは、安全な場所に避難しようとする人々の波に押しのけられる。
足を滑らせ、周りを巻き込んで倒れた者は、巻き込んだ人々と共に、後続からくる人々に続々と踏みつけられ、踏み均されていく。
恐怖に彩られた耳をつんざくような悲鳴
母親を失った子どもの絶望を含んだ泣き声
爆発で負った火傷や怪我の痛みに悶え苦しむ声
自分の身を守るため、あるいは不安を解消するために周りを怒鳴りつける声
行き交う人に追いすがって助けを求める声
「…ッ!!」
それらをねずみのぬいぐるみを持ったヒューマンの女児は眺めていた。
あちらは先程別れたばかりの母親が向かっていった方角。
そして、このぬいぐるみをくれた優しいお姉さんが去っていた方角だった。
しかし、彼女は動かない。
母親の言いつけ通り、母親が戻ってくるまで信じてその場に留まり続ける。
不安と恐怖で手足の先が冷たい。
彼女は腕の中にあるねずみのぬいぐるみをギュッと抱きしめて「助けて。チューさん」と呟いた。
彼女の母親が彼女の元に姿を現す時は永遠に訪れなかった。




