表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/7

飛行

 地獄のように忙しくなった。予想はできていたが理解しきれていなかったのだ。

 試作機の納入は7月と決まっている。およそ2か月程度の時間しかない。完全に一から作るならもちろん不可能だが、今回はエンジンは指定されていて、偵察機なので武装は考えなくともよい。

 となれば翼と胴体の設計に集中すれば、2,3機の機体を試験飛行までに用意するのは問題ない。設計さえまとまれば。

 つまり完成するかどうかは、設計の努力如何にかかっている。k室は設計士たちの知恵熱で真夏もかくやの酷暑に見舞われていた。

 窓を開け放って扇風機を全開に回しても、部屋の中は鯨の胃袋のような熱気である。その中で線を引き、計算尺を振り、数値を書き付ける。悲しいことに、高等な機会を作り出すためには原始的な体力が何より必要なのだった。

 幾人もの人が頭を掻きむしって入れ代わり立ち代わり席を立つ中で、武はそれこそ工場の作業機械のようにひたすら手を動かし続ける。

 飛行機の性能、すなわち最高速度や上昇力、旋回性能などは、エンジン・プロペラの性能と機体の空力特性によっておおよそ求められる。

 正面面積とエンジン出力から最高速度が。総重量を主翼の面積で割った質量面積比からは運動能力が。さらに翼の断面形状から求まる揚力に面積をかけてそこに馬力を入れて上昇力を。

安定性は人が操縦する乗り物として絶対に必要。垂直水平それぞれの尾翼の面積が適正か、重心と揚力の中心が離れすぎていないか。そこに胴体の摩擦による抵抗も鑑みてより正確な数値を、正面の形状による乱流の抵抗分の係数をかけて。軽ければ速いというものでもなく、急降下の際には重量がなければ速度がつかないし、柔ければ空中分解の恐れもあるからそこにも注意して。そして燃料の体積と重さと燃費性能を見比べつつ航続距離を……。

「うぬううううううう……!」

 獣のようなうなり声が出てくる。プロペラが後方に吐出する気流の量を算出していると、頭が破裂しそうだった。計算尺を振りすぎてひじが痛い。眼球の表皮が腫れているような感覚があったので、ぎゅっと目をつむると、汗がまぶたの間から沁みてきた。

 次から次へと気になる数値が押し寄せてくる。本当に飛ぶのか今さら怪しくなってきた。透明な空気に墨字が乱舞し、蛍光するベクトルの霊たちが万有引力の玉座に居座ってあざ笑ってくる。暑い。こうも暑いと空気はシャルルの法則から膨張して軽くなり、つまり質量を後方へ押し出すことによる反作用の減衰が起こる。また流体の粘性によって翼を引っ張り上げる揚力が低下し、さらにはエンジン自体の吸気量の減少によって性能に大幅な悪影響が。


「ぐあああああああああああ!できた!」

 手汗でくしゃくしゃになった数百の計算用紙が蛇の抜け殻のように転がり、床を這って滑空する。

 思考の過熱でアーク放電のように点滅する視界の中、武に勝るとも劣らない数の計算用紙と設計用紙に囲まれる金の光芒に突進する。

「できましたあ!最高速度240km程度。上昇力3000mまで約18分です!」

 おお、と誰ともなく声を漏らす。それは要求性能を完全に満たした結果だったからでもあるが、それよりその計算をこの速さで出した新人への驚きであった。書きつけられた計算式が妄想の産物でもない限り、性能計算をたった一人で、誰よりも早く提出したことになる。

もちろん他のチームとの兼ね合いもあって後回しにした部分なのだが、この方向で問題ないと分かれば、手直しへの不安感なく作業ができる。八洲人技士の再先任である後藤も、指揮官先頭で設計を手伝う木崎部長も、初めて戦力として武の存在を見た。

『やるじゃない。こんなに早く出来上がるとは思わなかったわ』

 我知らず拳を握りしめる。それは簡単な誉め言葉ではあったが、武にとっては生まれてから最も嬉しく思えた賞賛であった。

「ダンケ……。ダンケ。ドクトル・フォークト」

 声が震える。空飛ぶ機械のため、必死になってやってきたこれまでが、いくらか報われた気がした。

『どういたしまして。それじゃあ次は胴体の骨組みの方で、強度計算をやってちょうだい』

「へ?」

 素で聞き返してしまった。

『こっちも忙しくって手が回らないのよ。いやー、助かったわ。試験飛行の時間が取れないかもと思ってたけど、これなら安心ね!頼りにしてるわよ。頑張ってね』

 天使のような笑みで、悪魔も青ざめるようなことを言い出す。ほとんど死にかけるような、比喩でなく脳みそが湯だって死にそうな有様で、やっとのこと終わらせたのだが。

 しかし彼女の周りを見れば文句も言えない。そもそもリリア自身の発想から設計されたのだから、重要な部分は彼女がほとんど設計している。その上にまだ未熟な技術者たちが隊列を組んで質問に来るのだ。足元には大小の紙が積もり重なって、雪でも振ったのかと見まがうばかりである。

 どこから体力が湧いてくるのか。少なくとも常人がこなせる量の業務ではない。

『でももう厳しいかしら?疲れたのなら少し休んでいいわ。これだけ早く終えたんですもの。今日くらい休んでも』

『いえ、やらせていただきます!』

 それは色香に惑ったなどという分かりやすい理由ではなかった。一言で言うなら悔しい、と言ったところだろうか。あるいは焦りなのかもしれない。

この少女は才能でも努力でも自分のはるか先を行っていて、その差は開く一方であることが怖かったのだ。武はまだ若さに無限の可能性があると進行できる年齢だった。

八洲が西州にいつか追いつくように、武もまた、この若い教師と並びたいと願う。その眩さに、憧れたのかもしれない。

その気負いを見て何を思ったのか。リリアは同い年の、立場は全く違う少年をしばし見つめ、また紙にペンを走らせた。

『それじゃあお願い。これが骨組みの詳細ね。こいつが完成すれば大儲けでボーナスもがっぽりよ!必死こいて計算なさい!』

『はい!』

叫ぶと差し出された紙束を掴んで机へと走り出す。計算式が豪雨のように降り注いでくる。休む暇などなかった。


怖いほど順調に進んでいた。基礎設計は完了し、強度計算も問題なく終わる。山あり谷ありが当たり前の新型航空機としては破格と言っていい。

社運をかけて技術者たちが一丸となっていることもあるにせよ、やはり司令塔の功績が大きいだろう。よそ者ゆえの不信、若さと性別による偏見を、リリアは腕と努力で打ち払っていた。

もはや疑う者はいない。紛れもなく天に愛され、愛されるに足る技と心を持つ者。リリア・フォークトは天才だった。

試験飛行が近くなっていた。組み立てはもう始まっている。あとは途中で起きた不具合の微調整だとか、所定の性能に到達しなかった際の改造案の策定などの、次に向けた研究である。

都市部の神部では満足に飛ばせないので、試験飛行は山間部にある鏡原飛行場で行う。主だった社員たちと共に、なぜか武も滑走路に立っていた。

輸入ものの液冷エンジンがぶんどどど、と回りだす。快調だ。天気はすこぶるいい。正面から微風。

環境とエンジン周りは絶好のコンディション。後は機体の設計にかかっている。場にいる男たちは、軒並み念力でも使いそうな視線をいとし子に向けている。

「なかなかいい感じね。これなら高めの記録も狙えるわ」

ただ一人。紅一点のリリアだけが、飛翔という成果を疑いもしない表情で、紙面と実物を見比べていた。

およそ二か月弱の期間で、ややこしい敬語と発音の細部を除けば、ほとんど違和感ない八洲語会話をものにしている。

努力も並々ならぬものがあるのだろうが、やはり元の暗記力が半端ではない。

ただの人になる前の神童とはこういうものか。やはりすごい人だと、武は畏敬の念を新たにする。この二月で、リリアへの評価は変わり者の少女技士から、設計の師匠にまで塗り替わっていた。

機械系統に異常なしと報告が入り、操縦席に試験飛行士の山田が入る。名前も顔かたちも朴訥とした男だったが、操縦の腕前は冷静かつ大胆な名人だ。

機関の回転数が上がり、期待と不安が、否が応にも高まっていく。手旗が振られた。二枚組の白い翼が走り出す。

まずは歩くようなスピードから。滑らかに速度は上がり続け、やがてプロペラのものではない、羽が風切る音が響く。揚力を受けて、翼が弓のようにたわんだ。

航空機に最大の負荷がかかるのは、まず離着陸である。ここで強度が不足すれば、主翼がへし折れて横転。バランスが取れていないと、飛び立つうちに錐もみして墜ちる。爆音がみなぎる滑走路横で、息をのむ音が聞こえた。


車輪が地を離れる。羽布張りの胴体から風が流れてきて、すぐに止んだ。

まるで神意を受けて空に吸い込まれるかのように飛んでいく。地上で生きることを定められた人間が作ったものが、何の違和感もなく青い天上へと昇って行った。

「飛んだ……」

飛んだ。それも、これまで見てきた飛行機とは比べ物にならない自然さで。

揚力と重心がかみ合っていない航空機は、女学生が自転車で坂を上るように、上下左右に揺られる。今飛ぶ試作機はまさに鳥のようだった。力強く大気を押し下げて、自らの腕力で頭上を征服していく。

「飛んだ!」

「飛びおった!」

 声が重なる。誰もが見惚れていた。その優雅さ。その逞しさに。武も、リリアも。

「いいわよ!もっと高く!もっと速く征きなさい!」

高度を上げていく。風の抵抗にへこたれる様子はない。3000mまで到達すると、旋回、降下を繰り返し、最後は急加速に入る。一段高くなった回転音が轟いてくる。紺碧の空に遠雷がどよめくように。

「今どんくらいや!」

 木崎部長が空中の白点を見つめたままで問う。

「今150kmを超えて……、180、190……。200km超えました!」

「よーし!もっと回しなさい!新記録作るわよ!」

発破を受けていよいよ加速がきつくなる。荒鷲に並ぶ速度。幾百万の進化の歴史を、人の技術が夢が、追いついて追い越していく。

「220、30、40!240kmいきましたあ!」

「ばんざーい!」

 部長が両腕を高々と掲げ、水面それに続く。胸を割るような勢いで叩き、飛び上がり、空を見上げた。本当に良い飛行機だった。勝てる。社は救われる。まだ叶っていない希望を無邪気に信じさせる力を、あの流麗な機体は持っているのだ。


一通りの試験が終わり、試作機が着陸する。滑走路に足を置いて、軽くふらついた後、まっすぐにこちらへと向かってきた。もちろんそこにいただれもが駆け寄っていく。喜びにはち切れんばかりの笑顔を浮かべて。

ただ、武はそれまで真円だと思っていた図形に、わずかな偏りを見た。それは無心に空と機械を観察し続けていたからこそ見えた欠落だった。

おかしなところがある。だがどこだろうか。リリアの設計は完璧だった。焼ききれそうになるまで見つめても、紙面から瑕疵は読み取れなかった。

「どこがおかしい?あんなに完璧なのに……。重心も強度もバランスも完全、完全?」

そう、完全だった。紙面の上では。対称の機体は計算の上で見事に飛び立ち、何の誤差も無く着地する。方程式から求められる無謬の機動。だがそれは現実には。

メモを開く。胴体周りの強度の一覧は書き写してあった。無駄のない骨組み。遊びの無い綿密な設計は、さすがラインラントの技術者と感嘆するもの。そこに何かを付け加えるのは蛇足に思えて、つかのま怯む。だが、場合によっては蛇に足を付け足さねばならぬのが戦場。この機体には欠陥が存在するのだ。

数値を書き込む。模式図に矢印を回し、補助線から真の力を算定していく。

「なにやってるの?みんなはもう行ったわよ?」

リリアが怪訝な顔で、メモと武の間に割っている。

「うおわ!あ、いえあの、機体の強度で気になる点がありまして……」

 途端に彼女の機嫌が悪くなる。大成功にけちをつけられたのだから当たり前だが。

「強度?私の計算は完璧よ。見てわかったでしょ。ちゃんと飛んだじゃない」

もっともだ。目の前に証拠があってなお否定を述べるには勇気がいる。それでも武は、異国のマイスターに追いつきたかった。それには是を唱えるだけではいけない。

「はい。設計は完璧なんです。完璧に飛べば完璧に動作します」

「それなら何が問題なのよ?」

「完璧に飛ばなかった場合です」

「どういうこと?」

リリアが興味を持った。先ほどまでの不機嫌はとうに捨てている。この柔軟さと潔さが、設計者としての彼女の最大の武器であろう。

「着陸の際、両脚が完全に同期して着地すれば、機体はまったく揺れないはずです。しかし今回の着地では翼がわずかにぶれました。つまり片足だけに荷重がかかると、その不均衡が起こすモーメントによって主翼が左右に揺れるんです。胴体と主翼の結合が弱い」

話しているうちに、青い瞳が大きく見開かれていくのが分かった。小首をかしげて、リリアはしばらく思考していたが、我に返ったとたんに叫ぶ。

「再試験よ!私が言うとおりに飛んで!」

大成功に冷や水をぶっかけるような指示だ。集まっていた社員らが驚くのは至極当然の反応だろう。

「なにか問題があったんですかい」

 後藤設計士が、言外に無用なのではと疑義をにじませるが、リリアは譲らなかった。

「それを確かめるために飛ぶのよ。今度は一回飛び上がって、片輪で着陸して!」

困惑はあっても、命令するのは技術畑の責任者である。試験飛行のパイロットとして、山田飛行士は黙って頷いた。まだ余熱の残るエンジンが再始動する。この発動機は当たりだったようで、素直に動いた。

疲れも無く、燃料が少なくなった分むしろ軽やかに浮かぶと、飛行場周りを一周して逆方向に侵入する。その途中で、主翼を大きく左に傾ける。当然左の車輪にほぼ全ての荷重がかかり、不均衡な力の相互作用によって、予期しない動きを起こす。

主翼が揺れた。振動と呼べるような小さなものではない。まるで突風にかしぐ柳のように、右に左にゆさゆさと震える。

「おお」「こりゃ……」「欠陥ね」

リリアが断じた。確かに、偵察機は良好な滑走路ばかりを走る機体ではない。このような不安定な挙動をしては、軍用機の任を果たせないだろう。

「胴体と上翼の間に、支柱をあと二本足してちょうだい。山型になるように」

 冷静に必要な作業を言い渡すのは、現場に慣れた熟練技士ゆえ。失敗を乗り越えるやり方も、模範的なものだった。

「タケル」

「はい」

「助かったわ。またおかしなところがあったら言ってちょうだい」

 屈託なくそう言って、白い歯を見せる。新たな発見に心から喜ぶ、子供の笑み。

「はい!」

強くて正しい人だと思う。彼女が派遣されてきてよかったと、自然とそう思えた。後は言葉を使う場面ではない。武は早速改造のために、二枚羽の鳥の元へ走っていった。

だから、後ろで聞こえたリリアのつぶやきを、そのままにしておいた。そのことを後でちょっと、いやかなり後悔することになるが、それはやはり、先には立たぬものであった。

「不均衡な荷重の強度計算も必要ね。あとでちょっと研究してみましょう。……非対称か。面白いかも。うまくいけばまったく新しい設計が……」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ