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仮住まい

 開国直後、治安の懸念から、外国人は国内を自由に移動できない代わりに、特別に設けられた居留地に住まっていた。

特に神部の居留地は、綿密な都市計画に基づいて造成され、東洋一の居留地と評判であったという。すでに返還から数十年経つが、今でも住み心地の良さから人気であり、歴史的に外国人も多い。

 リリアの住まいはその中の、海にほど近い場所にあった。元々商社の駐在員用にこしらえた高級住宅である。

ガス灯の明かりに映える白亜の壁。円柱を多用した古典様式のたたずまいは、そのまま建築学の教科書に載ってもおかしくない見事なものだった。神部の晴朗な気候も相まって、遥か地中海文明の華やかさが復活したかのようでもある。ただでさえ気後れしている武にとっては、堅城を攻める雑兵のような心地だった。

仮にも一流企業の、部門丸ごとを教導する技術者である。お手伝いの2,3人を雇ってしかるべき地位だが、それにしても大した奮発ぶりだった。青海産業が彼女にかける期待の重さが知れる。

リリアの方も、あてがわれた屋敷がこれほどの豪華さというのは嬉しい誤算だったのだろう。ただでさえくりっとした目をさらに真ん丸にした。

間違いや錯覚でないと分かると、喜色満面といったふうに二つに結んだ金毛の尾を波打たせながら、門前から玄関へ続く石畳を小走りに駆けだした。


下っ端根性の抜けない武は、果たしてその後を追っていいものかと悩む。普通彼のような小僧は、こんなお屋敷に用事があれば、裏口から失礼するものだ。

餌を無くした蟻のように、門の境でうろちょろする少年。喜びに弾むリリアがそんな機微を理解できるはずもなく、興奮した声で彼を呼んだ。

『何してるのタケル!けっこうなお家じゃない。あなたも早く来なさい!』

『ええ……。警察とか来ませんよね』

『なんで警察が来るのよ。私の家よ!?』

 それはそうだ。と思いつつも、肩身を狭めておっかなびっくり敷地へと踏み出す。小市民の悲しさか。

「いらっしゃいませ」

「うおう!」

 こんな心境の中で横から声がかかったのだから、咄嗟に飛びのく他ない。日が長いとはいえ、もう夕暮れ時なのだからなおさらだ。

 だがお化けの類でないのは一目で判別できた。足はあるし、何より幽霊にしては洋風に過ぎる。

 いわゆる女給の、この場合はメイドの服と言った方が正しいのか。薄暮に溶け込むような紺色の和服に、白いひらひらしたエプロンドレス。手には竹ぼうきを握っていることから、主人を迎え入れるための掃除をしていたことはすぐに知れた。

 妙齢の女性。それも、少し陰のある相貌を差し引いてもかなりの美人である。きっちりと結い上げた髪に、フリルのカチューシャ。最近流行っているショートヘアなどどこ吹く風の、保守的な給仕の装いであった。

「あ、お手伝いさんでしょうか。この家の」

「はい。静霞(しずか)と申します。青海産業の社員様でいらっしゃいますか?」

「ああはい。その、あちらのフォークト博士から資料を借りに来まして」

「それではご案内いたします。どうぞこちらへ」

 メイドさんは軽くお辞儀をすると、片腕を開いて屋敷の扉へと武を促す。

『あら、お手伝いさんまでいるの?用意がいいのね』

 静霞が身振りを示したことで、リリアが第三者の存在にようやく気付いた。少女らしい仕草を思い出したように、とてとてと近寄ってくる。

『初めまして。ミス・フォークト。わたくしは当屋敷にて、以前の主人の女中を務めておりました、静霞と申します』

 かなり堅苦しいが、その分聞き取りやすいラインラント語だった。以前の主人もラインラント人だったのだろう。

『以前の?このお家って最近空いたの?』

『はい。前のご主人様は戦時中に故国へと帰られました』

 う、と武は思わず喉奥が詰まったような声を出してしまう。なぜこんな良い住宅を、青海産業がちょうどよく持っていたか分かったからだ。

 大戦において大八洲帝国は、ブリテンとの義理もあってラインラントとは一応敵対していた。それだけだと義理堅くも聞こえるが、やったことと言えばほとんど火事場泥棒。敵国ラインラントの植民地を奪い取り、さらに納税などで色々苦労していたラインラント商人の財産も接収していたのだ。

恐らくこの屋敷も、国のものとなった資産を格安でいただいたものなのだろう。元がラインラント人の持ち物なのだから趣味も合うだろうし、この国では貴重な、外国語を解する使用人もつけられる。

合理的なのは間違いないが、それはちょっとどうなのだろうか。武としては、無用な気を回さざるを得ない。

そのような不安をよそに、リリアはにこりと笑った。

『そう。こっちの言葉はまだ覚えられていないから助かるわ。後で八洲語を教えてちょうだい。送っておいた荷物はあるの?』

『すでに整理しております。まだ開けてはおりませんので、ご確認を』

『ありがと。じゃあタケル、参考書を見繕ってあげるから、一緒に来なさい』

『あ、はい』

 元の持ち主の運命に考えがいっていないのか、それともラインラント合理精神の賜物か。リリアは貰えるものは有難く受け取るようだった。足早なリリアを先頭に、メイドと設計士見習いは後へと続く。

 

  玄関からホールに入ると、豪華ながら風通しの良い、はずの空間は大小さまざまな紙束に占領されていた。

 武も女子の荷物は多いという事くらいは知っているが、これはそう言う意味ではないだろう。服だとか日用品の類はほとんど見受けられない。紙、紙、その上にまた紙だ。

だがその上に載っているものこそは、武のみならず、青海産業航空部の人間なら誰でもよだれを垂らす、宝の山であった。

分厚い工学、航空力学の学術書。紐で綴じられた論文集。胸まで届きそうな巻紙は、クラウディウス社から持ち込んだ設計図に相違ないだろう。どれも金だけでは贖えない代物だ。

『とりあえずは、ガリアの航空力学の訳書と、翼型の仕様と……、設計図は当面使わないわね。メモ帳はどこへやったかしら?』

書類の積雪の中を、両腕でかくようにして分け入っていく。ここで手伝うと余計に収拾がつかなくなるので、武は黙って見ていた。

やがて海女のように本や手帳を抱いて、リリアが浮上する。

『あったあった。ほら、これが航空力学の参考書で、あと私がまとめといた覚え書きね。性能は空気抵抗をしっかり計算すればかなり正確な値が出せるから、頑張りなさいよ』

 ふわりとほほ笑む。それは後進の道行を応援する指導者の顔であったが、優しさというものを男は勘違いしがちである。

『はい!粉骨砕身の心で当たらせていただきます!』

『えらく元気になったわね!その調子よ。楽しみにしてるわ』

『期待に応えられるよう頑張ります!それでは!』

 しゅび、と手を振り上げて走り出す。気分は絶好調であった。

 家を出て扉を丁寧に閉じると、深々とお辞儀をする。行動が妙に大げさになっていた。

「もし。磐井様」「うわあ!」

 横にいつの間にやらメイドさんがいた。さっきまで同じ部屋にいたはずなのだが、どうやって気付かれずに出てきたのか。見当もつかない。

「本日はご主人様とご歓談頂き、誠にありがとうございました」

「え、い、いやあ。こちらも大事な資料を貸してもらって大助かりですから」

 どうにもむずがゆい会話になる。西州人らしくない、可愛らしい体躯のリリアと比べれば、静霞の方は八洲撫子らしからぬ、すらりとした体形。脚は長く、腰は帯で締め付けられているにしても細い。

 こんな女性に持ち上げられると、なにやら分不相応に思えてくる。

「どうかご主人様と仲良くお付き合いいただきますようお願いします。リリア様に変えられますと、わたくし失業ですので」

「なるほど。頑張らせていただきます」

 どうも彼女は彼女で考えがあったようであった。そりゃあこんなお屋敷に住み込みなのだから、職場環境としてはなかなかのものだろうな。と納得する。どこかがっくりきている自分は無意識領域に封印だ。

「それでは。日も長くなったとはいえ、夜道には十分お気をつけて。夜分遅くでお疲れでしょう。こちらをどうぞ」

 渡されたのは小さな紙の箱。ほろ苦く甘い香りはチョコレートのものだろう。

 頭をひねる職の者は、タバコを吸うでもなければ、大抵甘いものが一の好物になる。武も例外ではない。ほくほく顔で帰路につくことになった。

 月が白色から黄金の色に変わり始めている。移り変わる空は、芸術とは縁遠い武にも判る名画だった。行儀は悪いが、歩きなら箱のふたをとる。中には三角の黒土のようなケーキ。トルテ、とかいうらしいことは、知識としてあった。

 そのまま一つとってかじる。粘土のような密度が一挙に甘苦さとなって崩れていく。家に帰ったら茶でも淹れないと、とても食べきれそうにない濃さだった。

 雲はゆるりと流れ、その隙間から溢れた月光が、槍のように伸びていく。知らぬうちに

鼻歌を歌いながら歩いていた。

 苦しい世の中だが、良くなっていく気がしたので、武は上機嫌だった。


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