設計者
製図というのは肉体的にも厳しい労働である。活版印刷のように機械で印刷できない以上、複雑な機構、微妙な機体のカーブを手作業で引かなければならない。
だからこそ、優れた設計士の生む図面には魂が宿る。その形、曲率の一つに至るまで美意識と哲学が通っている。実力を測るのにこれ以上のものは無い。
陽光は窓辺のすぐ下に落ちていた。多人数を十分収容できる部屋の真ん中である。真昼だからこそ薄暗さが際立っていた。電気は通っているのだが、点ける時間ももったいないらしい。ほこりが舞う暗い部屋の中で、少女は白紙の向こう側にある何者かと戦うように鉛筆を振るっていた。話しかけられる精神状態ではないと一目で分かる。
誰に指示されたわけでもなく、誰もが足音を忍ばせて後ろに回る。武も少年の細い体躯を活かして、人壁の隙間から顔を出した。
風雅な線が目を通り越して脳の深い所に焼き付いた。
それを目の当たりにした時、設計を生業にする者は黙らざるをえない。美術品を観賞するように、不自由な体勢の中で、様々な角度から眺めようと首を伸ばす。
複雑な強度計算を経ていないそれは、あくまで概念図といったところ。だが、軽く引かれた線から伝わる先進性は、殴り付けるような衝撃を伴っていた。
『急いで作るんだから素直に複葉機でいいわね。翼型も既存のものから、ゲッチンゲンのやつでいいか。……ねえタケル。こっちに風洞実験装置はあるの?』
『あ、え、いえ。なにぶん新事業部なものですから、そういった基礎的なものが軒並み揃っていなくて』
『まあ、そうでしょうね。じゃあ向こうの大学に頼むことにして、と。胴体部の強度はどんなものかしらね……』
話しながらも描いては直し、引いてはまた消し。だがそれは枝葉の部分のことで、根本には見事に一本の筋が通っている。
『これは、張線がないんですかい?』
後藤が尋ねる。先ほどまでの半信半疑の表情はどこへやら、深々たる興味を隠そうともしていない。
『ええ。翼のねじれは支柱だけで受け止めるわ。これなら部品も少なくなるし、何より空気抵抗を一気に改善できる』
その図面が写す機体は、武が見てきた航空機の中で、最も簡明、かつ潔癖な造りをしていた。
翼とは突き詰めれば薄い板であり、そこに大空を舞うほどの揚力がかかれば、必然曲げやねじれが起こる。複葉機は上下に翼をもつ特性上、重量低減のため翼の強度を落とさざるを得ない。そのままでは戦場で機動するどころか、そよ風で翼がねじ切れる。
それを防ぐのが、翼と胴体、あるいは翼同士をつなぐ支柱と張線である。これがあるからこそ、気流の重圧を抑えて飛行することが出来る。
だが、糸というものは存外抵抗が大きい。後部に乱流の渦を生じさせて飛行機の足を引っ張るのだ。固定するための部品もかさむ。純粋に飛ぶための部材ではないのだから減らしたいが、無ければ空中分解は免れない。複葉機の欠点の一つだった。
その張線の一切が省略されていた。羽の上下間を結ぶのは、鋭い山型の支柱のみ。全体で見れば、幅の広いM字形。今まで社の設計士が行ってきた小手先の技ではない。清々しいまでの飛躍。水墨画の名人が会心の一筆で辿ったような、静かな力を感じる。
胴体もほどよくまとまっている。計算尺はほとんど振るっていないにも関わらず、収まりよいフォルム。実機の製作による経験の蓄積が無ければこうも上手くはまとめられないだろう。
数十の瞳が、彼女の指先を必死に追っていた。まるで餌を追う鯉だ。その優美な形状に見ほれる。経験、技量、知識。そのどれもが卓越していると手際を観察するだけで思い知らされた。本物のエンジニア。木崎部長の言葉は、何一つ間違っていなかったのだ。
またたく間に三面図ができあがる。飛ぶ、と確信した。
まだ理論もろくに確立されていない分野。飛ぶかどうか危ぶまれる、どころか飛べるわけがないと設計士をなじりたくなるような図面はいくらでもある。だがこれは飛行できると、軽やかに空を舞うために生まれたのだと直感できた。まるで書物のようであり、詩のようでもあった。
ばん、と机を叩き、リリアが跳ね飛ぶように立ち上がる。その巻き起こす風になびくように、後ろにいた社員たちがのけぞった。
『ま、とりあえずはこんな所ね。概要はできたから、後は急いで計算!時間が無いわよ!全員並んで!』
さっきまで残念そうな眼をしていた男どもが、親ガモについて行く雛鳥のようにいそいそと列を作る。新興企業ゆえの実力主義なだけあって、力さえ見せつければあとは早い。
『そっちの経験豊富そうな人は私と一緒に主翼の構造設計。その隣の人は胴体部の強度計算ね。タケルは性能の計算と縦安定の計算』
『え、僕もですか!?』
『当たり前でしょ。軍用機の設計よ?人手がいくらあっても足りないわ。出来るだけ急いで。終わったら私に見せてちょうだい』
確かに、現状見習いでも遊ばせる暇はない。だが初めての本物の仕事。それもこれまでの小間使いから一気にだ。武者震いだけとはいかない。
人一倍学問に打ち込んできた自負はあるが、どれだけ通用するか。内臓の部分だけ重力が上がったような気持ち悪さがこみ上げた。足に力を入れなければ、本当に倒れていたかもしれない。
もちろん、軍に品物を卸すからには、その設計は戦場と同等である。泣き言を聞く耳を持つ者はいない。
ただ、年上の技師たちに指示を出して尻を叩いていたリリアが、言い忘れたことを思い出してか振り返った。
『そういえば、あなた参考書は持ってるの?』
『いいえ。何一つ』
武は唇を噛んで首を振る。航空機の製造には、経験則的な要素が多い。流体の振る舞いを分子一片に至るまで予測できれば別だが、そんな計算機が現れるのは千年は先だろう。必然、実物をもって計測したグラフやら定数が必要になってくる。
そんな有り難い文言が記されているのは、当然洋書だ。当たり前のように馬鹿高い。社にある分は奪い合いになる。一介の飛行機少年には十年早い代物だ。
しかしそれを同い年の、しかもすでに一流の位置にある少女に問われれば、己は甲斐性なしかと情けなくもなる。
とはいえ当たり前のことだ。リリアは特に感情も浮かべずに受け入れた。
『まあ、うちの国にだってそうあるわけじゃないしねえ……。じゃあ私が持ってるのを貸すから、後で家にいらっしゃい』
『はあ、……ふえあ!?』
磐井武、人生初めての女子からのお呼ばれであった。