新型機
銀行不渡りの報は、工場の隅々まで震わせるような大音量で響いた。しかし武がその意味を理解できるまで時間がかかった。
支払い停止。見習い小僧の武にもなんとなくは分かる。つまり銀行に支払いが可能な現金が存在しないという事。それによって債務が不履行となる状態は、一般的に破産とみなされる。
十五銀行は青海産業を含めた青海財閥全体の金融を司るメインバンク。会社という生き物に資金の血流を巡らせる心臓部だ。それが破錠すれば、グループ全体が壊死する。
噂は流れてきていた。大戦が終わって景気が一気に落ち込んだのは周知の事実だ。だがここまで大ごとになるとは想像だにしていなかった。航空部どころか会社が無くなってしまう。血圧が重力に負けて、すとんと血が脚に落ちる。
『ちょっと、何言ってるのあの人?銀行がどうかしたの?』
まだ八洲の言葉に慣れていないリリアが尋ねてくる。あまりよろしくない雰囲気は感じ取れるのか、長いまつげがふるふると揺れていた。
距離が近い。異郷で言語の通じる相手に頼るのは分かるし、うら若き乙女に助けを求められるのはまんざらでもないのだが、女性への免疫がない小僧にはいささか刺激の強いい間合いだ。
一旦呼吸を止め、落ち着くためにゆっくりと吐いた。おかげで頭にも思考する余裕が生まれる。
『わが社と深い関係のある十五銀行が破錠したそうです』
正確にはまだ首の皮一枚といった所かもしれないが、迂遠な言い回しは誤解を招く。ラインラント語は元より八洲の言葉でも口がうまい方ではないのだ。
『それは、大変だろうけど、ここと何の関係があるの?不況だからってすぐに傾くほど小さい会社じゃないでしょ』
『普通の会社なら、あるいは別の銀行ならそうなんです。ですが青海財閥というのは、金融に関わる仕事を十五銀行に依存していまして、様々な優遇を受けています。というより銀行という幹から生える枝葉のような存在なんです。なのでその銀行が無くなると資金繰りが一気に悪化することになります』
『悪化するってどのくらい?』
『下手をするとここの辺りにいる皆が首になります』
ふむ、とリリアは顎に手を当て考え込む。西州流行りの推理小説の表紙を飾れそうな、堂に入った姿である。しばし思索にふけると、二つにまとめた髪を振りつつ頭を上げた。
『大変じゃない!』
『大変なんです!』
口の端があわあわと波打つ。物凄い焦りようである。至極当然の反応であるのだが、迫真の狼狽振りに武もつい追従してしまう。
『え、じゃあ私はどうなるの?』
『いや、僕にはさっぱり。自分自身の行く末も分かりませんので』
少女は頬を膨らませる。期待に沿えないのは誠に申し訳なく思うも、こればかりはどうしようもない。ことは雲の上での厄災なのだ。今の武は会社や他人のこと以前に、故郷に帰るまでに野垂れ死にしやしないかと不安を抱える始末である。
リリアは目を閉じた。堂々としていた彼女の体格は、意外に小さい。八洲の女子とそう変わらないだろう。思えばこんな小柄な女性が、一縷の希望を胸にはるばる東海へと渡ってきたのだ。その期待を裏切るどころか、蚊帳の外で何一つできない自分が恨めしい。
それでもこのまま今生の別れというのでは、あまりに寂しい。一介の男児として、困っている人を捨て置くには忍びない。腹の奥で気合を入れて、手を差し伸ばす。
「リリアさん!もしよろしければ僕とってあれ?」
隣にいたはずの少女は、ほのかな花の香りだけ残して消えうせていた。小さな影は、すでに走り出している。向かっているのは青い顔で話し合う部長たちの方であった。
『ちょっと、そこの偉い人。』
『ん、ああ、フォークトはん。えろうすんません。ちょこっとばかし、大きい問題が起こりまして』
『聞いてるわ。会社が大変なんですってね』
『ええ、まあ……』
いきなりの波乱に精神をやられて、木崎部長の鍛え上げた話術もだいぶ精彩を欠いている。気まずさを隠しきれず、リリアの青い虹彩の中に太陽でも見たのか、視線が安定しない。
工員たちも騒ぎを聞いて、いつもとは段違いの素早さで集まってくる。不安定な職に就く者が身に着ける、野生の勘じみたものが彼らを急きたてていた。今はまだ混沌としているだけだが、下手な対応があれば暴動でも起こるかもしれない。
騒然とした雰囲気の中で、最も危うい立場にいるはずの少女だけが泰然としていた。
『でもすぐにダメになるってことは無いんでしょう?お金が借りられなくなっても、自分で稼げばばいいんだし。今仕事はあるの?』
『は、はあ。あるっちゃああるんですけど』
部長が口ごもる。その意味するところは外国人のリリアにも察せられた。
『コンペティションなの?』
観念したのか、きまり悪げに頷いた。
『どこに卸すの?相手は?』
『陸軍でおま。花菱と石島飛行機が競合で、新型偵察機の採用を掛けることになっとります。向こうさんはその、フォークトはんと同郷の、偉い博士を呼んどりまして……』
言外に、様子見であったと告げる。仕方ないだろう。いくら信頼できると紹介されても、まだ若手の無名技術者に全てを賭けるなどできるわけがない。
それでもリリアは表情を変えなかった。ただその眼差しは深い思考の海に沈み、口だけはその外に出しているかに見える。
『要求性能は?』
『最高時速200km以上、高度限界6000以上』
『なかなかね』
実際はかなり厳しい。曲がりなりにも飛行機狂いを自認する武であるから、その性能が複葉羽布張りの機体としては限界に近いものだという事は分かる。
陸軍も、航空機という文字通り海のものとも山のものともつかない新装備をものにするために必死だった。この競合試験は軍の本気を示すものであり、当たれば途方もない利益が転がり込むはず。
だが今の青海産業に失敗できる余地は無い。破談になれば社が傾くのはもちろん、これが初仕事であるリリア・フォークトの経歴に消えない汚点を刻むことになる。
なんの責任も無い武でさえ怖いのだ。来社後すぐに千人近い航空部、ひいては一万を超える社員が身を寄せる青海産業の運命を負わされた彼女の負担はいかばかりか。
悪いことに、頭の中で何かを描いているリリアを見て、工員たちは不吉だと取ったようだった。彼らに理解できない会話をしていたのも悪かった。上が勝手に話を進めていると解釈して、解雇への怯えが怒りに置換される。あたりが騒々しくなってきた。
「なにわけのわからんこと喋っとんのや!おう!」
「この不況の寒空におれらを放り出す言うんかい!」
まだ労働者の権利など、そも、権利という単語自体が普及の途上である時代。自助努力とは腕力にものを言わせることに他ならない。機械工は無論のこと力仕事である。仕事道具を即席の鈍器に見立てて構えるものが出てきた。
武はリリアを庇おうと前に出る。こんなことで優秀な技師が怪我でもしたら国際問題だ。それに個人的にも、罪のない女子供が傷つけられるのを黙って見てはいられない。
しかし、その蛮風ゆえの自己犠牲を彼女は除けた。後ろから武の肩をぐいと引いて、傲然とした態度で前に出る。
『ええいうろたえるな!こんなことで雀のように逃げ惑ってたら、飛行機なんて飛ばせやしないわよ!』
良く通る美声だった。もちろんその発音の意味するところなど、学歴の無い工員たちに伝わるはずがない。だが気迫というものは、むしろ意味など分からぬ方がはっきりと届く。爆発寸前のいら立ちを、先に炸裂した憤怒が打ち消した。
『タケル!通訳しなさい!』
「や、ヤ―!!」
リリアはすさまじい勢いでまくし立てた。武より少し低い身長からは想像もつかない鋭さと重さを持っており、まるで中世傭兵の両手剣のようであった。
『いい。これから会社は苦しい状況になるわ。お金が無いんだから当たり前よ。でもすぐに良くなる!私が設計した飛行機が売れに売れまくって大儲けになるからね!今から仕事に入るから、あなたたちもさっさと仕事に戻りなさい!さもないとこれから入ってくる注文に押しつぶされることになるわよ!分かった!?』
通訳が終わるのも待たずに、リリアは社屋に駆け足で飛び込む。呆気にとられる社員たちを押し分けて、製図室へと猛進していった。
工員も社員も、その激しさについていけない。ただ快速列車を眺めるように見送った。
「え、ええと、まあそうことなので。みなさん安心して仕事に戻って下さい」
会社側の武としても、それ以外言いようがない。労働者たちも、まだ納得いっていないようだったが、一度冷めると熱狂しにくいのが群衆というもの。不承不承ながら工場に吸い込まれていった。
「大丈夫なのか?」
今さらながら後藤設計士が疑問を呈する。無理もないが、そんなことを武が分かるはずもなかった。
「いやあ、僕に言われましても」
「まあ、そうだわな。……見に行くか」
とりあえずそういうことになった。