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外国(とつくに)の設計者

 瑠璃色の空と海の間に、境目は無かった。初夏にもかかわらず、うだるように暑い日の朝。神戸の港を見下ろせば、万国より集まった積み荷が波のように寄せては大洋へと運ばれて行く。

 右手には淡道島の大地がうっすらと盛り上がり、左からは境より紀伊にかけての複雑な海岸線が、鋸歯のように伸びていた。

 だが磐井武が見にきたのは、そんな絶景ではない。婚約者もいないのに給料3ヶ月分をつぎ込んだラインラント製の双眼鏡で、水平線を一心に見つめる。流れる汗をぬぐいもせずに、ふやけた瞼をかっと開いていた。

 遥か地球の丸みの先から、魚のようなものが飛び出した。だが海のものではない。鯨であっても、この遠距離からでは捉えるのは難しかろう。

 朝凪の海にも似て煌めく鱗を持つ、細長い生き物。龍だった。


「おっ、大きいな。こんな南であんな大物はそういないぞ。畜生、カメラがあればなあ」


 軽く舌打ち。雑誌で数えきれないほど眺めた美しい肢体。いつか自分が撮影した龍が雑誌の紙面を飾るのが、彼の二番目の夢だった。

 一番の夢は、もうすぐで叶うところまできている。ラインラントの双眼鏡を撫でる。大陸の向こう、西にある技術大国。

 神戸には戦争で捕虜になり、そのまま住み着いてしまったラインラント人が数えるほどいたが、やはりただの兵士では飛行機の話はできない。作ってくれるパンは美味いのだが。


 そう、飛行機。数十年前に発明され、西州の大戦によって一気に進歩した人間のための翼だ。それこそが武の一番、なんとしても手に入れたい夢だった

 飛行機に憧れるのに理由はいらないだろう。飛ぶから目指す。それだけでいい。

 だがパイロットになるには、御殿を建てられるような金か、軍の選抜を突破できる超人的な身体能力が要る。武は金持ちではないし、名前に反してもやしっ子だった。

 それならば、と一念発起して、中学校にあった辞書や先生に土下座して借りた本で、死ぬ気で勉強して言語を習得。それを武器に航空機メーカーに設計士見習いとして潜り込んだのだ。

 そして今日。ラインラントから、世界一の工業国から技士が来る。技術に劣る航空産業を発展させるため、国家をあげて招聘する計画の一部だった。


 浮き立つ心に合いの手を入れるように、坂の下からけたたましいエンジン音が登ってくる。わざわざ確かめるまでもない。このあたりにくる車など、航空部内に1台しかない社用車以外に無かった。


「おーい!磐井君!そんなとこで道草食っとったら時間に間に合わんぞー!」


 太鼓腹にふさわしい声量を吐き出す、恰幅のいい男。似合わないスーツなど着ているのは、海外からの賓客を出迎えるためだ。

 青海産業航空部長・木崎は、車から転げるように降りてくる。革靴が馴染まないらしかった。

 本来なら作業着に身体を押し込んで、部下と油まみれインクまみれになりながら設計組み立てを行う、根っからの現場主義者である。しゃちほこばった靴など下駄箱の肥やしにしていたのだろう。


「あっ、部長!すみません。でも龍がいるんですよあそこに!ほら!」


「なに!こら見せろ!おお!よう見えよるわ!かーっ、やっぱラインラントはモノが違うな!尻尾の先までかっちり写っとる。スケベな胴体しよってうへへ」


 催促しに来たにも関わらず、勝手に盛り上がっている。こういうところも含めて、航空部というのは先駆者たち、ようは恐れ知らずの変わり者たちの巣窟だった。


 航空機。空を自在に駆ける科学の精華が誕生してから、まだ三十年と経っていない。何もかも手探り。失敗すれば重力という名の断頭台が命を刈り取る、文字通り決死の世界だ。

 それでも空を目指すことを止められない偉大なる大馬鹿野郎たちが、生命を的に天空へと繰り出していった。

 彼らが唯一頼れるのは、機械を完璧に動かす整備士と、機体そのものを生み出す設計士たち。すなわちエンジニアだけである。

 だからこそ誰よりも学ばなければならない。飛行機と人を、生かすも殺すも自分たち次第なのだから。


「あの、部長。もうすぐ船が、ってああ!来てますよ!船!あれラインラントからの客船でしょう!?」


 確かに、指差す先に双眼鏡を向けると、もくもくと煙を吐き出す艦船が淡道島の山影から姿を現し、立派な舳先を見せつけていた。


「おっとと、ほんまや!いかんいかんいかん。急いで乗れや磐井君!今日は飛ばすで!」


「了解しましたあ!」


 早速、中古車の箱のような席に入ると、木崎部長の腹に押さえつけられながら、武は坂下へと転がり落ちていった。


 歴史を遡れば源平争乱の時代に行き着く。西の一大国際港神部(かんべ)は、大戦景気を追い風として貿易・工業の一大躍進のさなかにあった。

 その原動力の第一は造船業。武の所属する青海産業もその一員である。

 しかし大企業のひしめく業界では、成長するのにも限界がある。

 そこで目をつけられたのが飛行機だった。


 航空工業の成長速度は日進月歩というのも生ぬるいもので、特に戦争は、この幼い機械を金持ちの道楽から国家の命運を決定する主力兵器へと脱皮させようとしていた。

 羽布張りから金属製、複葉から単葉へ。進化し続けるその勢いは、最先端の研究者たちさえ先を見通せない。


 青海産業は単独での開発は最初から捨て、西州ラインラントのクラウディウス社と提携を組む。大陸でもまだ目新しい、大型の全金属機を制作していたためである。ここの製品を買い付けると同時に、技術指導のためのエンジニアの派遣を要請したのであった。

 幸か不幸か、大戦争のあまりの惨禍に講和を決意した西州諸国は、絶対平和条約を締結。西州全体を一種の連合国として、民力休養のため軍縮を決意していた。

 当然軍事研究も軒並み停止。西州の一流施術者は失職の憂き目に。

 もっとも、高い能力を持つ人材を優先して放り出す馬鹿はそういない。が、しかし、飛行機とロマンがほぼイコールの時代。設計者たちは飛行機を作りたかったのだ。それは一流国入りを悲願とする八洲の利害と一致した。

 国、企業、個人の意見が珍しくも同じ方向を向き、お雇い外国人来訪と相成ったわけである。


 石畳の道路を跳ねながら、自動車は海沿いの街並みを進む。まだ将軍が国を治めていた時代から開かれていた港町だ。多少景気は落ち着いたとはいえ、賑わいは(さかい)や帝都にも負けない。煉瓦造りのハイカラな建築群は、東北の田舎から来た武にとって別世界のようである。

 船は晴天を錐で突いたかのように、その船首を徐々に港へと近づけていた。


「部長。今回来る先生は、向こうでも一流の方なんですよね」


 本来新入りの武には話しかけることも憚られる上役だが、部内のざっくばらんな雰囲気と、部長本人の気安さもあって、心の浮き立つままに話しかけてしまう。

 浮足立っているのは相手も同じようであった。普段の気の抜けたお地蔵さんのような顔は、いつになく真剣で、眼はサーチライトじみて輝いている。


「一流なんてもんやない。西州で馬鹿でかいヒコーキを作っとったクラウディウス社で、社長のクラウディウス博士が信頼しとる数少ない技師やそうや。うちの社長も、設計だけやのうて、強度計算ができて空力学にも明るいのを出してくれと、重々頼んどる。そんで研究の止まった西州に留まらせるのも忍びないと、懐刀を持ってきてくれたわけや。ほんまもんのエンジニヤが来るんやで」


 ハンドルを握る手に力がこもり、操縦者の熱気にあてられたエンジンが一段と猛った。造船所に居を構えるだけあって、航空部の建物から埠頭まではそう遠くない。車ならすぐ着く。


 大型客船の到着ともなれば、船着き場に迎えのための人だかりができる。それがはるばる西州から来航したのならなおさらだ。留学生の凱旋帰国を総出で待つ家族。旅客を歓迎するために両国の旗を振り回す商売人たち。水夫たちの友人あるいは恋人。

 雑多な人間が入り乱れる様は、この神部の街に住む人種の展覧会としても機能するだろう。

来る船が煙突から吐き出す煙は、もう見上げるまでになっていた。押し合いへし合いながら巨大な客船の威容に歓声をあげる人々。


 それに負けじと、車のドアを蹴り開けて人ごみに分け入る航空部の二人組。普段は使いどころのない木崎部長の丸い腹も、この時ばかりは北極海の砕氷船のごとき活躍を見せた。

人口密度の抵抗にも負けず、最前列に出る。船体が正面から斜めの図に角度を変え、高性能を射影で表す優美な造形が現れた。飛行機屋なのに浮気しそうになるほどいい船だった。


「あれもラインラント製ですか」

「ブローム・ヴォス社のフェニステレ号や。進水後20年くらいたっとるが、まだまだ一線級やな。ええ仕事しとる」


 さすが造船会社に長く勤務しているだけあって、部長は船にも明るい。船首の波が頬にかかる。長旅を終え、巨大な乙女はようやく減速に入った。


 タラップが降りると、後ろの騒ぎが一層大きくなる。群衆の瞳は出口から吐き出される乗客の顔を、ラジウム放射光のような力強さで精査していく。

 武としても件の博士を見つけたいのだが、肝心の顔を知らない。


「そういえばクラウディウス社の技師さんは、どんな顔なんですか?」


 尋ねると部長も困った顔になる。


「それがなあ。そのクラウディウス博士の子飼いってのは、戦時中に出世してそのまま会社にずっとおったらしくて、どこにも写真なんか載っとらんのや。分かっとるんは人種と姓名くらいやな。名前は電報にあったから、雑誌やら論文の山を探して、それっぽいお人を見つけたわ。フォークト。R.フォークトさんとかいうらしいが、どうもかなり若いらしい」


 武は無意識に、いかにもな西州の偉い博士のまぼろし――白髭をたくわえ、小さな眼鏡をかけた謹厳実直な老爺――を想像していたのだが、よく考えれば設計の腕一つを頼りに大陸の裏側までやって来る男なのだ。才気煥発な若い技師の方がふさわしいのかもしれない。


「ま、年下に学ばねばならんのもこの業界や。磐井君、むしろ君の方が歳が近いかもしれんぞ」


「それでわざわざ僕を迎えにしたんですか?」


「まあ、むさいおっさんばかりもなんやしな。ご機嫌取っとけな。怒らして帰国なんてされた日にゃ、ヒコーキやのうてわしらの首が飛行することになってまうからな」


 べつに太鼓持ちの才能があるわけでもないのだが。と口を曲げてみるものの、海外の技術者の近くにいられるのは得もある。黙って追従することにした。

 続々と地上へ降りてくる乗客たち。むろんただの一人とて見逃すまいと、じろじろ眺めまわすが、どうにもそれらしき人がいない。

 ここは奥の手だと、双眼鏡で階段を下から上まで凝視する。拡大された視線が、船の出口に差し掛かる。


 武のめを奪ったのは、穂を垂れる稲の輝きにも似た金色の髪の輝きだった。

 北の、武の故郷の空に似た、濃い青色の瞳。西州北方の豊穣の女神にああいうものがいたかもしれない。

 いかにも白人的な、二重の瞼に細い鼻梁。だが横顔は優し気な曲線を描いている。まだ可愛らしさが美しさに脱皮する前の、生まれかけの蝶のような透明な美貌だった。


「お、どした!見つけたか!」


 常にない反応を目ざとく察した部長が顔を傾けてくる。


「いえ、あの、女の子が」


「女の子お?アホ、出歯亀やっとるんやないんやぞ。まあ若いからしゃーないか。しっかり探せや」


 ご説ごもっとも。こんな時に女の子を眺めている場合ではない。

 しかしながら、そう思っても気になるのが男心。いけないと分かっても眼を注いでしまう。少女は二つに分けた金糸のような髪をなびかせ、タラップを降りきるところで、ふと横を向いた。目が、合った。


 陽光が、水晶体の中をひたひたと満たして躍りまわっていた。その光を受けただけで石のように固まってしまう。

 西州人であることは間違いないが、しかしあの若さで一人で船に乗ったのだろうか。冷静に考えようとして、どうでもいいところに思考が迷い出る。

 つかつかと、コンパスのように細い足を、メトロノームのように規則正しく。毅然とした歩調で女神が近づいてくる。これはまずいと冷汗が滲んだ。なにしろ西州の婦女は気が強くて弁も立つらしい。人様をじろじろ遠眼鏡で覗いていたとあっては、張り手の一つも貰ってしまうかもしれない。


 まだ五つのいたずら小僧のように、証拠となる双眼鏡を背中に隠してしまう。むしろやましい心があったと告白するようなものだが、内心はその通りなのだ。罪の意識が無言の自白に己を駆り立てていた。気の利いた釈明を述べようにも、やたら光り輝くその身体を正面に向けられると、声がかすれて話さえできない。

 ついに少女が手の届くところまで来てしまう。身長はそれほど変わらない。が、脚は少女の方が長かった。白人というのは本当にすらりとしているのだな、と、また聞きの知識を現実で補完する。

 こんな心境で侮蔑の情を露わにされたら、そのまま海の底へ歩き出してしまうかもしれない。それほどに、初対面の異国人の中の何かに強く惹かれたのだ。

 だが放たれたのは嫌悪でも軽侮でもなく、どこまでも爽やかな好奇心の表出だった。


『あなた、技師でしょ』


 流暢なラインラント語。当たり前だ。彼女にとっては母国語なのだから。西洋の言語の中でもラインラント語は濁音が多く、強い感じのする言葉が多いのだが、それが少女の桜色の口から発せられると、どこか柔らかく、慈愛に満ちているように聞こえる。


『セイカイサンギョウの人よね。そんな若いのに、うちの国の双眼鏡なんて持ってるんだし。ラインラントのものが好きなんでしょ?』


 もっともな推理だ。小僧と言われるような歳で、舶来物の物品を持っているなら、それは金持ちかよほどの道楽者。そんな人間が海外からの旅行者を探っているなら、技術系の仕事のためとみるのが常道だろう。

 だがなぜ企業の名前まで知っているのか。


『え、ええ。はい。青海産業の磐井武と言います。あなたは?』


『あのう、ひょっとして、フォークト博士の娘さんでっしゃろか?』


 部長が八洲訛りの強いラインラント語で尋ねた。

 そうか。その線があった。武は得心する。東の果てまで係累を連れてくるとは思わなかったが、よく考えればこれから数年、あるいは十年以上この国に滞在するかもしれないのだ。かわいい娘を手元に置きたい親心も分からぬわけではない。

 しかしそうなると、万が一にも博士の内弟子のような関係になれれば、この娘さんともお近づきになれるという力学が見えてくる。

 これまでにないほどやる気が燃え盛ってきた。大望の火に桃色の油が注がれる。

 だがそんな希望と不純がより合わさった心境を吹き飛ばす爆弾が、当の娘から投下された。


『何言ってるの。こんな遠くまで家族を連れてくるわけないでしょ。私がフォークトよ』


「「へ??」」


気の抜けた声が二重に漏れる。


『リリア・フォークト。クラウディウス社から指令を受けて、技術指導のためにまかりもこしたわ。ヨロシク!』


びし、と二つ指を立てて敬礼。もちろん本職の威厳は無いが、美人なだけに無闇に様になる。

リリア・フォークト。いい名前だ。彼女の強さと気高さを表しているかのようだ。

リリア。R。R・フォークト。なるほど彼女こそ、大戦においてラインラント軍事の一翼を担い、その実績をもってはるばる極東まで航空機の伝道にやって来た技術者に違いない。


『あ、ちなみにおいくつで?』


『18よ!』


ひょっとすると見た目より年かさかも、という希望は、薄氷より容易く粉砕された。間違いなく少女。同い年だった。

口を半開きにしながら、武は木崎部長と向き合う。冗談やろ。と顔に書いてあった。武の顔にも墨書されているだろう。

念を入れて、もう一度レオナの姿を指差し確認する。脚、見事な脚線美。良し。腰、無駄な肉無く引き締まっている。良し。胸、まあ良し。顔、言うまでもなく、とても良し。非常に良しの美少女だ。


「「はあああああああああああああああああ!?!?!?」」


喧騒と潮騒を打ち砕いて、二人の絶叫が大海原に轟いた。



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