一目で恋に落ちる、という言葉は世迷言にされがち
はじめてみた瞬間、「彼女だ」と思った。
名も知らない、銀色の髪に翡翠の瞳の女性。会ったことなどもちろんない、見かけたことすら。
けれども確信に近いこの感覚は一目惚れのそれに近いのかもしれない。
だからこそ、功を焦りすぎたのかもしれない。本来ならばもっと段階と手順を踏んで接するべきだったのだ。その結果が…
「ごめんなさい!!先に誘ってくれたのはハヴェルの方だったので…!」
だった。
(‥そうだよな。突然初対面の男性にあんなこと言われたら誰だって戸惑うに決まっている)
執務室にて。
本来今日すべきだった本来の仕事を自室で片付けながら、アストレイは考えた。
「もう本当、急にいなくなるなんて心臓に悪いことはやめてください?!」
隣では侍従やら要職の幹部たちがこぞって説教しているのだが、全く耳に入らなかった。
突然の王子殿下の脱走は、王城内を覆いに騒がせた。
過去から現在に至るまで、第一王子アストレイは品行方正、部下想いの優秀な王子で、仕事も絶対に途中で投げ出さない…そんな優等生だった王子殿下が、片付けるべきだった仕事の一切合切放棄して、午後から夜半にかけて姿をくらましてしまったのだ。
今回の彼の行動はまさにその人物像に反する行動そのものだったのだ。
「聞いてますか?!アストレイ様!!」
「全く聞いていない」
「‥‥っ」
ぐぐっと身を乗り出した侍従のフレッドは、危うく「ふざけるな」という言葉を口から発してしまいそうだったが、こらえた。
「‥‥っばっちり!聞いているじゃないですか…っ」
「…なあ、フレッド」
「なんですか…」
「君は女性に振られた経験はあるだろうか」
「…‥‥はい?」
この容姿端麗でかつ第一王子持ちのアストレイの口からよもやそのような言葉が出てこようとは。見れば、彼の表情はいたって真剣で、冗談を言っている雰囲気ではないようだった。
王子殿下の突然の発言に周りの要職幹部たちがざわめきだした。
フレッドは慌てて彼らを追い出し、執務室には鍵をきっちりとかけた。
「‥‥あ、あの。ちょっと、ついていけないんですけど。誰が、何をですって…?」
「君が、振られた経験はあるかと、聞いている。」
自分の主はどうかしてしまったのだろうか。
フレッドは目をぱちくりさせてから、改めて尋ねた。
「この国の尊い身分にあられながら、私に…その、じょ、じょ女性に振られた経験はあるか、と聞いてらっしゃるんですか?」
「そう聞こえなかったか?」
「…えっと、なぜそのような‥」
フレッドがぽかんとしている間にアストレイはきっちり仕事の全部を完了させて、短く息を吐いた。
そしてこともあろうか、一回の侍従である身分のフレッドに応接間においてある椅子に座るよう促してきたのだった。本格的な面談スタイルである。
「君は紅茶でよかったか?」
「え?!!!い、いいえ。わ、私は」
「なんだ、私の勧める紅茶は飲めぬ、とそう言うのか?」
「め、めめめっ滅相もありませんっ!」
アストレイはなれた手つきでカップに紅茶をいれると、そのままフレッドに差し出した。
「あ、ありがとうございま…」
「で?どうなんだ?」
「……」
(‥拒否権はなさそうだ…というか、私にとってはこれは脅迫に等しい…)
これは逃げられそうにもなさそうだ、とフレッドは覚悟を決めた。
「そ、そうですね。まず、私の初恋が6歳の時で…」
「子供の頃の思い出話はいいから、ここ4・5年の範囲で」
「…は、はあ‥そうですね。ごく最近であれば‥‥つい1年ほど前のことでしょうか…」
「なるほど、それで?」
「い…言わなければならないのでしょうか?!」
「減るものではなし」
(私の心の傷が増えます、アストレイ様)
「は、はい…。そうですね、お相手はさる名家のご令嬢の末の妹姫であらせられます」
意を決して、フレッドは語りだした。
「その令嬢はあまり社交界にも出られず、今はとある商家の女中をされています。しかし、一度だけ女主人の付き添いとして一度だけ夜会に参加され‥自分も子爵の身分として参加し、その時出会い…一目で恋に落ちました…」
わずかに頬を染めている様子をみると、彼はまだ片思い継続中らしい。あんなに嫌がっていたくせに、思いの丈を語っている最中はとても幸せそうだった。
「それで?」
「はい。‥しかし彼女は美しいもの、綺麗なアクセサリやドレスがとても好きな女性で‥特にご自身の女主に心酔していらっしゃるようでした…」
「それで君は何か行動したのか?」
先ほどまでの幸せそうな表情から一変、彼はどんどん沈んでいくようだった。
「実は…、思い切ってダンスをお誘いしたところ…初めて会ったのに、とお断りされてしまいました」
「……」
しょんぼりとうなだれるフレッドを見つめながら、なんとなく他人事とは思えず、今まで以上に親近感を感じてしまった。
「‥ひとめぼれ、というのは普通の女性からすればあり得ないことなのだろうか?」
「そうですね…。逆に考えてみれば‥アストレイ様もある日突然見知らぬ女性が目の前に現れて求婚されたらどうしますか?」
「‥求婚‥まではしていな…あ、いや。そうだな…。とりあえずは相手の目的を探ろうとするかもしれないな。特に私の身分では、まあ、過去に色々あったわけだし」
過去、アストレイは何度か女性関係で、本人も思いもよらぬところで火種の中心になることが少なからずあった。全く身に覚えがないにも関わらず、少し目が合っただけで勘違いされてしまったり、ある時は呪いをかけられそうになったこともある。
今考えれば、自分の異性に対する執着のなさはここからきているのかもしれない、と思った。
「あ、アストレイ様の場合はちょっと特殊でしょうが、とにかく、どんな女性でも怪しい、と感じてしまうようなのです」
「‥そうか、ならば手順を踏んでみたらどうだろう?」
「手順ですか?」
その時フレッドの眼がきらりと光った。
「そう、例えば手紙…最初は取り留めのない話題から、少しづつ距離を詰めていく、とか」
「な、なるほど、正攻法ですね」
「焦ることはない、自分を相手に知ってもらうことが重要だと思う」
「た、確かに!最初は相手を知らないから、向こうが警戒するのは当然ですよね!…ああ、どうして気が付かなかったんでしょう。焦ってもいいことはないですよね‥」
ひとりでうんうんうん頷きながら、フレッドはなにやら画策しているようだ。
(…手紙、か。そう言えば、彼女の下の名を聞いていなかったな。とはいえ・・自分の正体を明かすわけにもいかないし)
そう言えば、と。アストレイは思い出した。
(ハヴェル‥といったか。あの青年)
どちらにせよ、明日の舞踏会である程度は明らかになることだろう。
エサルエスには、貴族と呼ばれる家紋は延べ131個も存在している。
一番上の王侯貴族のみ名乗りを許されるているの爵位は『公爵』。
そこから下は『侯爵』、『伯爵』、『男爵』、『子爵』と大きく四つの階級に分かれている。ある程度の規模の大きさや領地の財力の差はあるものの、一部の家紋は爵位に関わらず没落寸前といわれている者も少なくはない。
彼らは様々な伝手やコネクションを駆使して何とか名のある名家と縁を結びたがるのだった。
その中で開かれる今回の大規模な舞踏会というのは、二人の王子が主賓として出席するもので、しかも身分や家紋は問わず爵位を持つ男性を伴えば未婚の女性であれば誰でも出席できると、受け口が広い。
あわよくばうちの娘を‥と身の丈に合わない夢を見ることが赦されている場でもあった。
「はあ‥うんざり、だな」
貴族の身が立ち入りを許される庭園で、シスリーは大きなため息をついていた。
徐々に出席者も到着しており、大広間では使用人たちがあわただしく右往左往していた。
「そう言えば、兄上はもう到着しているのだろうか?姿が見えないようだが‥」
「いいえ、まだ到着されていらっしゃらないご様子でした」
侍従のアイルが律儀に答えると、首を傾げた。
「珍しいですね‥何もなければいいのですが」
「…そうだな。‥でもそう言えば先日お会いしたとき、いつもと様子が違うように感じられたな」
(誰もがみんな役割を演じている…か)
まさかアストレイの口からあんな話をされるとは思わなかったのだ。彼の言う役割というのは、自身のことなのか、それとも誰か別の…例えばシスリー自身についてのことなのかもわからなかった。
「ん…?あれは」
「まあ、シスリー王子殿下‥エサルエスの輝く星の君にご挨拶申し上げます」
「レイアトール令嬢‥本日は兄上とご一緒ではないのですか?」
アストレイの妃の筆頭候補はレイアトールの令嬢だということは有名な話だった。王城に疎遠になりがちなシスリーの耳にも入ってくるものだから、衆知の事実だろうと思った。
しかし、オフェーリアはどこか悲し気な笑みを浮かべて目を伏せてしまった。
「いいえ、私は正式にアストレイ様からお断りを承っております」
誰でもなく、まさか肝心の本人からこのようなことを聞かされるとは夢にも思わず、シスリーは言葉をなくしてしまった。
「?!え…ではなぜ」
「‥本日は国王陛下に正式なご招待をいただいております。…私の勝手な判断で欠席するわけにはいきません。大広間にはいかずにこちらで過ごそうと考えていましたが‥」
見れば、身に着けているドレスもアクセサリも真新しく見える。この日の為に新調したものだろう。
「‥私が告げるのも憚られますが…よろしい、のでしょうか。」
「私や私の家紋がどういおうと、アストレイ様から正式な回答をいただている限り、私には何も言えませんわ。‥お気遣いありがとうございます、殿下」
「‥オフェーリア様‥」
(元の役割を変える‥貴方はそうしたのでしょうか、兄上)
それがどういう理由からかは分からないが、らしくないようにも感じる。
けれども。
―― 本当は自分が勝手にそう思い込んでいるだけかもしれないと思って。———
(あの言葉は、もしかしたら俺に向けた言葉であると同時に、自身にも向けた言葉だったのだろうか?)
現に、こうしてシスリーは兄の行動を『らしくない』と勝手に決め込んでしまっている。気づかぬうちに兄はこうあるべき、とその像を押し付けていたのかも知らない。
そう思うと、今まで見えていたものが違って見えることに気が付いた。
「オフェーリア様」
「‥?」
「良ければ、私に貴方の随伴をお許しいただけますか?」
ならば、らしくなさそうなことをあえてするのも面白いのかもしれない…そう思った。




