夢の終わりに
初めて彼女を見たのは、あの舞踏会の時だった。
婚姻相手を探す、などという名目上の理由でしかないあの夜会の日。
相手はほぼレイアトールの令嬢に内定しており、アストレイはなんとなく、テラスに立ってかわるがわる到着しては孔雀のように着飾った女性たちをぼんやりと見つめていた。
(こんな意味のない夜会によく来れるものだ)
その一台からぐったりとして運ばれてくる女性、それがシャンイ・アルヴェールと知ったのは、弟が彼女と共に大広間に入場したときのことである。あまりに着飾らないその姿は派手な衣装の令嬢たちの中で特に映えていたので、記憶に残っていた。
それだけの存在でしかなかった彼女を意識したのは、ディアトルの夜会の時だった。
自分がしてきたことを肯定されたとき、本当に心の底から嬉しかった。聞きたかった言葉を、ずっと憧れていた言葉を自分にくれた。
弟の未来に光が差してよかった、と思うと同時にこれから先もずっと彼女と共にいる彼に対して羨ましいとまで思ってしまったのだ。
(その彼女が今自分の腕の中にいる)
離れがたい気持ちと、愛しさと入り混じった想いでその小さな身体をきつく抱き締めた。
本当は、少しの間だけでも自分以外の人間のことを考えないように…独占したかった。ただそれだけだったのに。
「……このままどこかへ連れ去ってしまおうか。誰にも見つからない場所へ」
願うように、縋るように漏れ出たその言葉と共にシャンイの肩に顔を埋めた。びくり、と小さく肩が震えたのを感じた。
「あ…の、わた、し」
そのまま何かを告げようとした彼女の唇を強引に塞いだ。
抵抗しようともがくその手を取り、息が止まりそうなほど唇を押し付けて彼女の吐息を奪っていく。
「…ッ…っん」
薄く開いた唇の中に這うよう舌をにねじ込ませると、彼女の身体はためらいながらも、全身の力がどんどん抜けていく。シャンイの息が乱れ、甘い吐息が漏れると、アストレイは自身も熱に浮かされて意識まで飛びそうになる程の眩暈を感じた。
(このまま…君を)
しかしその瞬間、ザアアっという轟音と共に土砂降りの雨が降ってきた。
「……ふう」
顔を真っ赤にして動けずにいる彼女から離れると、アストレイは空を仰いだ。
「頭を冷やせ、とみるべきか。水を差すというのはまさにこのことか…」
「…~…」
そのままふらふらとよろけたシャンイを抱きとめるが、次の瞬間思い切り顔をそむけてしまう。
「すまない、シャンイ」
急いで自分のジャケットを脱いで着せると、ぼうっと立ち尽くしていたシャンイは自分の状況に気が付いた。急な土砂降りで自分の上半身がうっすらと透けてしまっていた。
「!!!!ひゃあっ?!」
「さすがに、このままでは私の方が…いや、町まで行こうか」
***
(あれは何?なんだったの?!)
たっぷりとお湯が入った浴槽に身を沈めながら、シャンイは考えた。色とりどりの花びらが浮かぶそのお湯は乳白色で、香りも温度もちょうどよかった。
あの後、町の方に赴き、そのまま手近の宿に駆け込んだ。濡れた服は乾かすことにして、「体が冷えるから」とアストレイに風呂場へと押しだされ、現在に至る、
すでにもう乗ってきた船は出航していて、帰りの便は明日になるらしい。祝日のさ中に観光地の宿でVIPルームに突撃で泊まれるなんて、王家の力というのは強力だった。
(いや、そんなことより私…アストレイ様に何を…っ)
突然抱き寄せられたことにも驚いたが、問題はその後だった。自分が覚えている範囲でこの姿になってからは多分三回目だ。
一回目や二回目とは違い、身構える間もなく完全に不意打ちだった。
(しかもあんな……っ)
シャンイは唇に触れると、一気にのぼせそうなほど顔が赤くなってしまう。しかもあの感触を思い出しそうになり、誤魔化すようにお湯をバシャバシャとたたいた。
(き、記憶を失って気絶したほうがまだましだったわ…!!どうしよう?!どういう顔をしたらいいのよ?!今から二人きりとか嘘でしょう?!)
などと考えているうちに、どんどん頭に血が上っていく。
「あ…だめ、倒れるのは…」
くらくらと視界が歪む。何とかそこは耐え、浴槽から這い上がった。
脱衣所にあるガウンに手を伸ばし、それを羽織ったのち眩暈が落ち着いてから部屋に戻ることにした。部屋に戻ると、アストレイはにこやかに笑った。
「大丈夫かい?随分戻ってこないから、倒れているのかと心配したよ」
「……だ、だいじょうぶです……」
あまりに通常通りで軽く拍子抜けしてしまう。その様子を理解してか、困ったように微笑んだ。
「先ほどは急にごめん。‥驚かせるつもりはなかった」
「い?!いいえっ!…その、びっくりはしました、はい………」
シャンイは自身が顔が赤いのは自覚しているので、タオルで顔を隠し、アストレイに背を向けた。その後ろ姿を切なそうに見やると、アストレイは触れるか触れないかギリギリの位置でそっと囁いた。
「本当なら、このまま抱き寄せて、強引に押し倒して…なんて思ったけど」
耳元から聞こえる甘い言葉にシャンイの全身の毛が逆立つ。しかし、その身体に触れることなく、アストレイはくるりと背を向けた。
「やめておく。……君は大事な弟の恋人だから」
「…アストレイ、さま」
互いに背を向けあいながら、二人は並んだ。
その距離は決して縮まることのない見えない境界線のようだった。絶対に踏み込んではいけないその先に、進むかどうかアストレイは葛藤した。
(このまま、振り返って彼女の肩を抱いてしまえば。有無を言わさずに触れてしまえば)
隙がないわけではない、すべてのしがらみを取り払ってしまえ。とも、それだけは出来ない、という相反する思いが渦巻いていた。
一日中眺めていた銀色の髪、翡翠の瞳。風呂上りの彼女の髪は少しだけ濡れていて清艶だ。ガウンの下に覗く白い肌は少しだけ赤みを帯びていて、触れるだけで跡が残りそうだった。
たとえ強引にでも、自分のことだけで彼女の頭をいっぱいにしたい。
その後に色々なものを失い、破壊することになろうとも…などとそんなことを考えてしまう。
(傲慢だ。……あまりにも身勝手な振る舞いだ)
アストレイは、伸ばしかけた自分の手を強く握りしめた。一度壊れてしまったものをもう一度修復するのがとても困難だということは、自分が一番よく知っている。
「シャンイ、今日君に挙げたお土産…覚えているかい?」
「…アメジストのお守り、ですか?」
「あの石言葉は…魔除けはそうなのだけど、もう一つ意味がある」
「……?」
ここで初めて、アストレイは振り返った。
「真実の愛を守る。…だそうだ」
「真実の、愛…?」
テーブルに置いてあったアメジストのお守りを手に取ると、そっと口づけをしたのち、シャンイの首にかけた。
「だめだよ、悪い男に引っ掛かっては。……残念、時間切れ」
振返った翡翠の瞳は戸惑いを隠すことなく揺れている。あまりに見つめられるとせっかくこらえたものがあふれそうでアストレイは瞳を閉じた。
「夢の終わり、だ」
「あのっ…私」
「それ以上は言わないで。…私の名誉のために」
何を言うでもなく、ただ微笑んだその姿に、シャンイは目を伏せた。
(…もっとあなたと早く出逢っていたとしたら……私は)
それは絶対に言葉に出してはいけない。
夢は終わりにしなければ、前には進めないのだから。




