第8章 偽り 11
深更ともなると、多くの人々が暮らす神殿は、水底に沈んだような静寂に支配されていた。
「いよいよ明日となったな」
衣擦れの音と静かな声が重なり、回廊に低く響いた。
声をかけられた青蘭は、回廊の角からひときわ奥まったところにある窓辺に腰かけていた。寝衣の上に薄い夜着を重ねただけの姿で、雪蘭がいれば眉をひそめたことだろう。
奥まった一角の手前には神兵が二人控えていて、彼女がこっそり寝室を抜け出してきたわけではない証だった。
声の主も王女と似たような軽装で、それでも腰には帯刀している。なんの飾りも彩りもない出で立ちなだけに、太刀の装飾がひときわ目を引く。
それは彼が東葉から唯一携えてきたものだった。
回廊には等間隔に灯火が点され、深更であっても灯りを持ち歩く必要はない。
朧げな灯明の輪を受け、青蘭は薄く笑んでかすかに頷いただけだった。
「眠れぬか?」
彼はそう問いかけながら、窓際の壁にもたれかかる。
囁くには遠く、けれど潜めた声も届く距離だった。
二人の間の距離をそんな風にあらためて認識し、青蘭はひっそり笑う。西葉に入ってからこちら、彼は以前ほど親しげには振舞わない。
お互いに想いの通じた安堵感もあるのだろうが、青蘭の即位と盾の選定を前に体面を慮っているのだろう。
気安く触れてほしい時もあるのだが、互いに身分に相応しい振舞いを心がける義務もある。
門前の参道を往来する参詣者のなかには仲睦まじい夫婦もいて、羨ましいような想いで見ることもあるが、それと同じように振舞うことはやはり躊躇われるし、できようもない。
彼にしてみたところでただの逃亡者ではなく、東葉の王子と云う身分に戻ってみれば、やはりそれに相応しい行動をとっている。
肌身にしみ込んだ習性はそうそう抜けるものではない。
「ええ」
青蘭は短く答えてほっと息を吐いた。
離れて警護にあたる神兵たちも二人の身分を心得ている。明日の即位にあたり碧柊が盾として選ばれることは、ほぼ確定している上、周知の事実でもある。
それでも今夜はまだ他人同士であり、それは心得ておかなければならない。故に彼等の耳にもその気配くらいは届いている方が無難だった。
明柊がいよいよその動きを明らかにしたため、青蘭たちも行動を急ぐ必要に迫られていた。
嵜州公と李州公の呼びかけに応じる者は日に日に増えてきているが、同時に蒼杞方や東葉との戦いも迫っている。
諸侯は水面下での速やかにして密やかな軍備に追われ、正統な女王の即位式にまで参じられるような状況ではない。
青蘭の即位式はもっとも効果のある時機を図らねばならず、もはや悠長に構えていられる状況ではない。
いずれ“葉”の統一がなされた暁には改めて即位式が行われるため、この度の式は仮初に過ぎない。故に明日、神殿に姿をあらわす者はごくごく限られている。
盾の候補は三人。
以前に里桂が云ったように、彼の嗣子である十二歳の少年・嵜葉哉杞。
嵜州に比較的近い王領・孜州の王統家の孜葉桂琉。
そして、東葉王太子・葉 碧柊。
哉杞は数日前から聖地の嵜葉家の屋敷に滞在しており、日に一度は青蘭の前に顔を出す。
青蘭は即位式が正式に決まったため、今は賓客として神殿に滞在している。碧柊も同様だった。
どちらも公にはされていないが、こうした扱いになった以上は公的な決定と同じだった。
哉杞は里桂の子にしては素直で可愛げのある少年かと思われたが、碧柊に当日まで油断しないように悪戯っぽく囁き、父親が誰であるかを明らかにした。
それ以来、碧柊は哉杞に閉口させられることが度々あるのだが、口先で云うほどに彼を嫌っているわけではないらしい。憎まれ口を叩きながらも天性の愛嬌故に可愛がられる少年は、誰かを連想させる。
桂琉は昨日、ようやく聖地に到着した。
彼は王城に滞在していたばかりに父の処刑に立ち会わされ、罪人として曝されたその首を抱えて王都を脱出したという。父の跡を襲い、孜州公となったばかりの彼は、怒りを隠そうともせず復讐の念に燃えている。
里桂曰く直情径行の単純な思考の持ち主であるが、その分義に篤く信頼に値するという。桂琉は長年の敵であった東葉王太子の碧柊に警戒と敵愾心を隠そうともしないが、礼儀は守った。
碧柊はそれで満足していた。
状況を見誤らないだけの良識と自制心を彼が持ち合わせているのであれば、今はそれで十分だ。彼の理解と支持をそう易々と得られるはずがない。あまりに容易く心を開かれてもかえって困る。安い忠義は不要だ。
桂琉は、青蘭の前ではごく当然のように膝をつき、頭を垂れた。飾らない言葉で王女がこれまでになめた艱難辛苦を慰撫し、その志を褒め称えた。彼女の美貌については一言も触れなかったが、見上げる眼差しには称賛が満ちていた。
桂琉の人となりと、言葉にすることすらできないほどの想いの熱さを思えば、むしろこちらの方が年端の行かない少年より油断ならない好敵手である。
碧柊は引見ののち、青蘭に桂琉の実直そうな人柄を褒めたが、それ以上のことは語らなかった。要らぬ妬心をみせれば、彼女がどんな曲解をするか知れたものではない。
「お眼鏡にかなう盾の候補はおりますかな? 」
碧柊は物憂げな青蘭の横顔に問いかける。気安い口ぶりに青蘭は口元をほころばせ、「さぁどうでしょう」と曖昧に微笑んだ。
「はてさてまた、つれないことを仰せになる。吾しかおらぬとは言って下さらぬのか」
「あなたしかおられないのならそうとしか申し上げようがありませんが、他にもご立派な殿方がお二人もおられるのですから、明日までゆっくり迷わせていただきます」
つんと肩をそびやかせて冷たく言い返せば、低い笑いが響く。
「まだまだ愛らしい若君と、頑固そうだが信頼に値する男と――」
「一言も二言も多い殿方と。さて、どなたが良い夫君におなりでしょう?」
青蘭は難しい顔でわざとらしいほど首をかしげてみせる。
その一言に彼は思わず苦笑いし、反論の言葉を探すように視線を巡らせる。青蘭はその困り顔がおかしくて小さく笑いつづけているうちに、気がつくとその気配が間近にあった。
膝の上の手に手が重ねられ、もう一方の手がそっと顔の輪郭をたどる。太刀を握る指は太く武骨でかたい。その指先が頬をなぞりそっと顎を捕える。その仕草はひどく優しかった。
「誰よりも良い夫になる自信はある」
恥じらって逃げる眼差しを追うようにのぞきこんでくる瞳は優しく、囁く声は力に満ちていた。青蘭は頤を捕えられたまま顔を背けることもできず、けれど熱のこもった視線に応じることもできず、耳まで赤くして伏し目がちにそっとその逞しい体を押しやる。
「――その根拠は?」
「根拠か――その根拠は……」
言葉の代わりに熱を直接唇にのせられた。
反射的に抗うような動きをみせた手を封じられ、逃れられないように後頭部を固定される。がっちりと押さえこまれながらも、寄せられる唇は壊れものに触れるような優しいものだった。
重ねるだけの口づけの後に、ほんのわずか離される。伏し目がちな瞼に唇を落とされて、青蘭はそっと恐る恐る眼を上げる。自分を見つめる彼の眼差しに答えを見出し、言葉で返すかわりにおずおずと首に腕を回せば、強い力で抱き寄せられる。怯みそうになる心を堪えて身を預ければ、再び唇を重ねられる。それはこれまでになく深く長いものだった。