第8章 偽り 9
翠華周辺には徐々に軍が参集しつつあった。
碧柊と結託して東葉を蹂躙した西葉と、今や西葉王を標榜する蒼杞を討つという明柊の呼びかけに応じるべく諸侯が集まりつつある。
同時に広まりつつある噂もまた貴族達の耳に届いているが、噂は噂に過ぎない。
現在東葉の主は“青蘭女王”であり、実権を握っているのはその夫である明柊でもある。建国百年にしてようやく王位に迎えた青蘭女王は真実“葉”の王であり、その権威の前に噂など取るに足りない。
東葉の貴族たちにとって、真の王をいただき、その指揮のもと西葉に復讐戦を挑むことはこの上もなく意気の高揚することだった。
戦意は高まる一方で衰えることを知らない。噂のことなど気にかけている者がどれほどいるのか。
貴族のほとんどが世代交代したばかりだった。
兵を率いて王都にのぼってきた貴族たちは次々と登城し、当主就任の挨拶も兼ねて拝謁を願い出た。
雪蘭は名前を覚える暇もないほどひっきりなしに引見をこなしながら、噂が真実であると彼等が知ったとき、果してどんな事態となるのだろうと他人事のように考えていた。
謁見の間の玉座には雪蘭が座り、その横に明柊が控えている。
姿を隠すことなく接見する女王に、誰もが多少なりとも驚いたようすをみせ、口々に褒めそやした。そして、一様に西葉と蒼杞への憎しみを口にする。
彼等にとって先代の当主達は敬愛するに値する者もあれば、目の上の瘤をとりのぞかれたように内心喜んでいる者もあるだろう。内情はどうであれ、新たな当主達にとって先代当主はたいてい何らかの形で縁者であり、血縁の恨みは晴らすものと決まっている。
雪蘭が直接応えることはなく、明柊がその任に当たる。
雪蘭のやるべきことは、ただそこで清婉な微笑を浮かべ、時として哀しげな表情も垣間見せながら、いかにも耳を傾けているように肯いてみせることだけだった。
いよいよ諸侯が動きはじめたことは、西葉の岑家へ伝えてある。聖地にいる青蘭のもとへそれが届くまで数日かかる。山の背を鳥が越すのはその天候次第であり、山の背を避ける形での経路では順調にいっても五日はかかる。
嶄綾罧の無事は雪蘭にも知らされている。東葉国内にとどまって工作にあたっている彼とも直接連携をとれるように取りはからっているところだった。
すべてを明かすならば、西葉戦に加わる貴族ができるだけ多く集まってからの方が良い。
それと前後するように青蘭が即位すれば効果はさらに上がる。
「今、なにを考えていらっしゃいますか? 」
引見の合間に疲れた顔をみせた雪蘭のため、明柊はいったん人の出入りを止めた。
気分を変える効果のある香草茶を手ずから渡しながら、押さえた声でそう囁く。
気分を引き立てようとするよりもむしろ苛むような響きに、雪蘭は含みのある笑みのみで応じ、無言のまま茶器を受け取った。
「陛下のおかげで皆ますます奮い立っているようですね」
「そうですか」
性懲りもなくにこやかに囁く明柊に、雪蘭は肯定とも疑問ともつかない口ぶりで返す。
「まるで他人事ですね。皆、陛下のために働こうと意気込んでおりますのに」
「冷静に事態を見極め、若さのみで血気にはやる者たちを諌めることのできる者がもうおりませんから――それでも、あなたが私の代弁者ではないことだけは理解しているようですね」
良く云えば慎重、悪く云えば腰の引けた老臣の姿はほとんどない。事態を再度諮ってみようとする者すらいない。
この事態もまた彼の狙いだったのか、それともただの副産物なのか。そんなことはもはやどうでもいい。
感情を優先し、血気にはやって暴走する若き当主達は雪蘭にとっても利用しやすいと云える。
いかに効果的に明柊の罪を暴き、青蘭が“葉”を救おうとしているかを彼等に訴えるか。今、一番考えるべきことはそれだった。そのためにもこの馬鹿げた引見にも意味はある。
雪蘭の容赦のない皮肉に、明柊は悲しげに眼を細める。そのくせ、返す言葉を紡ぐ声は嬉しげにも聞こえる。
「陛下は真に思慮深く、お優しい。若き彼等の経験と思慮の不足までご案じ下さるとは」
彼等と一緒に自分まで馬鹿にされているような気がして、雪蘭は思わず苦笑する。
「案じてなどおりません。そこへ付け込んでいる人間に感心しているだけです」
「付け込まれる方が悪いのですよ。若さで云うなら私も似たようなものです」
明柊は悪びれもせずあっさり認める。
謁見の間には警備に当たるもの、取次のために忙しく出入りする者等、常に人の姿があるが、玉座の近くには皆遠慮して近づかない。
玉座を占める若き美貌の女王陛下と救国の王配殿下と云う若い夫婦の姿は、遠巻きには仲睦まじく映っている。そう見せるように共に気を遣っているわけだが、同時に雪蘭にはそれがひどく馬鹿げて思えた。
「――けれど、翼波も動きを活発化させているというのに、まるで誰も気にとめていないようですね。ここであなたが止めなければ、誰も思い出そうとしないのではありませんか」
謁見は個別に行われるが、すでに有力貴族や上級軍人を集めて会議は行われている。そこで翼波の動きも報告されているが、さして誰も気にとめていないらしい。
「翼波にはさんざん煮え湯を飲まされているはずなのですがね、喉元過ぎればなんとやらというのでしょう」
明柊は困り顔で苦笑し、冷めかけた香草茶を口にする。
東葉軍は西葉との戦いよりむしろ翼波との戦争で鍛えられてきたといってもいい。ほぼ毎年繰り返されてきた戦いだ。従軍経験のある者なら、西葉とは比べものにならない翼波の手強さを忘れられはしないだろうし、忘れていいはずがない。
「分かっていて、何故……」
「何故、俺がそれを正してやらねばなりません? それは俺の務めではない」
明柊はにこやかに断言する。
雪蘭は小さく息を吐き、玉座の背にもたれかかる。
「では誰の務めだというのですか――私の務めでもないようですわね」
女王として振舞うならば、たとえ分かっていても口にすべきことではなかった。だが、そんな言葉に明柊は耳を貸しはしないだろう。
投げやりな呟きに、王配殿下は楽しげに未だ名目だけの妻の横顔を一瞥した。
「しょせん人と云うのは痛い目に遭わねば理解できないものなのでしょう」
「その結果、最悪国が沈んでしまってもかまわないと? 」
「それもありですね」
名前だけの夫のにこやかな言葉に、妻はもう一つ小さく息を吐く。
そして空になった茶器を彼に手渡し、引見の再開を命じた。