第8章 偽り 8
婚儀から数日たったが、明柊は雪蘭と床を共にしつつも触れようとはしなかった。
青蘭が嫁ぐ前に東葉の事情を調査させた際、明柊の身辺も一通りさらってあった。彼は側室を持たず子こそ成していないが、愛人と噂される女性は複数存在していた。
彼女らはそろって年上の寡婦だった。
“葉”では夫と死別した後の女性の再婚はあまり歓迎されない。子を成し、血を伝えることを優先する王家は別である。それ以外の再婚は、亡くなった夫との間に跡継ぎを得られなかった場合に限られる。跡継ぎが得られずとも、弟妹の子供など係累に後継者とみなす子供がおれば養子縁組も可能。一般的にも再婚よりも養子縁組の方が多い。
再婚する必要のない寡婦は家を守るか、そうでなければ主家筋の格上の家に勤めにあがる。王城にはそうした女性が女官として勤めており、特に名家出身のものは上級女官として遇される。
明柊の相手はたいていそういう女性たちであった。彼女らであれば再婚が認められていないため、側室とすることもできない。
雪蘭はそこに姑息さを感じたが、同時に弁えている男だという印象も抱いた。
何人側室を置こうが、その腹から幾人子供が生まれようが、母親が王族でない以上はものの数には入らない。しかし母親の身分によっては解釈次第で厄介な位置につくこともできる。その点、側室となれない女性との間に子供ができても、その子はあくまで彼女の私生児に過ぎない。父親が誰であろうと、父親はいないのと同然とみなされる。
同性との噂もないではなかった。
葉では義務さえ果たせば、つまり、後継者となる子供さえ得ていれば同性とのあれこれをとやかくいわれることはない。もちろん義務を果たしていない場合は別である。
これが女性同士となると認められているわけではないが、寡婦が私生児を産むことは家名を汚す不名誉なこととされているため、それよりは……と大目にみられている風潮だった。
相変わらず甘いことを囁きながら、いっこうに自分を抱こうとしない明柊に、雪蘭は戸惑っていた。
「未亡人ばかりと浮名を流すは保身のためと考えていたが、実は単にそういう趣味だったのか?」
香露相手に首をかしげるが、答えを見いだせるわけもない。女官長は曖昧な笑みを浮かべるだけだった。
雪蘭も答えを求めているわけではない。
自分の任務はもう終わっている。彼が自分に手をつけようがつけまいが、大局に障りはない。ましてや彼の子供を産むわけにはいかない。その意思がないのであれば、それはそれでかまいはしないのだが、それでも心づもりと云うものがある。その気がないのであればその意志を明らかにしてもらった方が安心できるが、まさかそれを面と向かって問うわけにもいかない。
一方で、初夜に彼女を抱こうとしたのも事実だった。それともあれは彼ならではの悪ふざけだったのか。
疑問は解けぬまま夜となり、また彼は雪蘭と枕を並べる。
婚儀の翌日から雪蘭は政務に臨席させられている。あくまで王権は“女王”のものだと明らかにするためだが、経験のない彼女に果たせるものではない。明柊に指示されるままに肯き、署名するだけのものだった。
そんな政務の合間に二人きりで話す機会はあまりない。
明柊の心づもりを少しでも知りたい雪蘭としては閨の物語を大いに活かしたいところなのだが、明柊はいつものように本気とも冗談ともつかない甘い言葉だけを囁くと、さっさと背中を向けてしまうのだった。
だが、その夜は少しばかり様子が違った。
明柊はいつものように雪蘭よりあとに寝室に姿を現した。ごろりと横になると、雪蘭の方を向いて片肘をつき薄い笑みを浮かべる。
「さして意外な話ではないが、俺と蒼杞殿が首謀者だと云う噂が広まっているらしい――すでにご存知でしたかな?」
「いいえ」
すでにうとうとしかけていた雪蘭だが、眠気はどこかに飛んでしまった。眠たげな顔にやわらかな笑みを浮かべて小さく首を振る。
もちろん、知っている。その流言を広めた一派に組みしているのだから。
そのことが彼の口から出たのも計算のうちだった。予想より遅いくらいだが、それが即ち彼が知った時期であるとは限らない。問題は何故、今になって口にするのかと云うことだった。
昨日今日、彼の耳に入ったというのなら大して問題はない。それより以前に知っていて、にもかかわらず今夜話すというのなら、なにかしら意図があってのことかもしれない。
まずはそれを見極めるのが重要だが、彼がそう易々と悟らせるとも思わない。
「このことを知るはもちろん首謀者である俺たちと、碧柊――そして陛下、あなただ。それから、あなたの従姉の君」
もったいぶった口ぶりで一つ一つ名前を上げ、最後にうっとりと顔を寄せて囁く。咄嗟に雪蘭は横へいざって距離をあけ、訝しげに眉をひそめた。
「――雪蘭が? 何故ですの?」
苓南の砦でのことだろう。察しはつくが、それを明らかにするにはまずい。雪蘭は無邪気に首をかしげてみせる。
明柊は含みのある笑みをみせ、腹ばいになると手近な枕を抱きこむ。
枕を体の下に押し込み、顎をのせる。そのままの姿勢でやや顔を傾げるようにして横目で雪蘭を眺める。ゆるくまとめられた髪が肩から滑り、顔を縁取る。細められた目が何故か艶っぽく、雪蘭はそっと目をそらした。
「お話ししませんでしたかな?」
「聞いた覚えはありませんわ」
雪蘭の答えに彼は小さな笑いをもらす。不審を買うようなおかしなことを口走った覚えはないが、まるで見透かされたようでどきりとする。
「苓南の砦でお会いしたのですよ。少年のなりをして碧柊の従者のふりをしておいでだったが――思い出すほどにまことにお二人はよく似ておいでだ。まるで双子のように」
「そうでしょうか?」
「ええ、そうですよ。それはご自分でも御承知でしょうに」
からかうような言葉と共に目が細められる。雪蘭は肯定しなかったことを後悔しながら困惑した笑みを浮かべる。
「わざわざ二人して鏡の前に並んだりはしませんから……確かにまわりの者にはそう云われておりましたが」
言葉を重ねるほどに不安が増す。不安が増せば云い繕うような言葉が滑りでる。悪循環だった。
嫌な汗を背中に感じつつ、顔を背けるわけにもいかない。
顔を強張らせる雪蘭をひとしきり横目で検分した後、明柊はにやりと口の端を歪めた。
「よく似ておられるが、まるで似ておられない――雪蘭殿のほうがより愛らしいが、俺には可愛いだけの方では物足りない」
茶化しているようにしか聞こえないが、雪蘭を見つめる目にはこれまでに見覚えのない光があった。
雪蘭はいつの間にか掛物をきつく握りしめていた。いやに口内が乾くが、成す術がない。
逃げ出したい衝動を堪えた末、ようやく逃げ道を見出した。
「それで雪蘭が知っていたとして、どうだとおっしゃるのです」
できるだけ冷静に、そして乾いた声で話を本筋に戻す。雪蘭の考えが当たっていれば、こちらの方がよほど危険は少ない話題のはずだった。
明らかに意図的な話題転換に、明柊は低く笑った。楽しげですらあり、それまでの空気はあっさり払拭されてしまった。
「ご存知かどうかは問うまい――雪蘭殿は碧柊と共に砦から逃げ延びた。どうやら彼等は西葉へ逃れたようです。岑州へ続く峠を越えてね」
「……そうですか」
雪蘭は無表情で呟いた。問われるまでもない。もちろん承知している。
ただ、これほどあっさり明柊が彼女にそのことを明かすとは思っていなかった。これまでいくら問うても青蘭が絡むこととなると、彼は言を左右してはぐらかすばかりだった。
どんな意図があるのか。知らず身構えそうになり、そんな自分をなんとか堪える。
「雪蘭殿の養家は岑家でしたね」
「ええ」
隠すまでもないことに、雪蘭は小さく頷く。
彼はなにを話そうとしているのか。明柊であれば岑家の持つ力もある程度は把握しているだろう。
噂の出どころがどこか。考えるまでもない。そしてそれを知らせたのは誰なのか。
明柊は肘をついて体を起こすと、そのまま雪蘭の方へ身を寄せてきた。雪蘭はとっさに逃げ出しそうになったが、辛うじて踏みとどまる。
掛け布を握りしめる手に力がこもる。細かな震えを抑えきれない。初夜に彼を間近に感じた時よりも、その恐れはさらに強くなっていた。
夜着に包まれた彼の体はゆったりと寝そべっていても、雪蘭よりはるかに大きく逞しい。
彼が近寄る度に寝台が揺れる。透かし窓から忍び込む初秋の風に焔が揺れ、陰影までが震える。
照らし出されるのは室内だけではない。凍りついたように無表情で夫となったはずの青年を見つめる雪蘭と、その顔をのぞきこむように身を寄せる明柊の姿も明らかになる。
灯火の揺らめきと共に整った彼の顔にさす陰影も微妙に揺らめく。
彼もまた無表情だった。
抱きすくめることができるほどそばまで寄ると、そっと片方の手でかたく握りしめた拳を包み、もう一方の手でゆるく結わえられた髪をほどく。
雪蘭の頭の下に手をさしいれ、指先で髪を梳くように敷布の上にゆっくりと広げていく。艶やかなしなやかな黒髪が白い顔を綺麗に縁取ると、一筋の髪をすくい取り、まるで口づけるように唇を寄せた。
「――出所は碧柊でしょう。けれど、噂には彼では知りえないことも混じっている。ではいったいどなたの口からもれたのでしょうね」
包み込むような優しげな笑みを浮かべて囁くと、その髪に口づける。
武骨な手に包まれた雪蘭の手がびくりと震える。それを確かめた彼は得たりと微笑むと顔を強張らせる雪蘭の額に唇を落とし、そのまま身を引いた。
「良い夢を、わが君」
やわらかく細められた目に、雪蘭は言葉を返すことができなかった。




