第8章 偽り 6
碧柊は居間の長椅子に腰かけ書簡に目を通していた。
中天からの陽ざしに窓際の席は明るく照らされる。開け放たれた窓から吹き込む風は心地よい。
そろそろ昼食の時刻だ。
神殿へ出向いていたはずの青蘭が、いつ戻ったものか姿を現した。
「綾罧殿からですか?」
背後からのぞきこむような真似こそしないが、興味津々なようすで長椅子のかたわらで足を止める。
無表情で読みふけっていた碧柊は、一瞬反応が遅れる。人の気配には気付いていたが、それが誰なのかまでは注意を払っていなかった。
無愛想なようすで振りむきもせず横目で一瞥したが、それが誰であるか分かるととたんに口の端に笑みを浮かべた。
「いつ戻られた?」
問いかけながら隣に座るよう促す。青蘭は素直に応じる。
「つい先ほど。部屋で衣をあらためてきたところです」
碧柊は云われてようやく気付く。彼女の出で立ちは参拝者のものではなかった。上質だが地味な色合いの繻子の室内着だった。
「お読みになるか?」
「いいのですか?」
目線を上げて反問する彼女の膝の上に書簡が置かれる。青蘭はそれを手にとると、じきに唇を引き結んで読むことに集中した。
東葉で婚礼が行われる数日前、碧柊のもとにもたらされた報せは綾罧自身からのものだった。あの状況でどうやって助かったのか。短い文面にはそれに触れる文章はなかった。ただ綾罧自身の無事と今後の指示を仰ぐ内容だった。
東葉東宮に仕える覗見は、碧柊自身が統括する諜報活動組織である。
苓州の森を抜けた直後に立ち寄った宿場町で、碧柊はなんとか彼らとの接触をはかっていた。すでに明柊に干渉されている恐れもあったが、正式に廃位されない限り彼等は東宮に忠実に仕える。
宿場町では痕跡を残すにとどまったが、その手がかりと峠の関での騒動をたどって彼等は岑家で療養していた主にたどりついた。碧柊が意識を回復してからは、岑家の組織網と連携するようになったため精度も上がった。
綾罧の書簡をもたらした覗見によると、彼は嶄州に戻っているという。
碧柊に連座する形で嶄家は処罰を受けることになったが、国内の混乱の収集と対西葉戦の準備のためまだ保留されているという。
当主であった綾罧の父は蒼杞に処刑された。それに続き綾罧まで一時行方不明となり、さらに一族そのものが処罰されるため、その血に連なる者は拘束されているらしい。
それでもその身柄は未だに嶄州内にあり、長くその地で根を張ってきた一族でもあるため、領民とのつながりは深い。綾罧が姿を隠すことは容易だった。
一族の粛清が決まれば、すぐに反撃に出られるように準備は整っているという。
一連の争乱の真相が明らかになれば、東葉内部から揺さぶりをかけることは容易だろう。綾罧は国内にとどまってそのための工作に尽力することになった。
さきほど碧柊が読んでいたそれは、その経過を報告し同時に次の指示を仰ぐものだった。
東葉の国内事情に暗い青蘭にはその半分も理解できなかったが、彼のようすから察するになんとかことは運びつつあるのだろう。
「ひとまず順調なのですね? 」
確認するように問われ、碧柊は小さく頷いた。青蘭はほっと息を吐く。こういうことは得手ではない。彼が首肯するのであればそういうことなのだろうと思うほかない。
書簡を返すとやわらかな長椅子に身を預ける。高い窓の向こうに山襞に切り取られた青空が見えた。
「――そういえば、今さらなのですが」
「ん?」
急に眉をひそめた王女に、碧柊は書簡を畳む手を止める。
「あの峠の関でのこと、あれで明柊殿が私たちが西葉に逃れたと気づく恐れは――」
「ああ、とっくに承知しておろうな」
あっさり肯定され、青蘭は顔をしかめる。碧柊はまったく気にもしていないようだった。
「呑気にしておられる場合ですか」
「呑気になどしておらぬ。ちゃんと手は打っておる。あれの当面の敵は隣国翼波と蒼杞殿だ。この争乱に乗じようとしておるのだろう、翼波の動きが活発化しているという報告もある。明柊もとうにそんなことは掴んでおろう。その前に蒼杞殿を討つつもりなのだろう。状況は蒼杞殿に不利であろうな。それと比しても、吾は身一つで西葉に逃げ込んだ逃亡者に過ぎぬ。率いる手勢もない。吾に手を貸したのが“雪蘭殿”だということもわかっておろうが、あなたがあくまで“雪蘭殿”である限りは問題にならぬ。今のところは放っておいてもかわないと考えておるのだろう」
西葉国内の反蒼杞の動きは明柊をますます有利にする。嵜州公里桂と李州公桂貴を中心とする反蒼杞勢の動向もすでに掴んでいるかもしれないが、それを妨害する意味もまたない。
問題はここにいるのが本物の青蘭姫だと明らかになった後だ。
今は無力な碧柊を泳がせているだろうが、すべてを明らかにしたのちは命もねらってくる可能性もある。青蘭との間に王女が生まれれば、その子こそが名実ともに正統な“葉”の後継者となる。
碧柊は自分が聖地にいることもすでに知られているものと考えている。居場所さえ分かっていれば命はいつでも狙える。すでに厳重な警戒態勢がととのっているが、青蘭は気付いていない。
「呑気なのはあなたであろう、今頃なにをおっしゃるやら」
感心したように云われて、青蘭は赤面して反論しようとしたが結局口をつぐむこととなった。