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まだ見ぬ君に  作者: 苳子
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第8章 偽り 5

 夜更け近くに扉が叩かれた。

 ごく控えめなそれは、熟睡しておれば気付くのが難しいほど遠慮がちだった。だが、しばしの間をおいて扉の向こうから応えがあった。


「――どなた?」


 侍女はすでに下がらせてあるのだろう。直接本人が対応に出た。


「吾だ」


 落ち着いた声で返すと、じきに鍵をあける音がして扉が細く開かれた。


「何用ですか?」


 低い響きに不機嫌を感じとり、碧柊は細い隙間に指をかけ閉められないようにする。

 声ははっきりと響いた。眠っていたところを起こされたわけではないらしい。夕食後ひととき語らった後に寝室に引き上げる際には、普段通りの落ち着いた様子だった。

 それからすでに数刻はたっている。まんじりともせず眠れずにいたのだろう。


「やはり寝つけなかったようだな」

「……それがなにか?」


 冷やかな物言いは刺々しい。碧柊はその響きを懐かしく感じる自分をおかしく思いつつ、つられたりはしなかった。

 扉の向こう側は暗い。碧柊の手元の角灯の明りに白い夜着の足元だけが浮かび上がる。


「眠れぬなら付き合わぬか?」


 扉を抑える腕の脇に小振りの瓶が挟まれていた。光源の乏しい視界にも揺れる液体が何であるかは一目で知れる。


「……ご遠慮申し上げておきます。私、弱いようですから」

「無理にこれを呑む必要はない。ただ吾が一人で呑んでいてもつまらぬのでな、あなたはもっと口当たりよくさほど強くない果実酒か、茶ででも付き合っていただけぬかな?」 


 顔や仕草は見えなくても躊躇っている気配は伝わってくる。

 今日は東葉で明柊と雪蘭の婚儀が行われた。この時刻であれば床入りはとうに終わっているだろう。自分の代わりに敵の手中に残った雪蘭がやがてこの夜を迎えると分かっていても、いざその当夜となれば心安く眠れるはずもないだろう。


「今夜は一人で過ごします――お相手は明晩にでも」

「吾は今つきあっていただきたいのだが」

「けれど」


 云い募るのにかまわず強引に扉を開けば、把手とってを握って抗おうとしていた部屋の主が勢い余って転がり出てくる。

 その体を受け止めたついでに抱きしめれば、渾身の力で抗われた。あっさり解放してやれば、拍子抜けしたような顔で碧柊を見上げた。


「嫌だと云いながら積極的だな」


 口の端を歪めると、それまで精彩を欠いていた青蘭の顔が赤く染まる。


「……碧柊殿」


 名を呼ぶ声は怒りで低く響く。詰りたい衝動を堪えているのだろう。その分の怒りにこもった眼で睨みつけられ、碧柊は微笑む。


「どうせ眠れぬのだろう。ならば付き合え」

「けれど」

「その方が泣かずにすむのではないか。吾は泣いて良いとは云わぬ」


 鋭く見据える瞳は赤く充血しているが、腫れてはいない。一人でじっと涙をこらえていたのだろう。その目元を乱暴に拭ってやれば、青蘭は困ったように眉をひそめてその手を払いのけた。


「……承知しました――けれど私の部屋は駄目です」

「ならば吾の寝所にくるか? 歓迎するぞ」

「ご遠慮申し上げます――宿の食堂に致しましょう」


 衣を整えますと云っていったん部屋に下がろうとする。その腕を咄嗟に捕えて碧柊は囁いた。


「何を今さら。すでに幾晩を共に一つ部屋で過ごしたと――」


 からかうような笑みを浮かべて艶っぽい声で耳打ちしていたが、じきに顔をしかめた。


「けじめはつけますと申し上げたはずです」


 青蘭はありったけの力で性質たちの悪い男の足を踏みつけ、次いでその鼻先に扉を叩きつけた。

 乱暴に閉ざされた扉に碧柊は肩をすくめて苦笑する。しばし笑った後で扉の脇の壁にもたれかかり、小さく息を吐いた。

 ここでまだ怒ることができるということは、そこまで追い詰められてはいないのだろう。


 

   

 宿は貴族向けに作られているため、逃亡中に利用したものとは比べものにならないほど豪華な設えになっている。

 食堂の続きの間は宿泊者共通の居間になっている。今、この宿は里桂が借り上げているため他に宿泊客はいない。宿の者たちは青蘭達の本当の身分を知らないが、彼等は職域を守り無用な関心は示さない。

 やわらかな長椅子に並んで腰かけたが、青蘭は碧柊と少し距離をあけた。その意識的な距離を彼も感じとったが、そのままにしておいた。 

 二人が階下に姿を現して間もなくして、用向きを問われることもなく卓の上に二人分の杯と玻璃の瓶が運ばれてきた。碧柊があらかじめ云いつけておいたものだった。それを悟った青蘭が苦笑を浮かべる。最初から彼は彼女をここへ連れてくる心づもりだったのだ。

 碧柊は自分が持っていた瓶をいったんおくと、まずは先に青蘭の杯を満たした。そのまま無造作に自分の分にはここまで携えてきたものを注ぐ。

 つんと鼻につく香りからして、その酒精の強さの違いは明らかだった。


「酒とは云えぬ、ほぼ果汁だ」

「……ご配慮ありがとうございます」

「また二日酔いで八つ当たりされてはかなわぬからな」

「……」


 青蘭はむっと眉をひそめたが、前科があるので反論できなかった。

 二日酔いの記憶はまだ生々しい。またあんな目に遭うのは避けたい。


「二日酔いになるのはごめんです――ですから、もうそのようなことはいたしません」


 ばつの悪さに少々を頬を赤らめながら呟く。

 光源は卓の端に置かれた角灯のみ。窓掛けは開けられており、その向こうには狭い谷間に伸びる門前の町並みを見下ろせる。聖地の朝は早いため、多くの人々はすでに横になっているだろう。闇に沈む家並みに点る灯りは疎らだった。

 実感のこもった彼女の呟きに、碧柊は小さく笑った。青蘭もはにかんだ笑みを浮かべ、そっと杯に口をつけた。

 二人はしばらく無言で杯を傾けた。

 云われなければ分からぬほどの酒精がまわり、体がほのかに温まる。青蘭はようやく肩の力を抜くことができた。


「――碧柊殿」

「ん?」

「あなたにとって明柊殿とは……どういう方だったのですか?」


 考え深い眼をして、青蘭は静かに問いかけた。

 まっすぐに見つめてくる瞳を穏やかに見つめ返し、碧柊は酒を一口含む。さて、と考えこむような仕草をし、やがて苦く笑った。


「――はた迷惑な従兄殿だ」

「……真面目にお訊ねしているのですけれど」


 青蘭は彼の真意をはかり損ねたように首をかしげる。言葉に困惑を感じとり、碧柊は笑みを深め遠い眼をした。


「……真面目に答えておる」


 声は低く静かに響き、その面は穏やかだった。

 青蘭はしばらくじっと彼の横顔を見つめていたが、その静かな笑みから真意を読み取ることは難かった。

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