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まだ見ぬ君に  作者: 苳子
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第8章 偽り 4

 新しい寝所は新たに用意されていた。

 後宮は実質的に王権を継承する女王を閉じ込める籠でもある。明柊はそのようなところは相応しくないとして、王城内の歴代の“王”が使用してきた居住区域を急遽改装させた。

 ここまで雪蘭の手をとり導いたのは香露だった。雪蘭の細い手をただその掌に受けるだけだったが、最後にその手を強く握った。雪蘭が応じる前に手を放し、恭しく一礼する。そして顔を上げるとまっすぐに雪蘭と見つめ合った。

 気色をうかがうような心配顔に、雪蘭は薄く微笑む。

 閨房のことは青蘭と共に一通り心得ている。経験はないため緊張はしているが、不安なわけではない。覚悟はとうに決まっている。

 香露はただ瞼を伏せ、次に彼女のために静かにその扉を開けた。

 雪蘭は躊躇うことなく扉を潜る。その背後で音もなく扉が閉ざされる。

 寝室には嗅いだ覚えのある香が焚かれている。緊張をとく効果のあるそれは、直接眠気をもたらすものではない。

 雪蘭はそれを深々と吸い込んだ。

 寝台は衝立の奥にある。部屋の四隅に玻璃の火屋をかぶせられた灯りが揺れている。かすかに揺れる燈火に落ちる影も震える。

 雪蘭は落ち着いた足取りで、衝立の脇から部屋の中央へ歩み寄る。

 紗の蔽いのかかった寝台は、後宮の塔にあったものよりも大きい。

 あたたかな光を受ける寝所のどこにも人影はなかった。

 雪蘭はそこで足を止め、思わずほっと息をつく。次いでそんな自分に今さらながら気づいて苦笑した。

 宴を一緒に退出したわけではない。雪蘭の方が先だった。支度に時間がかかったためてっきり先に花婿が閨入りしていると思っていたが、彼は彼で色々とあるのだろう。

 雪蘭は羽織っていた薄物を肩から落とし、手近にあった椅子の背にかける。開放感はないが風通しはいいらしい。未だに昼間の熱の名残はあるが、汗ばむほどではない。心地よい風が時折わたっていく。

 雪蘭は先に寝台に横になった。

 胸元まで寝具で覆い、様々な紋様で彩られた寝台の天蓋を見つめる。子孫繁栄を願う縁起をかついだそれらに、皮肉な笑みが浮かぶ。

 雪蘭がもし身ごもることがあったとしても、その子は決して王族ではない。それを明柊が知ったときにどう出るか。そもそもそこまで自分が無事でいられる保証はない。

 目を閉ざし、息を吐く。

 あとは青蘭側の態勢が整うを待つのみ。青蘭の即位にも婚儀にも立ち会えないのは残念だが、その力になれるのだからそれはそれで良いとする。

 花婿はいっこうに姿を現さない。

 乳母子や部下たちにつかまっているのかもしれない。覗見の報告では彼は配下から信頼され人望も厚いという。彼等は事の真相を知らないのだろうか。少なくとも乳母子の苓秦旗れいしんきは知っているだろう。

 ことが露見した時、彼等はどうするのだろう。それでも彼に従うだろうか。

 雪蘭は横を向き、再び息を吐く。

 横で誰かが眠るとき、それは必ず青蘭だった。幼い頃は頻繁にどちらの寝台に潜り込んだものだった。長じてからも時々お喋りが過ぎて夜が更けてしまえば共に眠ることもあった。

 最後のそれは王都六華ろっかの王城を出る前夜だった。語り明かそうと誘ったのは雪蘭だった。青蘭も笑顔で肯いたが、結局ぽつりぽつりとしか話せなかった。それでも夜明け近くまで続き。ついに雪蘭は聞き慣れた従妹の寝息を耳にすることはなかった。

 これから先は隣に眠るのは明柊であるはずだ。それは幾晩続くことになるのだろう。

 閨房の心得は青蘭と共に一通り教示を受けているため心配はない。婚儀が決まった時点で初夜の覚悟もできている。

 雪蘭が恐れているのはそういうことではなかった。

 これから毎夜閨を共にするということは、あの眼差しをこれまでになく長時間意識しなければならないということだ。まるで見透かされたような心地になってしまうあの眼差しに。

 偽っていることに罪悪感はない。それでも青蘭本人ではない以上、偽りの王女であることを意識しないではいられない。

 本当に彼は気付いていないのだろうか。

 もし、そうであれば雪蘭が今ここでこうしていられるわけがない。それが分かっていながらも、その不安はぬぐいきれない。

 それとも、薄々気づいているだけなのか。

 それとも、何かしら意図があってあえて泳がせているのだろうか。

 それとも、本当に勘付いてもいないのだろうか。

 眠気はいっこうに忍び寄ってこない。雪蘭は三度小さく息を吐いた。


「おやおや、花嫁が初夜の床で溜息ですか」


 突然背後から囁かれ、雪蘭はびくりと体を大きく震わせた。


「――め、明柊殿……」


 驚きのあまり息をつめ、肩越しに振り返る。すぐそこに端正な顔があった。息がかかるほどの距離。ほのかな灯りに探るような眼差しで楽しげに花嫁を見つめる花婿の姿が明らかになる。


「あなたでも驚いた時はそれらしい顔をなさるらしい」

「と、当然でしょう――足音を忍ばせて近付くなど、趣味が悪いにもほどがあります」

「おや、心外な云われようですね。これでもてっきり花嫁が眠っておられるのだと思ってご遠慮申し上げたのですが」


 いかにも哀しげに語るのだが、どうしても嘘くさく聞こえるのは彼の演技力不足なのか、それとも人徳のなせるわざか。

 雪蘭は冷ややかに微笑み、そっと近すぎる体を押しのけようとした。


「それはありがとうございます。けれど眠っておりませんでしたから」

「そのようですね――手間が省けました」


 一転して華やかな笑みを浮かべると、自分を押しやろうと肩にかけられた細い手首をつかんだ。

 ほぼ同時にもう一方の手もつかみ、寝台に縫いつけるように押しつける。乱暴ともいえる仕草だった。雪蘭はとっさに驚いたが、じきに気持ちを立て直した。とうに覚悟していたことだった。

 のしかかるように上体にかぶさってきた明柊は、眼を大きく見開きたじろぐ様子もない花嫁に唇を歪める。


「そのように睨み殺すように眼を開いているものではありませんよ」

「睨みつけてなどおりませんが」

「それでは緊張なさっておられるのですね――可愛らしいお方だ」


 小さく笑い、そっと耳元に唇を寄せる。

 耳朶に息がかかり、雪蘭はぎゅっと目をつぶって顔をそむけた。まだなにもはじまってもいないというのに体がこわばる。

 生温かく湿った感触が耳朶を執拗に這い、やがて首筋へとうつっていく。思わずのしかかってくる体をおしやりたくなるが、手首は両方とも掴まれたままだった。


「――」


 雪蘭は唇を引き結び、不愉快な感触にひらすら耐えていた。

 じきにふっとその感触が消失し、ほぼ同時に体も解放される。

 怪訝に思いながらゆっくりと目を開けば、ゆったりと皮肉な笑みを浮かべた男と目があった。


「肌が粟だっていますよ。俺はそうとう嫌われているらしい。身の毛もよだつという顔の女性を無理にどうこうする趣味はないでね、今夜はこのくらいにしておきましょう」

「……けれど」


 身を起し異議を唱えようとした唇を指先が押さえる。


「ひどくほっとした顔をしておいでだ。嘘を吐くならもっとそれらしい顔をなさるべきだ」


 雪蘭はさっと顔を赤らめて恥じ入った。

 明柊はそんな彼女にかまわずさっさと反対側にまわると寝台に上がり横になった。寝具を引き上げるとくるりと花嫁に背を向けてしまう。

 置いていかれた雪蘭は、身を起こしたまま戸惑い顔で後姿を見つめる。広い寝台でその背中はひどく遠かった。   


「早くお休みなさい。明日も予定が詰まっておりますからね」

「――はい」


 おとなしく頷くほかなかった。 

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