第2章 砦 1
目が覚めてみれば、あたりはすっかり暗闇に包まれていた。
横になり、眠っていたらしい。寝具はこれまでに使ったことがないほど粗末なもので、かすかに黴臭い。敷布団も薄いものらしく、寝返りを打とうとしただけで体中がきしんだ。
少なくとも室内にいることは確からしい。風の吹き抜ける音がする。それにつられて見上げれば、高いところの窓が開いていた。その向こうに半月が見える。窓に格子ははまっていない。
ゆっくりと起き上がる。あえかな月明かりに次第に目が慣れてくる。
そこは石造りの一室で、簡素な作りの机と椅子、それに寝台が設えてあるだけだった。寝台のそばにも小さな円卓が置かれ、その上に見覚えのある衣類が畳んであった。
視界に寝台がうつるということは、確かめてみるまでもなく床に直接寝かされていた。敷いているものは薄く、これでは体中が悲鳴をあげても仕方ない。
ゆっくり起き上がれば、思わず呻いてしまう。
「ここは……?」
上半身を起こし、暗がりを透かして手がかりを探す。それと同時にゆっくりと記憶が蘇る。
昨夜からの一連の出来事を思い返す。夕暮れの思いがけない邂逅。それからの長い夜。そして夜明けに守備隊と合流し、砦に向かったはずだった。記憶はそこで途切れている。ということは、そのまま馬上で眠ってしまったのだろう。
どれくらいの間、その状態が続いたのか知りようはないが、王太子にひどく迷惑をかけてしまったことだけは確実だろう。結局、今の今まで熟睡していたわけだから、自分の図太さには呆れてしまう。
こうして目覚めた場所は、砦の一室なのだろう。それにしても、何故、床で眠らされていたのか。空いた寝台があるのにそれを使わせてもらえなかったということは、そこには別の主がいるということになる。
誰も青蘭の正体を知らずとも、王太子と近衛に限れば彼女が女性であると承知している。女官に過ぎないとはいえ、女性を床に転がしておくなどどういう了見なのか。
抗議したくとも誰もいない。仕方なく起き上がる。
さっさと延べられた寝具をたたみ、思案した末に寝台の下の隙間に押し込む。調べてみれば掃除は行き届いているようで、寝台の下にも埃一つなかった。
小卓の上の外套は、青蘭に支給されたものだった。砦内でこれがいるかどうか分からないが、とりあえず羽織って身支度を整える。
一連の動作を手早くすませ、青蘭は小さく息をつく。
うろたえる前に出来ることをすませてしまえるのは、雪蘭のおかげだ。
はじめて毒殺されかけたのは、一〇歳の時。
十日近く生死の境をさまよった末に命は取り留めたものの、すっかり快復するには半年ほどかかった。
青蘭に毒をもったのは傍仕えの女官で、毒見のすんだ食事に巧みに毒を仕込ませた。彼女は引責という形で自害した。ことを怪しんだ雪蘭が亡き父の知己を通して調べた結果、彼女には兄の息がかかっていたことが判明した。
兄蒼杞はその頃、従妹との婚約がととのったばかりだった。青蘭より数か月遅く生まれた従妹も直系王族で、青蘭に次ぐ王位継承権保持者だ。その当時、兄は一三歳。
暗殺未遂は彼自身の意図によるものか、それとも近しい何者かが仕組んだものなのか。
青蘭の不調は表向き食当たりとされ、調査などいっさいされなかった。この先も真相が明らかにされることはないだろうし、青蘭も兄の真意など知りたくもない。
ようやく快復した青蘭に、雪蘭は入替りをそそのかした。
それは最初のうちは周囲のものたちをからかう意図で、一種の遊びとしてはじまった。
誰も気づかないことがおかしく、また、それまで知らなかった解放感を味わうことができた。新しい遊戯を青蘭がいたく気に入ったとわかると、雪蘭は本格的な替え玉を提案した。思いがけず女官としての生活を知る機会を得た青蘭は、素直にそれを楽しんでいた。
雪蘭の本当の意図を察したのは、入れ替わっているときに彼女が倒れた時だった。
いつも使っている香に、無臭の毒物が混入していた。その時雪蘭にふんしていた青蘭は室内におらず、香炉のもっとも近くにいた一人の女官が落命した。素早く異常を察した雪蘭の機転でそれ以上の被害者を出さずにすんだが、雪蘭自身も数日寝込んだ。
そのような事態に至ってはじめて、青蘭はようやく理解した。従姉の、この己の命を危険にさらすような真似を、青蘭は強く詰った。けれど、同時にその意味をすでに理解してもいた。
兄の冷酷な人となりにまつわる逸話は、いくつも耳に届いていた。青蘭になにかあれば、王位は兄にわたる。彼がよい為政者になるとは考えられなかった。優れていなくともいいが、殺人鬼に大権を与えるわけにはいかない。
閉ざされた奥の宮に育ったとはいえ、青蘭はその向こうに広がる世界に無知だったわけではない。雪蘭を通して様々なことを知っていた。
そのおかげでこのような事態に巻き込まれても、とりあえず落ち着いていられる。
俯くと髪がこぼれかかってくる。まとめておいたはずの髪が、解かれている。誰かがほどいてくれたのか、それとも眠っているうちに解けたのか。髪をまとめるにも適当なものがない。仕方なく耳にかける。
ついでに頭巾を目深にかぶり、扉を押してみる。鍵はかかっていない。閉じ込められているわけではないらしい。それだけ確認すると、今度は椅子を踏み台にして窓から外をのぞいてみた。もう少し上背があれば十分のぞけるのだが、青蘭には空しか見えない。
高い塔の一室だとわかった。山の背をのぞむ森のなかに設けられた砦には、いくつも尖塔がある。ここはそのうちの一つで、のぞいている風景がどちらの方角なのかは分からない。
かそけき月明かりを受ける世界は青い闇に沈み、地形を見分けることは難しい。人の営みを思わせる灯りは見当たらない。
記憶の地図を頼れば、苓南の砦は、山の背と呼ばれる葉を東西に分ける長大な山脈にいくつかある山越え道を見張るために設けられたものだ。築城は葉が分裂してからで、詳細な情報はない。
夜が明けなければ、確かな手掛かりは得られそうにない。
青蘭は椅子からおりると、そのまま腰かけた。
女官にすぎないとはいえ、青蘭の騙った雪蘭は西葉の王族の血縁だ。両国の婚姻は未然に終わり、東葉の王を手にかけたのはおそらく西葉の刺客。それを承知で監禁しておかないというのは、どういう了見なのか。
たかが女官と侮られているのか。それはありえないだろう。あの王太子がそこまでお人よしとは思えない。
王城は落ちたとはいえ、ここはまだ王太子にとっては味方の砦。だが、守備隊と合流した時、彼は青蘭に身分を隠すように指図した。事態が見極められるまでは、何事も隠しておいた方がいいという判断なのだろうか。
ということは、青蘭自身も実は西葉王女だということを明かすのも、よくよく思案した方が良いのだろう。
「動きづらい」
声にせず、小さく呟く。そうすることで、こみあげてくるどうしようもない不安を誤魔化す。
王太子はどこへ行ったのか。この部屋から出ていいのか、じっとしているべきなのか。下手にうろうろすれば、近衛以外の砦の守備兵にいらぬ疑念を抱かせる恐れもある。
そういえば、ここは男所帯なのだ。そこに女性が一人まぎれこんでいれば、どういうことになるか。考えが及ばないわけではない。ただ、実感が伴わない。男性とほとんど接することなかった奥の宮育ちでは、どうしようもない。
そこでようやく、何故、王太子が青蘭に男の振りをし続けるよう促したのか分かったような気がした。
「――気をつけなければ」
知識だけでは用心の及ばない部分がある。ましてや女のみの閉ざされた世界育ちの青蘭にとって、男ばかりの軍の暮らしなど想像もつかない。なるべく目立たないようにしておくにこしたことはないのだろう。
机に突っ伏す。また眠気がとろとろと忍び寄ってくる。それに身を任そうかと迷っていると、ごくごく控えめに扉が叩かれた。