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まだ見ぬ君に  作者: 苳子
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第8章 偽り 2

 支度は夜明け前からはじまった。

 あれからしばらくうとうとと横になっただけで、準備にかからなければならない時間になってしまった。遠慮がちに香露こうろが寝室の扉を叩いた時には、すでに雪蘭は起きだしていた。

 寝室につながるもう一方の扉の向こうで、もっと早いうちから女官たちが立ち働く気配は伝わってきていた。彼女らのたてる物音が大きかったわけではない。あのくらいで目を覚ますものはほとんどいないだろう。ただ、雪蘭はあたりの空気に気を配り、常に慎重であることが長く身につきすぎた。誰のせいでもない。

 返答を待たずに間をおいて入室した香露は、寝台に腰かけまだ薄暗い外を見つめる主の姿を見つけた。しゃんとのばされた背筋、寝乱れた様子もない後ろ姿、背を蔽い隠す髪は薄暗い室内にもかかわらずその見事さを見てとれる。

 静かに歩み寄り、恭しく朝の一礼をすると応じるようにかすかに頭が動く。


「お休みになれましたか?」


 すでに白い素足が寝台から降ろされていた。香露は膝を折り、それに室内履きを履かせながら、さりげなく顔色をうかがい見る。

 昨夜はどことなく物憂げな雰囲気を漂わせていた。白くくすみのないおもてには短い睡眠の疲労の名残もなく、穏やかさに満ちている。

 “青蘭姫”が自ら望んだ婚礼ではない。そのため準備の間も雪蘭は花嫁らしい態度を一つも見せなかった。ただ唯々諾々と従い、乗り気でもなければ反発してみせるわけでもなく。云われるままに動く人形と変わりなかった。

 自分でもおかしいと思うのは、王女の正体を知る香露たちをのぞけば、その仮面が剥がれるのが夫となる明柊の前だけだということだった。彼はそんな雪蘭に気を悪くするどころか、むしろ気に入っているらしい。彼の気を引いておくにこしたことはない。

 これまでにも男の気を引く必要性を考慮しなかったわけではない。だが、奥の宮に青蘭付きの女官としてこもっている限りは実践の機会はなかった。

 正直にいえば、明柊に関してもうまくいっているとは言い難い。それと同時に、彼に並みの手練手管が通用するのかという疑念もある。異性と云えば親しい肉親と覗見かきまみしか知らない雪蘭は、特にこのことに関しては自信が持てずにいた。


「ええ」


 香露の問いに短く応じ、うっすらと微笑む。

 狭霰さえいをのぞけば、他の女官たちはここにいる王女が本物だと思いこんでいる。日頃から顔を隠し香露と狭霰以外のものを遠ざけてきた結果だ。

 輿入れの際、青蘭と雪蘭は諮って女官をほぼ入れ替えた。古参の者は香露と狭霰のみ。

 念には念を入れての処置だったが、輿入れの旅の途中にも二人は何度か入れ替わっている。だが疑念を抱いたものは一人もいないようだった。双生児でもないのにそれほど自分たちは似ているのだろうかと思えば、おかしくなってくる。問題は相似性よりもらしさだと承知しているが、やはり不可解な気はするのだった。

 香水をたらした水で洗顔をすませると、本格的に支度がはじまる。

 雪蘭のすることはただなされるままに座っていることだが、姿勢を崩すわけにもいかず、これはこれで気の疲れるものだった。

 香露は女官長として全体の進行具合を管理しながら、雪蘭への気配りも忘れなかった。朝食を摂る暇のなかった花嫁のために、一口ですませられる軽食を合間に勧める。気分を安らげる香草茶も常に用意されている。

 およそ百年が経過した結果、両国の間では儀式における手順や礼法に瑣末な違いが生じていた。女官と儀礼官との間でひと悶着の末に軋轢を生じたが、明柊は西葉のやり方を古来のものとして優先させた。

 旧弊を嫌うくせに一方で伝統を重んじるそのやり方を、雪蘭は口こそはさまなかったが面白いと思っていた。

 軍事的敗北の末、その代償として差し出された王女は戦争奴隷と変わりはしない。そんな境遇の姫に仕える女官たちのささやかな矜持は、西葉こそが葉の本国であり正統であると云うことに尽きる。本来的にそれは正しいことでもあるため、東葉側も強く否定はできない。

 感情をむき出しにして正統性と伝統を固持しようとする西葉出身の女官たちと、戦場以外での争いには及び腰な東葉の文官との口論で、東葉に勝ち目があるはずもない。

 もぎとったところで大して意味のない勝利など、気前よく女に譲ればよい。それで双方共に丸くおさまり、なおかつ女官たちのささやかな自尊心が満足させられるのならば、それこそ意味のある敗北ともいえる。

 彼があえて折れてみせた理由は、そんなところではないだろうか。

 東葉と西葉の違いとは言っても、肝心な場面で左を向くか右を向くかと云うようなものではなく、儀式の折々に右足で立つか左足で立つかと云う程度のものでしかない。

 雪蘭自身も意味のないことだと思いながら、東葉の田舎ぶり野蛮さを口汚く罵る女官たちを曖昧な微笑で見守っていた。

 細かな礼法の違いまで言い立てていけば、本当に正しい方法など実際はかなり微妙なものだ。

 ある家のしきたりが、そのまま他家でも通用するというものではない。貴族たちはそれぞれにそれなりの歴史を誇る。それに基づき作法にも違いがある。就寝時には左を向くか右を向くかで口論になったことさえある。西葉貴族出身の女官同志の間でのことである。

 いざ、夫婦の間で生活における違いが生じれば、結局は女の方が折れることになる。その方が結局は話も早い。折れたからと云って、そのまま言いなりになるわけではない。表向きは夫の言うことにうんうんと頷いておいて、実際には自分のやり方を定着させてしまえばいい。しょせん、家庭を仕切るのは女なのだから。

 それが分からない彼女たちではないだろうが、それでも瑣末なことで騒ぐのは、そこが結局はよりどころだからなのだろう。東葉くんだりまで都落ちしてしまったという感覚があるらしい。

 無論、無理矢理連れてこられたわけではない。輿入れに従い新たに募った話に自ら応じてきた者ばかりだ。希望すれば誰でも採用されたわけではない。香露や後宮の長たちの面接も通過したものばかりで、それぞれに礼儀作法や教養には自信のある者ばかり。王女の東葉入りがやがては葉の統一につながることを見越したうえで、各々いいつかっている役割もあるだろう。

 不本意ながらの都落ちではなくとも、不満はたまる。そのはけ口としてこんな地の果てまでやってこらざるを得なかった王女への同情は強まる。味方であるはずの女官たちの目まで欺かなくてはならない雪蘭にとって、悪い風向きではなかった。むしろ好都合に違いない。


「青蘭さま、お支度がほぼ整いました」


 まっすぐに鏡にうつる自分を見つめていた雪蘭に、香露がそっと耳打ちする。油断なく身支度の様子を見守っていたようでいて、その実物思いに耽っていたことを見抜くあたりはさすが女官長ともいえる。

 雪蘭は慌てる様子もなく微笑みを浮かべ、「そのようね」と囁き返した。


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