第8章 偽り 1
冴えた月明かりが世界を満たしていた。
蒼い夜の底に、王城が沈んでいる。塔の高層にあるその窓にも、婚礼前夜のざわめきが伝わってくる。
婚礼の主人公は雪蘭でもあるが、身分の高い女性ほど表に出る習慣はないため、こうしてまるで他人事のように眺めていることができる。
“青蘭姫”である雪蘭を、古の例にならって女王として担ぎだそうとしている明柊は、旧弊を破るように何事につけ雪蘭を表に出そうとする。たいていは云われるままにおとなしく従ってきたが、前夜だけは疲労と体調不良を口実に臨席しなかった。
実際、あまり体調は良くなかった。夏風邪程度のもので、気にとめるほどではない。知らず知らず疲労が募っていたのだろう。気を張っているつもりはなかったが、無意識のうちに緊張していたのかもしれない。
しょせん偽りの花嫁であるためか、雪蘭に明日婚礼に臨むという感慨はない。あるのはいかにそつなく式を終えるかと云うことだけだった。
王城はいつになく煌びやかな光に包まれている。夏のはじめ、青蘭と共に入城した夕べに負けずとも劣らない焔が掲げられている。
もし、あの夕べに何事も起こらなければ、雪蘭は花嫁となる青蘭の不安を和らげるべく、いかに言葉を尽くすかに腐心していただろう。二人で肩を揃えてこの灯りを見つめたかもしれない。
雪蘭はほっと息をつく。
それを見越したように、傍らの小卓に茶器が静かに置かれた。
「いかがですか?」
香露が微笑んでいた。
促されるままに茶器を手にすると、ふわりとやわらかな香りに包まれた。気分を安らげ催眠効果もある甘い香気だった。
「まだ夏とはいえ、夜は温かい飲み物の方が良い」
「夜風も涼しくなってまいりましたから」
窓際に椅子を寄せ風に身をさらしていた雪蘭の肩に、香露は薄物をはおらせる。
雪蘭は謝意を示すように浅く首肯し、香草茶を口元へ運ぶ。
この夜。従妹も明日の婚儀を思って眠れずにいるのだろうか。
雪蘭が知り得たことはすべて従妹の王女に伝えられている。明日が婚礼だということも知っているだろう。
岑家を通しての情報のやりとりはひそかに続けられている。そのなかには青蘭の動向も含まれている。嵜州公と会い、聖地で大神官との会見も終わらせ無事に支持を取り付けたという。その内容に雪蘭はわずかに眉をひそめたが、まずは上々と云うよりほかはない。
東葉の国内状況を鑑みれば、いたずらに時間を費やしている猶予はない。
神殿側の王位継承への介入を許したことが、今後にどのような影響を与えるか。それを考えるのは雪蘭の役目ではない。後のことは青蘭に託せばいい。最初から青蘭のためになら捨て石になるのも覚悟して奥の宮に入ったのだ。
ただ、今、この夜に青蘭が泣いていなければいいと思う。雪蘭が願うのはそれだけだった。
「香露ももう下がりなさい。私は休みます」
空になった茶器を手渡し、雪蘭は髪をとく。今日洗ったばかりの髪が肩を流れる。腰まで届くような長く艶やかな髪だった。
盆を手に一礼して部屋を辞す香露の後ろ姿を見届けると、雪蘭はようやく寝台に横になった。
「……父上、私はうまくやれておりますか?」
呟きは夜の静寂にとけ、応えはない。
このために何事も整えてきたのだ。
見届けて欲しかった人はすでに冷たい石の下で長い眠りについている。やりとげたところで褒めてもらえるわけでもなく、そもそも認めてもらいたかったわけでもない。
今となっては動機などどうでもいいことなのかもしれない
おそらく安眠できるはずもないであろう従妹を想う。碧柊との仲は意外なほど睦まじいと聞く。彼女の嘆きを彼ならば癒してくれるかもしれないが、青蘭がそれを良しとしないだろう。
自分の代わりに、そしてこの事態を動かす贄となるために婚礼に臨む雪蘭のために、青蘭は恋人に頼ったりはしないだろう。泣くならば一人で涙をこぼすだろうし、そういう時傍にいられるのは雪蘭だけだ――それももう、そろそろおしまいかもしれないが。
泣かないでと囁きながら、泣いていてほしいとも思う。
この先、二度と大切な従妹と会うことはないだろう。だからこそ、決して彼女が自分のことを忘れられないように、癒えることのない傷として心に深く刻まれればいい。
そのために青蘭に自分の以外の誰も近づけさせなかったのだ。一人でいることに慣れ、孤独の痛みを知らなかった青蘭に、他人の温もりを教えたのは雪蘭だった。一つ年上の従姉に青蘭がべったりと頼りきりになるにまかせた。他のことは注意し改めさせたが、雪蘭への依存だけは気付きつつも放置した。良くない傾向だとわかっていたが、青蘭が自分で気付かないのならばそれはそれでいいと思っていた。一生、そばにいられると思っていたのだ。彼女が嫁ぐにせよ、婿を迎えるにせよ、雪蘭はずっと従妹の傍らにいられるはずだった。だから、それでかまわないと自分に言い聞かせてきた。
「こんなことになると分かっていれば……」
呟いてみたものの、嗤笑が浮かぶ。分かっていたとしても、きっとそうはしなかっただろう。
「やはりこちらでしたか」
屋根と瀟洒な支柱だけの四阿にも、冷涼とした月明かりが満ちていた。
石畳に影を落としながら、一人盃を傾ける男に声をかける。
「ちょうど良い所へ来たな。空になったところだ」
最後の一滴を盃に落とすと、返す手で酒瓶を投げてよこす。苦笑しつつそれを受け取った男の乳母子は、背後から差し出された手に酒瓶をまかせ、四阿に立ち入った。
「初夜に備えてお休みになられる筈だったのでは? 」
「独身最後の夜だからな、月に愛しい人を想いながら一人で呑んでいた」
「――ここで?」
「ここより他に相応しい場所があるか?」
そこは雪蘭も何度か案内された東宮の四阿だった。
男は軽く笑って盃を一息で干す。
新たな酒瓶と共に盃も一つ追加される。それを受け取った乳母子は、まずは乳兄弟の盃を満たしそれから自分の盃にも注ごうとしたが、その寸前で酒瓶を横から奪われる。
「俺に注がせろ」
「では」
抗わずに恭しく両手で盃に受ける。男は溢れかえるぎりぎりで手を止めると、次に自分の盃を手にして共に月に捧げるようにそれを掲げる。
「で、誰を想っておられたのですか? 」
「一人しかおらんだろう――愛しの我が従弟殿しか」
「その妻となるはずだった方を奪っておいてよく仰いますね」
乳母子は一口盃に口をつけると、「旨い」と呟いた。
「旨いだろう。翼波から仕入れたものだ」
「――やはりそうなさるおつもりですか」
「他に手がない。じきに俺の方が不利になる」
苦境を見越しての言葉は飄々と響く。
「その結果、国内がどうなるかは承知しておられるのでしょうね」
「そこまでは俺の与り知ったことではない」
主の無責任な言葉に、彼は深々と溜息をついてみせる。だ、そんなことに痛痒を感じるような主ではないことを、もっとも熟知しているのも彼である。
「愛の試練にしてはいささか厳しすぎるのでは?」
「何事も愛ゆえだ」
「殿下の愛はいささか分かりづらいように思われますが?」
「面と向かって囁いている、それのどこが分かり辛いと?」
不本意極まりないと口の端を歪めるその顔は、そのくせひどく楽しげでもある。
「時には恥じらいも必要です」
「なるほどな、参考にしよう」
「なさる気などさらさらお持ちでないでしょうに」
主の盃が空になっているのを無視して、己の盃を満たす。それで酒瓶はまた空になってしまった。
悪びれもせず、空瓶を押しつける。
「空になってしまいました」
「――追加を」
控えていた男に自ら云いつけ、厭味のように溜息をつく。そんな主におかまいなしに盃を干す男の名は、苓秦旗という。苓家の主にして、明柊の乳母子だった。