第7章 聖地 11
夕暮れが迫っていた。港に人影はほとんどない。繋留された舟が穏やかな波に小さく揺れている。湖面をわたってくる風は涼しい。
青蘭が西葉を発ったのは、春の終わりと夏のはじまりの間のような季節だった。そして夏は次第に深まり、すでに晩夏。春の終わりの西葉の敗戦からは半年近く経つ。
二つの国がこのような状況で秋を迎えようとは、誰に想像できただろう。一人だけは予測可能だったかもしれない。騒乱をしかけたのは蒼杞に違いないが、真の張本人は東葉を救った王子として、すました顔で王権につながる婚姻を結ぼうとしている。偽りの花嫁とも知らず。
すべてが明かされたあと、彼は彼女をどう遇するだろう。それを考えると胸がつまり、思考することすら放棄したくなる。
とっくに覚悟したはずだった。犠牲なしに何事もなりたたない。このまま兄を放置すれば被害者は増えるばかり。
青蘭には妹として、正統な王位継承者として、この事態を糾す責任がある。
戦いは避けられない。決して有利な状況ではない。蒼杞を除くことができたとしても、その後には明柊との戦いも控えている。明柊は碧柊よりも優れた軍事的才能があるという。その上、西葉の各軍は解体されている。それを采配したのは明柊だという。西葉の軍事的能力は把握されていると考えた方がいい。
「如何した、さように暗い面をして」
「――碧柊殿」
ここまで一人で来たわけではない。傍らには常に碧柊がいるし、警護の者もさりげなく二人を遠巻きにしている。
青蘭は衣の裾が地面につかないように気遣いながらしゃがんでいた。簡単にまとめただけ髪を肩から前に流す。こぼれた髪が風になびく。
白い首筋にとどまる視線に、青蘭は気付かない。華奢な体はなにもかも細いが、その首も同様だ。逃亡中に碧柊も痩せたが、彼女も同じだった。行き違いは何度もあり、その度に喧嘩にもなった。だが、その原因が彼女の我儘だったことはない。疲労にも飢えにも痛みにも、彼女は不満を口にしなかった。
傍らに立つ碧柊を見上げる顔は張りつめ、ひどく青ざめている。何を考えていたのか問うまでもない。
彼女はもっと早くに自分の身分を碧柊に明かすべきだった。それで今さら何が変わるわけではないし、あの過程で早い段階で打ち明けられていたとしても同じことだっただろう。早すぎてもまずかったのだ。苓南の砦で周囲にまで発覚していれば明柊が彼女を逃すはずはなく、今と比べものにならないほど碧柊にとっては不利な事態となっていたに違いない。
その後、森を抜けた時点で岑家の意向を受けていた汪永と出会ったが、青蘭の正体には彼の方が先に気づいていたらしい。結局、汪永はそれを肯定しなかったが、明白だった。
それもこれもあの峠の夜に泣いていたように、雪蘭の身を案じる故だった。いよいよ事態が逼迫してくれば、それが再び首をもたげてくるのも仕方がない。
青蘭は自分自身よりも従姉の方が大切だと、価値のある人間だと考えている。それはおそらく刷り込みに近いもので、そう簡単に拭い去ることはできないだろう。その当人との絶対の約束がなければ、彼女は未だに口を閉ざしていたかもしれない。顔の見えぬ人々の平穏よりも、命より大切な従姉を優先したい気持ちを咎めることは、碧柊にはできない。
それでも碧柊はわざわざその心情を汲み取るような真似はしない。青蘭が自分で泣かないと決めたのだ。
「そなたがかような顔で考え沈んでもどうともなるまい。それとも慰めて欲しいか? ならばいくらでも甘やかしてやるぞ」
肩に触れようとする手をそっと拒み、青蘭は立ち上がった。優雅に裾を払い、苦笑しつつ夫となる青年を見上げる。
「すぐに意地の悪いことを仰るのですから」
「吾がそなたに甘すぎると評したのは、他ならぬあなただろう」
「――そうでしたね。すべきこと、可能なこと、不可能なこと、その三つを定めて納得したはずなのに、結局はなかなか思い切れずに、いつまでも鬱々と物思いに耽ってしまって……」
誰しも割り切れないものを抱え込んでいる。けれどそれを顔には出さない。碧柊も例外ではない。
青蘭は女性だからと大目に見てもらえることを密かに望んでいる自分に気付いている。だからこそ厳しく己を律しなければならない。
それを承知している碧柊は、わざとからかうような苦い物言いをする。青蘭も分かっているから一々腹をたてたりはしない。
「無理に割り切る必要はない。吾とてそれは無理だ。それはそれとして置いておくしかあるまい」
「悩んだり苦にしたりすることは構わぬと?」
「それが人の情と云うものだ。自然なことだろう。情を殺す必要も、凍らせることも不要。それを失ってしまうことの方を恐れるべきだと吾は思う。だからといって情に振り回されて良いとは云わぬ。時と場と状況を弁えろ。迷いの涙は人前で流すべきでない。人目のないところでだ。吾の前はかまわぬがな」
「――上に立つつもりなら、いついかなる時も微笑んでいなければなりませんね」
「そなたは無表情が得手ではなかろう。では、作り笑いで良いから笑顔の方が誤魔化しもきこう」
青蘭はかすかに首をかしげて微笑んでみせる。
「お言葉ですが、私は雪蘭と頻繁に入れ替わって王女と女官を演じ分けていたのですよ。それらしく表情を制御することにも慣れております」
「ならば心強いものだが――吾と諍いすると覿面顔に出ておられるようだが」
「……それはあなたがからかうから」
「愛情が絡むとまた勝手が異なろう」
にやりと口の端を歪められ、青蘭はすかさず赤くなる。
「今はあなたのことを考えていたわけではありませんから」
ぷいとそっぽを向く。肩にそっと手が置かれた。
「肉親への想いも愛情の一つだ。完全に制御できるはずもなし、する必要もない」
耳元でささやかれたわけではない。肩に温もりと重みを感じたのも一瞬だった。
青蘭は俄かに生じた眦の熱を冷ますように大きく瞬きし、宿に戻りましょうと碧柊を促した。




