第7章 聖地 10
即位と盾の選定の日取りが決まったことを、雪蘭は事前に知っていた。
息のかかった覗見はすでに城中に幾人も放たれている。今、どのような問題が持ち上がりいかように対策が練られ、次にどんな手が打たれるのか、ほぼ時間差なく知ることができる。
それでも分からないこともある。その最たるものは城の主であり、東葉の頂点に立とうしている明柊だった。
「あなたはご自分の即位式だというのに、眉一つ動かさないのですね」
指先が白い頬をなぞる。爪の甲だったため、かたい感触があとに残った。
貴公子然とした優雅な容姿だが、その腕は意外なほど逞しく、指も武骨に節くれだった武人のものだ。太刀を握る手の爪は、意外なほど綺麗だった。手入れしているのだろうか。彼ならやりそうだが、武人の手に光る爪はなんとも釣り合いが悪いように思われた。
「なにを考えていらっしゃる?」
間近に瞳をのぞきこまれても、雪蘭は身じろぎ一つしない。
爪のことをと答えてもかまわなかったが、口癖のようにまた「別段なにも」と応じていた。
切れ長の目と形の良い眉。至近距離で見てもこの男は整った顔をしている。従兄である蒼杞も負けず劣らずだが、華やかさでいえばこの男にはかなわないだろう。
武人の手より詩人か楽人のそれの方が似合いそうだが、彼が優れた軍人であることもまた間違いない。
「私が気に入らないからと云って、他の男を盾に選ぶような真似はしないでいただきたい。死人が増えるだけです」
楽しそうに囁いて、彼は身を引いた。
そこはまた東宮の庭の四阿だった。陽が傾きつつあるため、風は昼間と比べればわずかに涼しい。玻璃の茶器にはいつものように氷が浮かんでいる。
一度ここへ雪蘭を誘って以来、明柊はなにかといえば後宮から遠く離れたこの庭へ連れ出す。歩くことは苦にならないが、盛夏の昼下がりにはありがたいとはいえない。それをいつも詫びるにも関らず、次に案内されるのも同じ四阿なのだった。
盾の選定はとっくに形骸化し、婚礼の儀式でも形式的行われるだけとなっていた。選定と称しながらも候補は夫となる男性一人だけで、他に選ぶ余地などないのが通例となっていた。
文字通り有名無実化していたその儀式を、明柊は本来の形で再現するため自分以外の候補も用意しているらしい。
「ならば常のように他の候補など置かねばよいではありませんか」
雪蘭は薄く冷笑する。
「それでは意味がない。あなたは“王妃”になるのではなく、“女王”となられるのです。“王の盾”は選び抜かれたものでなければ意味がない。それをご存知のくせに意地の悪いことを仰せになるものだ。それほどに私がお嫌いですか」
大仰に嘆いてみせる姿に、雪蘭は小さく息をつく。もう呆れる気も起こらない。
「私に明柊殿を選ぶように脅しをかけておいて、選び抜くもなにもあったものではありませんわね」
「どのような方法であれ、自分を選ばせることができるのも実力のうちです」
悪びれることもなく、むしろ得意げに微笑む。
雪蘭は莫迦らしさにまともに応酬する気も起きず、その笑顔を無視して茶器に手をのばした。
「私は無駄なことが嫌いですから、分かりきった茶番を長引かせるつもりはありません」
冷淡に切り捨てると、彼は嬉しげにまた身を乗り出してくる。
「俺はあなたのような聡明な女性も大好きですよ」
「――」
熱っぽい囁きに、雪蘭は膝の上にのせていた扇を手に取り、うるさい虫でも追い払うように彼の眼前で振り仰いだ。
文字通り追い払われた明柊は、切なげに胸に手を押し当て苦悶の表情を浮かべる。
「本当につれない方だ……だが、それがまた良い。これ以上俺を惑わせて、いったいどうなさるおつもりですか?」
「――そのまま道に迷って戻ってこられなくともよろしいですわ」
「ご心配は無用です。俺は生れながらのさすらい人です。あなたにお会いするためにこれまでずっと彷徨ってきたのです。どのような困難があっても、必ずやまたあなたのもとにたどりつくでしょう」
「……」
心底うんざりした雪蘭は眉をひそめ、答えるかわりに茶と一緒に口内に流れ込んだ氷の欠片を思い切りよく噛み砕いた。小気味よい音が響き、明柊は驚いたように目を瞠ったのち、たまりかねて笑いだす。
「あなたでもそのような真似をなさりますか」
「私はただの小娘に過ぎません」
涼しい顔で云ってのけたが、雪蘭は内心ではひどく動揺していた。
彼の言動に苛立っていたのは、おそらく伝わっていただろう。隠すつもりもなかったのだから。だが、それを先ほどのような形であらわしてしまったのは、雪蘭にしては珍しい失態だった。苛立ちも厭味も計算ずくでなければならない。にもかかわらず、感情任せに氷を噛み砕いてしまうとは。
たまたま、氷が解け残っていた。それが偶然、雪蘭の口内に滑り込んだ。氷の切片を意識したことも覚えている。その硬い歯触りを砕いたのは、衝動的だった。それは偶然ではない。
雪蘭は子供の頃から感情を制御してきた。感情的に振舞うことがあっても、それはあくまで計算した上でより効果的だと判断した時に限られた。言動も振舞いも制御することに慣れた彼女にとって、感情の赴くままに行動することは恥辱以外の何物でもない。
先ほどの行動は正しくそれだった。
自分を律することに慣れた彼女としては、不覚にもなかったことにしてしまいたいことだった。しかしそれではみっともないにもほどがある。失態よりも見苦しさを恐れる雪蘭は、自分のことを小娘と評して己の愚かしさも弁えているふりをするほかなかった。
「あなたは思いのほか愛らしくいらっしゃる」
ふざけた口ぶりで耳元で囁かれ、羞恥にさっと頬を染めたのを、明柊は見逃さなかった。