第7章 聖地 9
宿に戻ったのは夕刻近くになってからだった。
あの後、袁楊もまじえて改めて場が設けられた。神殿側では大神官がすべての決定権を持つが、補佐として権大神官二名が加わった。
主に口を開いたのは権大神官たちと袁楊・里桂の四人で、後の三人は黙ってそのやりとりに耳を傾けていた。
それにもようやく片がつき、神殿を辞す頃には朝の人の海は嘘のように引いていた。朝、参拝を済ませた者はその足で帰途につく。それと入れ替わりに、また新たな参拝者が聖地を踏む。
依然、参道は混みあっているが朝のそれとは比較にならない。一行はそぞろ歩く人々の間を疲れた足取りで宿へ向かった。前日の同じ時刻には、あれほどひやかすのが楽しかった店先も、のぞいてみる気も起きなかった。
青蘭はあてがわれた部屋に引き揚げると、長椅子に身を横たえた。夕食間近だが、食欲も気力もない。
蒼い顔で言葉少なにぐったりしているのを見かねたように、侍女が淹れたての香草茶をさしだしてくれる。茶器を受け取れば、やわらかな香りに包まれた。それを深々と吸い込むと、ようやくぴりぴりと張りつめていたものが緩んでいくようだった。
ほっと息をついて椅子の背に凭れかかる。
「ずいぶんな人の数でしたから、お疲れになられるのも無理ないことでございましょう」
侍女には本当の目的は伝えていない。
いくら混んでいると云っても、普通の参拝は昼過ぎには終わる。それが長引いたのは、ひとえに青蘭達の身分が高い故だと彼女は思っているようだった。
「ええ、本当に多かったわね――あなたは心行くまで祈ることができて?」
微笑みかけると、侍女は心の底から嬉しそうに「はい」と大きく肯く。青蘭達が神殿へ出向いている間、供の者たちにも参拝が許された。
彼等の信仰の篤さに、青蘭はひそかに驚いていた。
このような時世だというのに、聖地を訪れる人々の数に特に変化はないという。王家や貴族たちの混乱は、まだ彼等の生活を大きく左右するほどではないらしい。ある種の膠着状態にあり、誰もが蒼杞の出方をうかがって動きようがないともいえる。だが、いざ漣一つたてば、それは大規模な内乱に発展する可能性を秘めている。そうなれば無関係でいられる者などいなくなるだろう。
彼等は王女の東葉への嫁入りからはじまった一連の争乱をほとんど知らない。国境近くの住人たちですら、縁談が調ったはずなのにまた両国間でいざこざがあったらしい位にしか認識していない。
それは蒼杞が侵略行為に及んだのが専ら東葉王都周辺に限られ、その後も形式的に明柊と戦火を交えただけで早々に撤退したせいもあった。
青蘭王女の“降嫁”に関連して前王が息子に処刑され、現在王位が空席となっていることも王都の周辺にしか伝わっていない。
彼等に実害をもたらす人間が王位に就かない限り、彼等にとって上に座る者が誰であろうと大差はない。
女王は彼等が崇める女神の直系の娘であり、その夫となる者もその血縁と決まっている。尊い血をひく女王をいただく限り、それがどれほどめまぐるしく交代しようと彼等には関係ない。問題なのはそれにともない国内が揺れ、時に内紛へと発展して自分たちも巻き込まれるような事態に限られた。
王都では蒼杞による神官の粛清がはじまっている。それは父である前王の処刑の直後から開始された。敬愛する神官の首が次々と曝され、王都の住人達は震え上がっていることだろう。
権力と金への執着に蝕まれ、その腐敗ぶりが問題となっているのは一部の高位の神職たちで、日頃庶民と親しく接しているような末端の神官の多くは善良で親切だった。しかし、蒼杞はそんなことなどおかまいなしに、神官と云うだけでひとくくりにしている。
女神の血縁がその神官を狩る。その事実を人々はどんな風に受け止めているのだろう。
女神の血をひくとされる自分がどの程度の人間なのか承知している青蘭は、女神を信じていない。もし、本当に存在するのなら、その子孫の繰り返す愚挙をいつまでも傍観していないだろう。
それとも、建国のはじめ、国を平らかにするために自ら力をふるったとされる女神のように、その子孫にもおのが力でたちむかえというのだろうか。それならば納得もできるのだが。
茶器が空になる頃には、あれほど重かった疲労感も薄らいでいた。緊張に伴う気疲れを原因だったらしい。気がつけば、窓の外に夕闇が迫っている。
窓際に立って参道を見下ろせば、どこよりも一足早く訪れる夜に備えて既に灯りが点されている。
「姫さま、里桂さまよりお越し願えますかとの伝言です」
沈思しているところに、遠慮がちに声をかけられる。
話はまだ終わったわけではなかったことをようやく思い出し、青蘭は小さく頷いた。よほど疲れた顔をしてしまっていたのだろう。青蘭が一息ついて気力を取り戻すまで待っていてくれたに違いなかった。
食堂に降りると、そこにはすでに碧柊たちが顔をそろえていた。
神殿からの短い帰途、碧柊は青蘭の肩を軽く叩いて微笑んでみせただけで、なにも云わなかった。あえて茶化してみせたかと思えば、話す気力もないときはそれも察してくれる。臨機応変な彼の気遣いは、ありがたかった。
挨拶もそこそこに、青蘭が席に着くと袁楊が切り出した。
「岑州より新たな報せです。いよいよ苓公の婚儀の日取りが決まり、蒼杞殿も即位の段取りをはじめたようです」
正確には即位するのは蒼杞の妻であり、青蘭の従妹でも王女である。蒼杞はこれまで歴代の王と同じく、女王の夫である“王”として国権を手にするつもりでいることは明白だった。
「――そうですか」
青蘭はさっと顔を強張らせつつも、平静な声で頷いた。
「即位にまつわる表立った動きは、苓公の婚儀が終わるまでお待ちいただく。蒼杞殿の即位に関し考慮する必要はないでしょう。なにより尊い直系の王女は間違いなく青蘭姫であり、われら王統家八門中五家の同意がとりつけられれば総意とみなされる。これに基づき、どなたが正統な王であるかを宣言し、加えて大神官の支持が明示されれば、偽物が誰であるかは明らかになる。偽王は討伐のちょうどよい旗頭ともなりましょう」
里桂の言葉にいちいち頷きながらも、青蘭は浮かない顔だった。
「その五家、いえ残り四家の同意は得られそうなのですか?」
「……王都ではとらわれた六公の首すべてがさらされたそうです」
逃げ延びたのは里桂と、彼と親しかった李州公のみだという。李州公も、里桂と共に蒼杞の帰国前に王都から落ち延びている。処刑された六公にはそれぞれ後継者がある。彼等が蒼杞を支持することはないだろう。
青蘭は総毛立つのをなんとも堪えようがなかった。兄がいったいなにをしようとしているのか皆目見当もつかない。
「その理由は?」
「罪状は反逆と涜神」
論拠は前王の処刑と同じものなのだろう。それでも青蘭は問わずにいられなかった。
「誰への反逆だと?」
「神への、だそうです」
「……なにを――誰をもって神を騙ると……紅蘭殿しかありませんね」
それは従妹の王女の名だった。
青蘭と紅蘭、直系とみなされる王女はこの二人しかいない。その中でも前の“女王”と“王”を両親とする青蘭の方がより正統とされるが、青蘭の身になにかあれば彼女がその代わりを務めることになる。その彼女こそが蒼杞の妻だった。
「紅蘭姫はすでに一女がおありだ」
「私に娘ができなければ、その姫が後継となるでしょう」
「できることなら無事に身柄を保護すべきでしょう」
里桂の言葉に青蘭も同意する。直系の王女の血統が絶えるような事態だけは避けなければならない。
「しかし、あくまでできれば、です。今はまず、青蘭さまの御即位の段取りをつけねばなりません」
忙しくなりますよ、と袁楊が微笑む。
鬱々とした様子で唇を噛んでいた青蘭は、その言葉にまた悪い癖を繰り返していることにはっとした。同時に碧柊と目が合う。慌てて口元を押さえると、彼はからかうように口の端を歪めた。
「そういうことだ、悪い癖を繰り返している暇もなくなろう」
「それは碧柊殿下も同じ。おちおちしてはおられませぬな」
里桂の茶々に、碧柊は気が重いとでも言いたげに溜息をつく。
「盾の選定を二度も行う羽目になろうとはな」
「その二度共に選ばれれば、誰も殿下が盾であることに異論は唱えられなくなりましょう。一石二鳥ではありませんか」
「他人事だと思うて軽々と云ってのけてくれる」
「他人事ですから」
嘆く碧柊に、袁楊はにこやかに笑う。
それは神殿への譲歩からはじまったことだった。
神殿が王位継承に絡む前例を作ることになってしまったため、その影響力を最小限に抑えることが必要になる。その抑止策として、次の王位を定める決定権を三分割することを里桂たちは提案した。
一つは前代の王による指名、もう一つは王統家の支持、そして神殿の支持。この三つが揃わなければ正式な王と承認されない。
まだ骨格だけの素案に過ぎないが、大神官も概ねそれで承知した。
苓公の結婚と蒼杞による紅蘭の即位後を狙っての青蘭の即位には、西葉の王統家しか関わることができない。そのため青蘭の最初の即位はあくまで仮とし、最終的に東西の統一が成った後、東葉の王統家もまじえた上で正式に即位式が行われることが提案されている。それはすなわち盾の選定が二度行われることでもあり、二度目の選定こそが正式な指名となる。
碧柊はその二度共に選ばれなければならなくなってしまったのだった。